第22話 泥まみれの大好きと、忘れ物のノート
帰り道の公園で泥だらけになりながら、三桜さんと二人で探し回った子猫。
ようやく滑り台の下から救い出して、小さな体が彼女の手のひらに収まった――その矢先だった。
子猫を抱いたままの三桜さんと、思わず顔を見合わせる。
声のした入口のほうから、小さな女の子が走ってきた。
後ろからお母さんらしき女性も、息を切らせてやってくる。
「あの、白い子猫を見ませんでしたか!? うちのシフォンが逃げちゃって……」
「この子かな?」
三桜さんが振り返って、子猫をそっと差し出した。
「シフォン!」
女の子が泣き笑いの声を上げ、子猫を受け取って抱きしめる。
「ありがとうございます! 本当に……」
「いいんです。見つかってよかった」
三桜さんがにっこりと笑う。
自分のことよりも、女の子が喜んでいることのほうが嬉しそうだ。
何度もお辞儀しながら去っていく母娘を見送り、公園に二人だけが残された。
夕陽がさらに傾いて、三桜さんの横顔を赤く染めている。
「あーあ、制服泥だらけになっちゃった。一花お姉ちゃんたちに怒られちゃうかも」
「俺のほうも泥だらけだ」
お互いの無惨な姿を見合わせて、思わず吹き出した。
「ふふっ、誠くん、顔にも泥がついてるよ」
「三桜さんもだろ。……ほら、頬のところ」
「えっ……あ、ほんとだ。ここも? ここも汚れてる?」
三桜さんが自分の頬をぺたぺた触るが、手自体が泥だらけなので被害が拡大していく。
「待って、俺が拭くから」
俺はポケットからハンカチを取り出すと、三桜さんの顔に手を伸ばした。
そのまま、泥のついた彼女の頬をそっと拭う。
「え……っ」
三桜さんの肩がビクッと震え、彼女の動きが止まった。
至近距離で見上げてくる、大きな瞳。
ぱちぱちと音がしそうなほどの瞬きに合わせて、夕陽に透ける睫毛が金色に光った。
ハンカチ越しに伝わる頬の柔らかさと体温に、指が止まる。
「……誠くん、近い……」
蚊の鳴くような小さな声。
俺の手から伝わる三桜さんの頬の熱が、急激に上がっていくのがわかった。
「あ、悪い。つい……」
俺が手を離そうとすると、三桜さんはふいに両手で俺の手首を包み込んだ。
小さな手のひらから、じんわりとした温もりが伝わってくる。
「ううん、嫌じゃないの。ただ……ちょっとドキドキしちゃって」
恥ずかしそうに伏せられた目元が、たまらなく愛おしく見えた。
三桜さんはしばらく俺の手首を握ったまま、ぽつりとこぼす。
「あのね、さっき、誠くんが『俺も探す』って言ってくれた時……すごく嬉しかった」
「別に大したことしてないだろ。探しただけだし」
「ううん、そうじゃなくて」
三桜さんが、まっすぐ俺を見た。
「誠くんって、いつもそうでしょ。困ってる人を見つけたら、迷わない。鞄を置いて、すぐ来てくれた」
「……それは」
「ゲームのタンクみたいだなって思うの」
「……タンク?」
「うん。誰かが傷つきそうになったら、真っ先に前に出て、盾になってくれるところ。私が転びそうになった時も、あの子を探してる時も……ぜんぶ、迷わなかったでしょ」
心臓が、跳ねた。
俺の一番の芯を、三桜さんは泥だらけのまま、笑って言い当てる。
借り物の言葉ではない。
今日この公園で、自分の目で見て、そのまま口にしている。
「誠くんのそういうところが……私、大好きなの」
空気が、止まった。
大好き。
駆け引きも、からかいもない。
ただそれだけが、夕暮れの公園にまっすぐ響いた。
「……三桜さん」
「私ね、いっつも失敗ばっかりで。一花お姉ちゃんみたいにしっかりしてないし、二葉ちゃんみたいに器用でもないけど……でも、誠くんのことは、すごく大切に思ってる」
三桜さんが、両手を胸の前で握りしめた。
「本物のルナじゃなくても、誠くんの特別になりたい。それだけで……いいの」
泥だらけの制服も、泣くのを我慢していた目元も、全部そのまま。
飾らないまっすぐさが、胸のいちばん深いところに届いた。
一花さんの鮮やかな攻勢とも、二葉さんの静かな重みとも違う。
打算が、一欠片もない。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
でも三桜さんは、それだけで花が咲いたように笑った。
「えへへ。なんか恥ずかしいこと言っちゃった」
「言ったのはそっちだろ」
「だって、誠くんが優しいのが悪いんだもん!」
「意味わからん」
「わかるもん!」
三桜さんの頬が、ぷっとふくらむ。
「わからん側の意見も聞いてくれよ」
「聞かない! もう『誠くんは優しい』で結論が出てるんだもん」
「俺の意見は完全無視か」
「そうだよ。……あ、ムッとした? ちょっと言いすぎちゃった?」
急にしゅんとした顔でこちらを覗き込んでくる。
「してないってば。三桜さん、拗ねてぷくってしてる顔が可愛いから、ついからかいたくなるだけだ」
「……っ、そういうことをすらっと言うのが、優しいってやつなんだからね」
「じゃあ黙るしかないな」
「もぉ、誠くんは!」
笑い合いながら、ベンチに戻って鞄を拾う。
いつの間にか、空はすっかり茜色に変わっていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。じゃあ、また月曜日にね、誠くん!」
「ああ。暗いから気をつけて帰れよ」
三桜さんがにっこりと笑って手を振り、公園の反対側の出口へ小走りに駆けていく。
小柄な背中が夕陽に切り取られて、ふわりと揺れるスカートの裾がオレンジ色に光った。
その背中を見送ってから、俺はふと嫌な予感がしてベンチの脇に目をやった。
「あいつ……」
二人の鞄を並べて置いていたベンチの上に、一冊のノートが置き忘れられている。
拾い上げると、表紙に可愛らしい丸い字で名前が書かれていた。
――綾瀬三桜。
「まったく、本当に放っておけないな」
追いかけようとしたが、三桜さんの姿はもう角を曲がって見えなかった。
俺はため息をつきながらも、そのノートを大事に鞄にしまった。
月曜日に学校で渡せばいいだけの話だが、もし週末の宿題のノートだとしたら困るだろう。
このまま直接、家に届けに行ってやったほうがいいかもしれない。
綾瀬家はここから歩いて行ける距離のはずだ。
西の空に一番星が輝き始めた頃。
俺は少しだけ速くなった足取りで、綾瀬家へと向かって歩き出した。
三者三様の言葉で揺さぶられて、誰か一人を選べるのかと聞かれたら――正直、わからない。
ただ、泥だらけで子猫を探していた横顔と、まっすぐな『大好き』が、夕陽の色ごと胸に焼きついて離れなかった。




