第24話 デリバリーのピザと、四人の食卓
ノートを届けに来ただけのはずが、三桜さんに腕を引かれて上がり込み、帰ってきた一花さんと二葉さんに連絡先まで交換させられて。
気がつけば、広すぎるリビングの窓の外は、すっかり夜だった。
「それじゃ、俺はそろそろ――」
「えっ、帰っちゃうの!? ダメダメ、せっかく来てくれたんだし、ご飯食べてってよ!」
「そうよ。ノートを届けてくれたお礼も兼ねて、夕食を御馳走するわ」
「でも、悪いだろ……」
「帰さない」
二葉さんが、短く言い切った。
有無を言わせない静かな圧に、俺の反論が喉の奥で行き場を失う。
一花さんが、その隙にぴょんと跳ねた。
「いいの! 金曜日だし、パーッとデリバリーにしちゃお! ピザでいい?」
「いいの!? やったぁ!」
「あたしはマルゲリータね」
二葉さんがスマホを取り出しながら、冷ややかに口を挟んだ。
「注文は私がする。一花はいつもトッピングを間違えるから」
「一回だけじゃん」
「三回よ」
「……ごめん」
真顔で容赦なく事実を突きつけられて、一花さんが素直にしゅんとなる。
この姉妹の会話の速度は、俺の常識のはるか外側にある。
二人は「注文しておくから」と、着替えのためにそれぞれの部屋へ向かっていった。
それから数十分後。
熱々のピザが届き、四人分のコーラがグラスに注がれる。
部屋着に着替えて戻ってきた一花さんと二葉さんは、当然のように俺の両隣のスペースを陣取っている。
向かい側には三桜さんが座り、俺は完全に三方向から包囲される形になった。
「はい、誠。この海鮮のやつ、あたしのおすすめ! あーん」
一花さんが、とろけるチーズがたっぷり乗ったピースを俺の口元へ突き出してきた。
胸元が大胆に開いた部屋着のせいで、身を乗り出すと柔らかな谷間のラインがくっきりと強調される。
逃げ場がない。
「ちょ、一花さん、自分で食べるから」
「えー? せっかくあたしが食べさせてあげようと思ったのに。照れてんの?」
「一花。それはただ、マコトに密着したいだけの口実でしょう」
左隣から、二葉さんが無言で俺の取り皿にピザを乗せながら指摘した。
「なっ……違うし! これは純粋な親切心だかんね!」
「そう言いながら、肩を押し付ける必要がどこにあるの」
「これは……あれ、あれよ。誠の体温、風邪ひいてないか確かめてあげてるだけだし」
「熱を測るのに、肩を押し付ける必要はないわ。おでこか首筋でしょう」
「……うるさいなぁ、二葉は!」
「事実を指摘しただけよ」
図星を突かれたのか、一花さんがわかりやすく耳を赤くしてそっぽを向く。
「……マコト。あんな脂っこいものより、こっちのほうが栄養バランスが良いわ」
二葉さんが、箱の中で一番具が多そうな、ベーコンと野菜がたっぷり乗ったひと切れを俺の皿に押し付けてきた。
「ありがとう。でもこれ一番具が多いやつだし、二葉さんが食べればいいのに」
「合理的な配膳よ。マコトは育ち盛りなのだから、しっかり食べなさい」
二葉さんは淡々と告げながら、そっと俺の肩に自分の肩を寄せてくる。
「ちょっと二葉! 自分だって密着してんじゃん!」
「私は違うわ。ただ最適な距離を保っているだけよ」
真顔で言い切る二葉さんだが、その耳の先もほんのりと赤く染まっていた。
ひんやりとしたシャンプーの香りと、着痩せした服越しに伝わる予想外の重みが、俺の理性を激しく削りにくる。
これは、まずい。
「あ、私も! 誠くん、こっちのマルゲリータも食べて!」
向かいから三桜さんが身を乗り出して、ピザを差し出してきた。
左右と、正面。
完全な挟み撃ちだ。
「一人ずつにしてくれ……」
「あたしが先」
「私が先だもん!」
「順番は関係ないわ。マコトが食べたいものを自分で選べばいい」
二葉さんが冷静に仲裁するかと思いきや、ピザの箱の位置をさりげなく俺のほうへ数センチずらした。
ずれたことに気づいた一花さんが、にやりと笑う。
「二葉、箱ずらしてんじゃん」
「気のせいよ」
「嘘つけ」
「データを見せなさい。ピザの箱が動いたと、この場で証明して」
「めんどくさ……」
一花さんが呆れた顔で笑い、二葉さんが涼しい顔でコーラを飲む。
三桜さんはいつの間にか、俺の取り皿にマルゲリータのひと切れを乗せていた。
いつやったんだ。
「じゃあ私、コーラのおかわり注いでくるね!」
三桜さんが立ち上がり、大きなペットボトルを持ち上げた。
だが、手元が狂ってペットボトルの底がテーブルの角にぶつかりそうになる。
「っと」
二葉さんが反射的に手を伸ばし、ペットボトルの側面を支えた。
「三桜。何度目?」
「あ、ご、ごめんなさい、二葉ちゃん」
「両手で持ちなさいと、前にも言ったでしょう」
二葉さんがペットボトルを三桜さんの手に持ち直させながら、小さくため息をつく。
叱っているようで、その手つきは慣れきっていた。
「ほらほら、あたしがやるから。三桜はピザ食べてな」
一花さんが笑いながらペットボトルを受け取り、俺のグラスに手際よくコーラを注ぐ。
流れるような三人の連携に、俺は少しだけ目を丸くした。
言葉にしなくても、お互いの動きを完全に把握しているような、生活の呼吸。
それは、ずっと三人だけで生きてきたからこそ生まれる、確かな家族感だった。
「二葉ちゃんは、誠くんのお母さんみたいだね」
三桜さんが、何の気なしに、ぽつりとそう漏らした。
その瞬間、二葉さんの手が、ほんの一拍だけ、止まった。
「……やめなさい、三桜」
「ふぇ?」
二葉さんは短くそう言うと、目を伏せて、空のグラスの縁を指先でそっとなぞった。
お母さん、という言葉が、一瞬だけ、食卓の空気を揺らす。
三桜さんは気づいた様子もなく、きょとんとした顔でクッションに頬を埋めていた。
「ん〜、食べた食べた。ねえ誠、うちの家どう? なんか落ち着かないって顔してるけど」
一花さんが大きく伸びをしながら、空気を掬い上げるように言った。
「……正直、広すぎて落ち着かない」
「あはは、だよね。引っ越してきた初日なんて、三桜がフロア間違えて、よその家のインターホン鳴らしたんだよ」
「ま、迷子になったわけじゃないもん! どの階も扉が同じなんだもん!」
「それを迷子って言うんだよ、三桜」
一花さんが三桜さんの頬をつつく。
三桜さんが頬を膨らませて、クッションを盾のように持ち上げた。
「……三人だけで住んでるのか?」
ふと、口からそんな問いがこぼれていた。
ピザを頬張っていた一花さんが、少しだけ動きを止める。
「あー、うん。親は仕事で海外を飛び回っててさ。基本、昔からずっと三人だけで生活してるんだよね」
明るく笑い飛ばす声だった。
けれど、その声の底に、ほんの一瞬だけ、寂しさのような別の色がよぎった気がした。
二葉さんが、無言でピザの空き箱の端を揃え、テーブルの端にきっちりと直角になるように置き直す。
三桜さんは、抱え込むようにしてクッションを胸にぎゅっと押し当てていた。
「……寂しくないのか」
「んー、慣れちゃった。三人いれば大丈夫っしょ」
「一花お姉ちゃんがいるから寂しくないよ。二葉ちゃんもいるし」
三桜さんがクッションに頬を埋めたまま、穏やかに笑う。
「……三人で十分よ」
二葉さんが短く言って、空のグラスを指先でそっと回した。
沈黙が、数秒だけ落ちる。
広すぎる部屋の中で、三人だけが身を寄せ合って生きてきた時間が、その小さな仕草から透けて見えるようだった。
「だからさ、誠が来てくれて、すっごく新鮮! ねえ、明日も一緒にご飯食べない?」
一花さんが、すぐにいつもの小悪魔的な笑顔を作って、空気をぱぁっと明るく塗り替えた。
俺の腕に絡みつき、上目遣いで甘えてくる。
「いや、毎日はさすがに迷惑だろ」
「迷惑じゃないわ。マコトの食生活を管理するのは、悪くない」
二葉さんが、きっちりと揃えた箱から視線を上げて、真顔で言い放つ。
「私、料理の練習するね! ハンバーグ以外も作れるようになるから!」
三桜さんも、クッションを抱えたまま前のめりになって声を上げた。
三者三様の好意が、三方向から一気に押し寄せてくる。
誰か一人を選ぶなんて、今の俺にはとてもできそうにない。
「……善処するよ」
俺がため息混じりに答えると、三人が顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
賑やかな食卓の時間が、あっという間に過ぎていく。
食後の片付けも終わり、そろそろ帰らなければならない時間だ。
俺がソファから腰を浮かせようとした時、三桜さんが、少しだけ頬を赤くして俺の袖を引いた。
「あのね、誠くん。もしよかったら……ちょっとだけ、私のお部屋、見ていかない?」
空気が、ぴたりと止まった。
右から、左から、凄まじい圧が俺に向けられるのがわかる。
「は? 三桜、あんた何言ってんの? ずるいずるい!」
「……三桜。抜け駆けを許可した覚えはないわよ」
一花さんが俺の右腕をがっしりとホールドし、二葉さんが左側から俺の退路を完全に塞いだ。
三姉妹の修羅場は、どうやらまだ始まったばかりらしい。




