第21話 夕暮れの公園と、消えた子猫
放課後の余韻が、まだ舌の上に残っていた。
三桜さんの不格好なチーズインハンバーグと、「また作ってもいい?」と袖を引いたまっすぐな声。
あの笑顔を、歩きながら何度も思い返している自分に気づいて、俺は小さくため息をついた。
夕暮れの通学路を駅へ向かう途中、いつもの公園の前で足が止まった。
普段ならそのまま通り過ぎる場所だったが、茂みの向こうから切羽詰まった声が聞こえてくる。
「みーちゃん! みーちゃん、どこにいるの……っ」
花壇の脇のツツジの植え込みで、ガサガサと不審な動きをしている人物がいる。
四つん這いになってお尻を突き出し、制服を泥だらけにして懸命に覗き込んでいる人影。
見間違えるはずもない。
「……三桜さん、何やってるの」
思わず声をかけると、三桜さんの肩がビクッと跳ね上がった。
「ひゃああっ!?」
驚いた拍子にバランスを崩し、三桜さんの身体が後ろへ倒れてくる。
危ない、ととっさに俺は鞄を放り出して手を伸ばした。
「わっ……と」
倒れ込んできた三桜さんの背中を胸で受け止めるような形になる。
腕の中にすっぽりと収まった身体は、驚くほど軽くて華奢だった。
制服越しに伝わってくる柔らかい感触と、ベビーパウダーを思わせるほのかな甘さ。
密着した距離に、俺の心臓がドクンと大きな音を立てる。
「あ、あああ……ご、ごめんなさい誠くん!」
顔を真っ赤にした三桜さんが、慌てて俺の腕の中から抜け出した。
顔を上げた彼女の頬には、泥がべったりとついている。
スカートの膝も白い靴下も、もう手遅れなくらい汚れていた。
「怪我はないか? というか、どうしたんだよその格好」
「あのね、さっき公園を通ったら、すっごく小さい子猫がいて……痩せてて、震えてたの。それで抱き上げたら怖がって逃げちゃって」
三桜さんは泥だらけの手を膝の上に置いて、半泣きで説明した。
「ずっと探してるんだけど、見つからなくて……このまま暗くなったら、あの子……っ」
声が詰まった。
泣き出す一歩手前の、けれど諦めていない目だ。
それに――うちでは飼えないから、口に出したことはないけれど、猫は好きだ。
放っておけるわけがない。
「わかった。俺も探すよ」
「え……いいの? 誠くんの制服まで汚れちゃうよ?」
「これくらい、洗えば落ちる。一人より二人のほうが早く見つかるだろ」
「でも……」
「困ってる人を放っておけないのは、三桜さんだけじゃないだろ」
三桜さんの瞳が、夕陽を反射して潤んだように光った。
ふにゃりと笑って、小さく頷く。
「ありがとう、誠くん!」
放り出した鞄を拾って、三桜さんの鞄が置きっぱなしのベンチへ並べる。
俺も茂みの中を覗き始めた。
夕陽が公園全体をオレンジ色に染めている。
「どのあたりで逃げた?」
「砂場のほう。でも走るの速くて……」
「みーちゃんって名前は、三桜さんが?」
「うん。みー、みーってか細く鳴いてたから、みーちゃんって呼んでて」
「なるほどな。それなら、みーちゃんが正しい」
茂みをかき分ける小さな手が、少しだけ止まった。
「でしょ? ……あっ、こんな時に何話してるんだろ、私」
「探しながらでいいから、続けろよ。声出してるほうが、あの子も安心するだろ」
「そ、そっか。じゃあ……みーちゃん、おいでー、怖くないよー」
三桜さんがブランコの影を覗き込み、俺は砂場の縁をたどって進む。
呼びかける声から、だんだん張りが抜けていく。
「焦らなくていい。二人で探せば絶対に見つかるから」
夕陽に染まった横顔が、こくりと頷く。
「……うんっ!」
「小さい猫なら、暗くて狭い場所に隠れてるかもしれない。遊具の下とか」
「あ、そっか! 滑り台の下、まだ見てなかった!」
二人で大きな滑り台の裏へ回り込む。
泥でぬかるんだ地面に足を取られ、三桜さんの身体が大きく傾いた。
俺はとっさに手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き寄せた。
「わっ……!」
勢い余って、三桜さんの身体が再び俺の胸にぶつかる。
今度は正面からだ。
柔らかい双丘の感触が、ブレザー越しにでもはっきりと伝わってきた。
想定外の密着に、思わず息が詰まる。
「ご、ごめんね誠くん。私、どんくさくて……」
至近距離で見つめ合う形になり、三桜さんの吐息が俺の首筋にかかる。
無自覚な物理的距離の近さが、俺の理性を激しく揺さぶる。
三桜さんは本当に、距離感というものを知らないらしい。
「気にするな。暗くなってきたし、足元には気をつけて」
「うん。誠くんが引っ張ってくれたから、転ばずに済んだよ。えへへ」
照れ隠しのように笑う三桜さんから、ゆっくりと身体を離す。
心臓の音を誤魔化すように、俺はわざとらしく咳払いをした。
その時だった。
「みゃあ……」
細い声が、足元から届いた。
地面すれすれまで身をかがめて、滑り台の下の狭い隙間を覗き込む。
「……いた」
滑り台の階段の下、一番暗い隅に、白い毛玉が小さく丸まって震えていた。
「みーちゃん……!」
三桜さんが小さく歓声を上げたが、子猫はびくりと身を縮める。
「静かに。驚かすと逃げる」
「う、うん……」
三桜さんが両手を差し出すようにゆっくりと這い寄り、小さな声で呼びかけた。
「大丈夫だよ……怖くないからね。おいで」
子猫がふるふると鼻を動かし、三桜さんの指先ににじり寄ってきた。
そのまま小さな手のひらに、ちょこんと収まる。
「……すごいな」
「えへへ、猫って、怖がってる人には来てくれないんだよ」
三桜さんが両手でそっと子猫を包み込むように抱き上げた。
「あったかい……よかった、ちゃんと生きてた……」
三桜さんの目に涙が光っている。
子猫を胸元に抱き寄せる華奢な腕が、微かに震えていた。
「誠くん、見て。この子、心臓がすごく速いの」
三桜さんが俺の手を取って、子猫の背中にそっと重ねた。
小さな毛玉の体温と、三桜さんの指先の温もりが、同時に俺の掌に伝わってくる。
とくとくと速い鼓動が、指越しに響いた。
「ほんとだ。怖かったんだな」
「うん。でも、もう大丈夫だよね」
三桜さんが子猫の頭を指先でそっと撫でながら、嬉しそうに笑った。
泥だらけの顔で、世界で一番幸せそうに。
「すみませーん!」
公園の入口のほうから、聞き覚えのない声が飛んできた。




