第2話 転校してきた三姉妹は、全員ネトゲ嫁
三年間ずっと隣で戦ってきた、顔も本名も知らないネトゲ嫁がいる。
その【ルナ】が、ゆうべ突然、俺の学校に転校すると言い残してログアウトした。
そして今朝、二年B組に現れた転校生は、綾瀬一花、二葉、三桜。
同じ顔をした、三つ子の姉妹だった。
三人は自己紹介のあいだじゅう、揃って俺だけを見ていた。
ホームルーム終了のチャイム。
三人が、示し合わせたように教卓を離れた。
まっすぐ、俺の席へ。
「綾瀬さんたち、相沢のとこ行くぞ……」
あちこちから聞こえるひそひそ声。
気づいたときには、俺の机は三方向を美少女に塞がれていた。
右に、一花さん。
机に手をついて、覗き込むように身を乗り出してくる。
少しはだけたブラウスの襟元から、鎖骨の窪みとふっくらした胸元の輪郭が無防備に覗いて、目のやり場に困る。
甘い柑橘の香りが逃げ場を塞ぐように広がった。
——近い。
左に、二葉さん。
一歩分の距離を残して、腕を組んだまま佇んでいる。
清潔感のあるシャンプーの香りが、凛とした空気そのものだった。
正面に、三桜さん。
ベビーパウダーの甘い匂い。
制服の裾を握った小さな手が、かすかに震えている。
三種類の香りが混ざって、頭の芯がくらくらする。
心臓がうるさい。
「ねー、相沢くん。……っていうのは建前ね」
一花さんが、さらに身を乗り出した。
吐息が耳をかすめて、首筋に鳥肌が立つ。
「『ひさしぶり』のほうが正しいよね? ——【リオン】」
心臓が跳ねた。
リオン。
ゲームの中でだけ使う名前を、こんな至近距離で囁かれるとは思わなかった。
「一花。出会って五分で詰めすぎよ。引かれるわ」
「えー、別にいいじゃん。減るもんじゃないし」
「減るのはあなたの株よ。マコトの心象、急降下中なのが分からないの?」
「は? 心象って……あんた今、マコトって呼んだ。フライング!」
二葉さんが、一花さんの肩をすっと引き戻す。
入れ替わるように俺の机へ歩み寄ると、几帳面に折った紙を一枚、滑らせてきた。
『昨日の業火の飛竜。あなたが前で全部受け止めてくれたから、私は安心して極大魔法を撃てた。あの数秒を、私は忘れない』
メモを置く指先が、俺の手に触れた。
——偶然じゃない。
冷たい指が、意図的に俺の指をなぞってから離れていく。
清涼な香りがふっと近くなって、心臓がうるさく跳ねた。
息が止まった。
昨日の夜の、あのボス討伐。
その最後の連携を、まるで自分のことみたいに書いている。
「ふ、二葉ちゃんだって……メモまで用意してる時点で、じゅうぶん必死だと思う……」
三桜さんが、おずおず口を挟んだ。
「だって二葉ちゃん、昨日の夜からずっと——」
「三桜」
二葉さんの短い制止に、三桜さんがびくっと肩を跳ねさせた。
はっと自分の口を両手で押さえる。
「あっ。ち、ちがくて! そうじゃなくて……えっと、誠くん」
三桜さんが身を乗り出してきた。
不意打ちで、柔らかい肩が俺の腕にぶつかる。
華奢で小さな身体の温もりが、服越しにじんわりと伝わった。
「昨日、夜更かししすぎだよ。目、赤いもん。ちゃんと知ってるんだから……っ」
「な——なんで、君がそれを」
夜中の二時まで起きていたこと。
深夜のチャットで、ルナにしか言っていないことを、なんで、この子が。
二葉さんは組んだ腕をきつく抱え直して、わずかに耳を赤くした。
「……これはただの戦友へのメモよ。ルナとなら、いつものことだわ」
「ちょっと二葉ぁ、抜け駆けで手紙なんか渡すのフェアじゃないっしょ」
「あら。昨日のうちに彼のクラスと座席を調べ上げて、隣をこっそり確保しようとしていたのは、どこの誰だったかしら」
「なっ……! なんでバレてんの!?」
「十六年も一緒にいるのよ。あなたの考えくらい、手に取るように読めるわ」
一花さんが、ぐうの音も出ずに沈んだ。
耳が真っ赤だ。
「一花お姉ちゃん、ボタン開けすぎだよ……はしたないよぉ」
「るっさい! 見せたくて見せてるんじゃないし!」
三桜さんの指摘に頬を膨らませた一花さんだったが、すぐに小悪魔のように笑い直した。
——次の瞬間、俺の腕に自分の腕を絡ませてくる。
制服越しに、予想以上の柔らかい重みが密着した。
「ちょっ——近い!」
「三桜も二葉も、やり方が遠回りすぎなんだよねぇ」
耳元に吐息を吹きかけながら、一花さんが囁く。
全身が粟立った。
「ねえ。あたしが、本物のルナだよ?」
二葉さんが、俺の手をぎゅっと握りしめた。
さっきの冷たい指先に、今度は力がこもっている。
「いいえ。本物は、私よ」
「ま、誠くんっ……。わ、私が、本物の、ルナ、です……っ」
三桜さんが、俺の制服の裾を離すまいと引っ張った。
三つの宣言が、教室のど真ん中でぶつかり合った。
ルナは一人のはずだ。
なのに目の前に三人いる。
数が、まったく合わない。
同じ顔の三人に、三方向から嫁だと詰め寄られて。
俺の平凡な高校生活は、新学期二日目にして、はっきりと音を立てて崩れ落ちた。
……ルナ。
お前、いったい、どこの誰なんだ。
答えは三つあって、しかも三つとも、同じ顔で笑っている。
◇
三つの「私が本物」が頭の中で鳴り止まなくて、五時間目も六時間目も、授業なんてまるで耳に入ってこなかった。
だから、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、俺は席から立ち上がった。
一刻も早くこの教室から逃げ出さなければならない。
その本能だけで鞄をひったくるように掴み、後方のドアへと向かう。
だが、遅かった。
「ストーップ! 旦那様、どこ行くの?」
背後から首に腕が回され、そのまま背中にどすんと柔らかな衝撃が走った。
一花さんに抱きつかれたのだ。
「うわっ!?」
「だーめ。逃がさないよ。放課後デートの約束、忘れた?」
「約束なんてしてないだろ! 俺は今日、急いで帰らないと……その、用事があるんだ!」
「嘘だね。リオンは塾にも通ってないし、いつもまっすぐ帰ってエデンにログインしてるっしょ?」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まる。
制服越しに予想以上の柔らかい重みが背中に押し付けられる。
耳のすぐ後ろで弾む声の近さに、思考が一瞬で白く塗りつぶされた。
「一花、無駄な接触は控えなさい。彼が困っているわ」
前方から退路を塞いだのは二葉さんだ。
相変わらずの無表情だが、その切れ長の目は完全に獲物を逃がさない狩人のそれだった。
「えー、別に減るもんじゃないし。二葉も誠にくっつきたいくせに」
「私はあなたと違って、接触の是非は場と目的で判断するの。人目のある下校中に無闇な密着を選ぶのは、非合理よ。それより、さっさと移動するわよ」
「ま、誠くん、ごめんね……でも、ちょっとだけお話、いいかな?」
左側からは三桜さんがおずおずと俺の制服の裾を摘んでくる。
上目遣いの潤んだ瞳と、消え入りそうな声。
背後に一花さん、正面に二葉さん、左に三桜さん。
朝の宣言通り、俺は三方向から完全に包囲されていた。
「お、おい、近すぎるって!」
「ほらほら、行くよー!」
一花さんが強引に俺の右腕を抱え込み、胸の谷間に挟み込むようにして引っぱる。
「ちょっ、一花さん、当たる、当たってるから!」
「え? 何がー? あ、もしかしてドキドキしちゃってる?」
「一花お姉ちゃん、ずるいよ! 私も誠くんの隣がいい!」
三桜さんが慌てて俺の左腕に抱きついてきた。
右腕と左腕、両方から伝わる柔らかな感触と温もりに心臓が爆発しそうになる。
「きゃっ」
歩き出そうとした三桜さんが自分の足にもつれてバランスを崩した。
俺はとっさに左腕で彼女の細い腰を支える。
「わわっ、ご、ごめんなさい誠くん……っ」
「ちょっと三桜、わざと転んだっしょ! 抜け駆け禁止!」
「わ、わざとじゃないもん!」
「お静かに。獲物が暴れるわ。私が導き出した最短ルートで、誰にも見られずに目的地へ向かうわよ」
二葉さんが先導する形で、俺は三人に囲まれたまま廊下を連行されていった。
すれ違う男子生徒たちの呪詛めいた呟きが聞こえたが、今の俺にはそれどころではない。
人の声が、一歩進むごとに遠ざかっていく。
前を行く二葉さんは、一度も振り返らなかった。
両腕に絡んだ体温は、確かに本物だ。
なのに、この三人のうち二人は、俺に嘘をついていることになる。
——この三人は、俺をどこへ連れて行く気だ。




