第23話 ひとりの出迎えと、広すぎるリビング
公園で三桜さんと別れてからすぐ、俺は以前聞いていた住所を頼りに歩き出し――見上げるような高さのマンションの前に立って圧倒されていた。
駅から少し歩いた閑静な住宅街に建つ、セキュリティの厳重な高級タワーマンションだ。
「……本当にここであってるよな」
確認のためにスマートフォンを取り出し、三桜さんから聞いていた部屋番号を見直す。
間違いない。
オートロックのインターホンを鳴らすと、すぐに弾んだ声が返ってきた。
「はーい! あ、誠くん! 今開けるね!」
自動ドアが開き、広すぎるエントランスを抜けてエレベーターで上階へ向かう。
ホテルのような内廊下は、足音さえ吸い込まれてしまうほど静かだった。
夕暮れの公園で聞いたまっすぐな『大好き』の余韻を胸に抱えて来たはずなのに、今は別の戸惑いのほうが先に来る。
これほど大きな建物に、生活の匂いがまるでしないのだ。
教えられた部屋のインターホンを押すより早く、ドアの向こうで何かが倒れる音がした。
それからドタドタと走る足音が近づいてきて、勢いよくドアが開く。
「い、いらっしゃい、誠くんっ!」
三桜さんが、息を切らしたまま満面の笑みで立っていた。
制服ではなく、もこもことした柔らかい素材の部屋着姿だ。
普段の制服姿よりもずっと幼く見えて、身体のラインの華奢さが柔らかい布越しに際立っている。
ゆるい襟ぐりが片方だけずり落ちて、白い肩が覗いている。
「……三桜さん、肩」
「へ? あっ」
三桜さんが慌てて襟元を引き上げる。
耳まで真っ赤になりながら、それでも笑顔は崩さなかった。
「着替えたばっかりで……あ、それより、どうしたの?」
「……お邪魔します。その、急にごめん。さっき公園でノート忘れてたから、届けようと思って」
「えへへ、ありがとう! 上がって上がって!」
三桜さんは俺の腕を両手で掴むと、ぐいっと部屋の中へ引き入れた。
無防備なほど密着した距離から、甘いベビーパウダーの匂いが体温と一緒に伝わってくる。
腕に押し当てられる布越しの予想以上の柔らかさに、俺は心臓が跳ねるのを必死に堪えた。
「ちょ、三桜さん、近いって」
「いいの! 今日は私しかいないんだから」
靴を脱いで上がると、廊下の広さに足が止まった。
三人暮らしの我が家なら物が溢れているところだが、ここには何もない。
壁に掛かっているのは小さなカレンダーだけで、靴箱の上にあるはずの鍵やレシートの類いも見当たらなかった。
案内されたリビングは、驚くほど広かった。
白い壁と磨き上げられた床に、質の良さそうなソファと大きなローテーブルが置かれている。
完璧に片付いているけれど、どこか静かすぎる空間だ。
「三桜さん、ここ……広いな」
「えへへ、そうなの。広すぎて寒いくらい」
三桜さんがソファに座るなり、抱きかかえるようにクッションを胸元へ引き寄せた。
丸いクッションに頬を埋めて、くすぐったそうに笑う。
「一花さんと二葉さんは?」
「あ、買い出しとか寄り道してから帰るって言ってたよ」
三桜さんはそう言いながら、ソファの隣をぽんぽんと叩いた。
ここに座れという合図らしい。
「はい、これ。ノート」
「あっ、ありがとう誠くん! ほんっとにごめんね、忘れちゃって……宿題のノートだったから、なかったら大変だったの」
「やっぱり宿題か。届けに来てよかった」
「うん。誠くんが拾ってくれてなかったら、月曜に提出できなくて先生に怒られてたよ……」
三桜さんが両手でノートを抱きしめる。
大事なぬいぐるみを取り戻した子供のような顔だ。
それからノートをテーブルの端にそっと置いて、勢いよく立ち上がった。
「適当に座っててね。お茶淹れてくるから」
俺は促されるままソファに腰を下ろし、ふとローテーブルの端にある物に目を留めた。
薄くて可愛らしい、ピンク色のノートパソコンだ。
天板にはデフォルメされた猫や星のキャラクターのステッカーが、所狭しと貼りつけられている。
その横には色違いのヘッドホンが、無造作に置かれていた。
「……これで、エデンを?」
俺は内心で首を傾げた。
あんなに薄くて可愛らしいノートパソコンで、あの重たい『エデン・オンライン』をまともに動かせるとは思えない。
俺の自室にあるようなごついデスクトップ機は見当たらず、この部屋にあるのはあの可愛らしい端末だけのようだ。
ルナの正体を探ろうという目論見も、どうやら空振りらしい。
張り詰めていた肩の力がふっと抜けて、どこかホッとしている自分に気づく。
「お待たせー! 麦茶でよかった?」
三桜さんがグラスを二つお盆に乗せて戻ってきた。
テーブルに置こうとした瞬間、グラスの一つがぐらりと傾く。
「わっ……!」
「危ないっ」
俺がとっさに手を伸ばしてグラスを支えると、三桜さんの手が俺の手に重なった。
「ご、ごめんね誠くん……私、いつもこうで」
「気にするな。こぼれなかったから大丈夫だ」
「うん……」
重なった手のひらから、三桜さんの体温が直に伝わってくる。
上目遣いで見つめられ、俺は慌てて手を離した。
この無自覚な距離感の近さは、本当に心臓に悪い。
「ねぇ、誠くん。さっきのシフォンちゃん、無事に帰れたかなぁ」
「あの子猫か。飼い主の子が見つけてくれたし、大丈夫だろ」
「うん、そうだよね。……あの時、誠くんが一緒に探してくれて、本当に嬉しかったなぁ」
三桜さんがクッションに顔を半分埋めて、上目遣いに俺を見た。
さっきの『大好き』が、夕陽の色ごと胸に蘇る。
「あ、あのね。さっき、公園で言ったことなんだけど……」
三桜さんがもじもじと指先を絡ませながら口を開きかけた時だった。
玄関のドアが、がちゃりと開く音がした。
「ただいまー。ねえ三桜、駅前のケーキ屋で期間限定のやつ買って……って、ええっ!?」
リビングに入ってきた一花さんが、ソファに並んで座る俺たちを見て目を丸くした。
後ろから続いて入ってきた二葉さんも、ぴたりと足を止める。
「……どういうことかしら、三桜。マコトがここにいるなんて聞いていないけれど」
二葉さんの静かな声が、リビングの温度をスッと下げた気がした。
三桜さんが、びくっと肩を揺らす。
「ち、違うの! 私が忘れ物したのを、誠くんが届けてくれただけで!」
「ふーん? 忘れ物ねえ……」
一花さんはケーキの箱をテーブルに置くと、ずいっと俺の顔を覗き込んできた。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。
「誠も人が悪いっしょ。来るなら来るって、あたしにも連絡してくれればよかったじゃん?」
「いや、偶然だから。連絡先も知らないし」
「えっ、そっか! じゃあ今交換しよ!」
一花さんが俺の隣にすとんと腰を下ろして、そのまま肩にぽんと頭を乗せてきた。
ゆるふわに巻いた茶髪が、頬をくすぐる。
「一花さん、重い……じゃなくて、近い」
「重いって言いかけたでしょ」
「言ってない」
「言いかけた。聞こえた」
「……すみません」
「よろしい」
一花さんがけらけらと笑う。
この人は本当に、距離感というものが存在しない。
「……一花。マコトが困っているわ。まずは制服を着替えなさい」
二葉さんが呆れたようなため息をつきながら、一花さんの襟首を軽く引いた。
「えー、二葉だって絶対交換したいくせに」
「……それは、合理的に考えて連絡手段があったほうが便利だというだけの話よ」
二葉さんは真顔でそう言い切りながら、なぜか耳の先をほんのりと赤くしていた。
なんとか連絡先の交換を終え、俺はふと外の暗さに気づく。
来たときはあれほど静かだった部屋が、いつの間にか三人ぶんの声で埋まっている。
……そろそろ帰らないと、本当に動けなくなりそうだ。




