第2話 放課後の密室、三つの根拠
ゆうべ『実は明日、【リオン】の学校に転校するの』と言い残してログアウトしたネトゲ嫁の予告どおり、今朝の二年B組には三つ子の転校生がやってきた。
その三人が一時間目の終わりに俺の席を取り囲み、そろって自分こそ本物のルナだと言い切ってから、教室は物音ひとつ立てなくなっている。
黒板消しを持った日直の手が宙で止まり、窓際では誰かの紙パックがストローごとへこんでいった。
「……おい相沢。ルナって誰だ?」
前のほうの席から、男子の一人が真顔で身を乗り出してくる。
答えられるものなら、俺が先に聞きたい。
「あー、ごめんね? うちの家庭の事情だから、みんな気にしないで」
一花さんが顔の前で手をひらひらさせた。
「家庭の事情ではないわ。私とマコトの事情よ」
「はい出た抜け駆け。二葉、今のずるくない?」
「わ、私と誠くんの事情でもあるもん……!」
三桜さんが袖ごと手を挙げた拍子に、教室のあちこちで椅子の脚が床を擦った。
火に油という言葉を、生まれて初めて体で理解した。
そこで予鈴が鳴り、身を乗り出していた男子は何度もこちらを振り返りながら前へ向き直った。
二時間目の数式は一行も頭に入ってこなかった。
板書を写すふりをしながら、さっきの三つの声を何度もなぞる。
ここで問いただせば、答えはそのまま教室じゅうの見世物になる。
三年分のルナとのことを、誰かの笑い話にされるのは嫌だった。
聞くなら誰もいない場所で、俺のほうから切り出すしかない。
昼休みのチャイムと同時に、腹をくくって立ち上がりかけた。
それより早く、右で椅子の脚が鳴った。
「お隣、失礼しまーす」
一花さんがどこかの空いた椅子を右の通路へ引いてきて、俺の机にぴたりとつけ、肘のぶつかる近さに腰を下ろす。
左には音もなく二葉さんが立ち、正面では三桜さんが前の席の椅子を逆向きにして、背もたれを抱きかかえていた。
「一花お姉ちゃん、正面じゃなくていいの? 朝はそこだったのに」
「正面だと机が邪魔なんだもん。横のほうがくっつけるし」
「くっつく前提で席を選ぶのは、あなたくらいよ」
「そう言う二葉は、なんで立ってんの?」
「座ると、マコトのつむじが見えないもの」
見てどうするんだと言いかけたところで、二葉さんの視線が俺の頭のてっぺんに留まった。
「右に寝癖。……あとで直すわ。人目のないところで」
「あ、ほんとだ。誠くんの頭のてっぺん、ぴょこんって跳ねてる!」
首をいっぱいに伸ばして、三桜さんが目を丸くした。
「直さなくていいから。……それより、三人に頼みがある」
俺は声を落とした。
小声にしたせいで、右からも左からも正面からも距離が詰まる。
右から一花さんの肩が二の腕に乗り、ブレザー越しの体温がじわりと染みてきた。
左では二葉さんが屈み、さらりと落ちた黒髪の先が手の甲をくすぐる。
正面の三桜さんは背もたれごと前のめりになって、額が俺の額にぶつかる寸前で止まった。
机の真ん中に、四つの頭が寄り合っている。
周りからどう見えているかは、考えないことにした。
「放課後、時間をくれないか。三人とも」
「え、呼び出し? 転校初日に?」
一花さんの声が、耳たぶのすぐ下で弾んだ。
「誠ってさ、塾もないし部活もないし、授業終わったらまっすぐ帰る人じゃん。それが寄り道するんだ?」
「……なんで知ってるんだ?」
「知ってるってば。誠のことなら、だいたいね」
答えになっていない答えと一緒に、肘で脇腹をつつかれた。
「場所は」
二葉さんの問いは、それだけだった。
「俺が決める。校舎、まだ分からないだろ」
「誠くんが案内してくれるの? えへへ、校内デートだぁ」
「三桜、四人で行くのはデートって言わないの」
「言わないわね。引率よ」
「俺は先生扱いなのか」
結局、弁当の包みをほどく暇もないまま昼休みは終わった。
そのあいだ、この机に近づいてくる勇者は一人も現れなかった。
◇
放課後、三人を連れて渡り廊下を抜け、旧校舎の階段を上った。
授業ではほとんど使われていない棟で、四人分の足音が踊り場の天井に跳ね返ってくる。
「ねえ誠くん、ここって、おばけ出る?」
「出たら三桜が真っ先に誠に抱きつくやつじゃん」
「出ないわ。……出ても、先に抱きつくのは私よ」
「二葉ちゃん、こわいの?」
「こわくないわ」
答えが一拍だけ速かった。
「怖くないなら、さっきから俺の背中すれすれを歩くのはやめてくれ」
「隊列を詰めているだけよ。前衛の背中が空いていると、落ち着かないの」
「ここ、ダンジョンじゃないからね?」
三階のいちばん奥が、旧校舎の使われていない特別教室だ。
去年の掃除当番で一度だけ入ったきりの部屋で、放課後にここまで上ってくる物好きはまずいない。
引き戸を開けると、机に逆さに積まれた椅子の脚が、雲の切れ間からの西日を受けて床に長い影を落としていた。
俺に続いて一花さんと三桜さんが入り、最後に二葉さんが敷居をまたぐ。
後ろ手に戸を閉めた二葉さんの指が、内側の古い鍵をつまんで回した。
かちり、と乾いた音がした。
「うわ、鍵かけた。二葉、本気じゃん」
「誰かに開けられたら、困るのはマコトでしょう」
「転校初日の女子を三人まとめて空き教室に呼んだ時点で、困る覚悟はしてる」
二葉さんは鍵から指を離さないまま、小さく首を振った。
「来ると決めたのは私たちよ。十六にもなって、自分の足の責任くらい自分で取るわ」
「あたしは、誠に責任とってほしいけどねー」
「せ、責任……っ」
三桜さんが余った袖で口元を覆い、耳の先まで赤くなった。
「三桜。何を想像したのかしら?」
「な、なんにも想像してないよぉ! お嫁さんとか、そういうの全然……っ」
「自分から答え合わせをするな」
俺は教卓を背にして、三人と向き合った。
朝からずっと喉の奥に引っかかっていた問いを、ようやく声にする。
「君たちの誰かが、エデンの【ルナ】なのか?」
「それ、朝ちゃんと答えたよね?」
「三通りの答えだったわ」
二葉さんが涼しい顔で付け足した。
「答えたよ! 三人とも、ちゃんと!」
「だから困ってるんだ。答えは三つあるのに、ルナは一人なんだよ」
俺はひとつ息を吸った。
「証拠をくれ。ルナと俺しか知らないはずのことを、一人ひとつ」
「ひとつでいいの? あたし、百個は言えるけど」
「数を競う話ではないわ」
「ひゃ、百個……。私も、えっと、九十個くらいなら……」
「なんで微妙に負けてんの」
指を折って数えはじめた三桜さんを放っておいて、一花さんがぱんと手を叩いた。
「じゃ、あたしからね」
スカートの裾をひるがえし、一花さんは一歩で間合いを詰めてきた。
伸びてきた指が、俺のネクタイの結び目をつまむ。
「朝から曲がってたよ、これ。ずっと気になってたんだよね」
結び目をほどかれて、喉元がふっと軽くなる。
締め直していく指の関節が、シャツ越しに鎖骨を何度もかすめた。
ボタンを外したブレザーのあいだで、カーディガンの胸元が呼吸のたびに俺の胸板すれすれを上下している。
ネクタイを直すのに要る距離じゃない。
分かっていて、一花さんは一ミリも引かなかった。
「誠さ、ボス戦でやばくなると、語尾に『!』が増えるよね」
手元に目を落としたまま、一花さんが言った。
「普段はあんなに落ち着いた文章打つくせにさ。HPが半分切ったあたりから、『下がれ!』『まだいける!』『回復頼む!』って、ぜーんぶびっくりマーク」
「……そうか?」
「そうだよ。で、誰かに『落ち着いて』って言われると、絶対こう返すの」
結び目がきゅっと喉元まで上がった。
「『分かってる!』」
図星だった。
先週の周回でも、俺は確かにそう打っている。
打った三秒後に盾を割られたことまで、ついでに思い出した。
「全然分かってないのにね。……ね、旦那様?」
最後のひと言だけ、吐息にくるんで喉元へ落とされた。
結び目を押し上げた拍子に、やわらかな重みが一瞬だけ胸に預けられる。
画面の中でしか見たことのなかった呼び方が、人の声の温度で喉に触れていく。
締め直されたばかりのネクタイより、その一語のほうがよっぽど息を詰まらせた。
「一花お姉ちゃん、ネクタイ結ぶのすっごく上手……」
「でしょ。いっぱい練習したもん」
「誰の首で練習したのかしら?」
「……自分のに決まってんじゃん」
答えるまでに、ほんの少しだけ間があった。
「一花。直し終わったなら離れなさい」
「えー、まだ形整えてるとこなんだけど」
「結び目に触るのは三回目よ」
数えられていたらしい。
一花さんはぺろりと舌を出して、ネクタイの先を俺の胸にぽんと戻した。
入れ替わりに二葉さんが俺の左に立った。
何も言わずに右手で俺の左手を取り、ひやりとした指を一本ずつ、俺の指のあいだへ滑り込ませてくる。
「ちょっ、二葉! それ証拠と関係ある!?」
「あるわ。接触の是非は場と目的で判断するの。鍵のかかった部屋で、目的は証明。問題ないでしょう」
問題しかない、と言える空気ではなかった。
「じゃあ二葉、寝癖も今ここで直しちゃうわけ?」
「それは後よ。順番があるの」
寝癖を直されることは、もう決まっているらしい。
「ゆうべの最後。私が回復を捨てて詠唱に入ったのは、なぜだと思う?」
「……俺が間に合うって、信じてくれたからだろ」
「信じたのとは違うわ」
絡めた指に力がこもった。
「あなたが、次の一秒で盾を張り直すと分かっていたからよ」
ブレスで盾が割れてから、張り直すまでの一秒。
ゆうべ画面を白く染めた光が、まぶたの裏でもう一度立ち上がる。
「言葉にしなくても分かるの。あなたが次にどう動くか。三年、ずっと隣で戦ってきたんだから。……肌で、覚えてる」
声はどこまでも平らだった。
なのに重なった手首の内側で、二葉さんの脈だけがやけに速い。
思わず指を引きかけると、二葉さんはそれより早く、絡めた手ごと自分のほうへ引き寄せた。
俺の指先がきっちり留めたブレザーの前に押し当てられる。
皺ひとつない布地の下から、重たいやわらかさが押し返してきた。
「……ほら。今、引こうとしたでしょう」
「いや、普通は引くだろ」
「引かせないわ」
「はい、そこまで! 二葉、それ長い!」
一花さんに肩をつかまれて、二葉さんはようやく指をほどいた。
ほどけきるまでに、たっぷり一秒かかった。
「二葉ちゃんだけ、手つないでずるい……」
「つないでないわ。絡めたの」
「もっとずるいじゃん!」
一花さんの抗議を背中で聞きながら、三桜さんが余った袖を胸の前で握りしめて、ちょこちょこと進み出てきた。
「つ、次、私……!」
何か言いかけては口を閉じ、また開く。
それから袖口ごと、俺のブレザーの袖をちょんとつまんだ。
布越しに小さな指の震えが伝わってくる。
「誠くん、ボス周回で三回続けて負けちゃった夜、覚えてる?」
覚えている。
三度目の全滅のあと、拠点に戻っても誰も何も打たなかった夜だ。
「あの夜、誠くん、『今日はもうログアウトして寝ちゃいたい』って打ったでしょ」
「ああ。我ながら情けない一行だった」
「でも、ログアウトしなかったの。だから私、誠くんが寝ちゃうまで、ずっと一緒にいたんだよ」
翌朝は机に突っ伏したまま目を覚ました。
頬にはキーボードの跡がついていて、入力欄には打ちかけの一行が残っていた。
あの夜のことは、誰にも話していない。
話せる相手なんて、ルナしかいなかった。
「……なんで、あんな時間まで付き合ってくれたんだ?」
「だって」
袖をつまむ指先が布をもう少しだけ深く握り込む。
「誰かが疲れてる夜って、一人にしちゃダメな気がして」
言ってから自分の言葉に照れたのか、三桜さんは袖の中へ顔を半分うずめた。
「三桜、お情けを引こうとするのは反則っしょ」
一花さんが呆れたように息を吐く。
「感情に訴えかけるのは、交渉の基本戦術としてはありよ。姑息だけれど」
「こ、姑息じゃないもん! 私は本当に、そう思ってるから……っ」
袖の奥から、くぐもった抗議が返ってきた。
ルナは一人のはずだ。
だったら本物は一人で、残りの二人は話を合わせているだけなんじゃないか。
「で? 誰が本物か分かった?」
一花さんが椅子の積まれていない机の端に腰を引っかけて、脚を組んだ。
組んだ膝の上でチェックの裾がひらりと浮き、白い太ももの内側が一瞬だけ覗く。
「今はまだ分からない。……だから、分かるまでちゃんと見てる」
口に出してから、それが本音だと分かった。
「言ったね」
一花さんは机から下りて、とんと俺の正面に立った。
「じゃあルールね。誰が本物か誠が当てるまで、あたしたち三人で誠をオトしにいく」
「物騒な言い方だな」
「物騒だよ? で、週明けからはそれぞれ別々に攻める。姉妹でも手加減なし。……誰が一番手かは、月曜のお楽しみってことで」
「異論はないわ」
二葉さんは、さっきまで俺と絡めていた右手を、左手でそっと包んでいた。
「あなたが選ぶまで、私はあなたの傍を離れない」
「待って二葉、別々に攻めるって今言ったばっかなんだけど」
「攻めるのは別々でいいわ。傍にいるのは、攻めのうちに入らないもの」
「入るよ!? がっつり入るよ!?」
「ただの環境よ。酸素と同じだわ」
「酸素扱いで誠の隣キープすんな!」
言い合う姉二人の横で、三桜さんだけが黙っていた。
俺の袖を、まだ放していない。
「三桜さんも、それでいいのか」
三桜さんはこくんと頷き、それから少しだけ背伸びをした。
袖ごとつかまれた腕が、小さな体のほうへ引き寄せられる。
見上げてくる瞳が、西日を吸ってまっすぐに光っていた。
「うん。だって私……誠くんの特別に、なりたいから」
いつの間にか戸口へ戻っていた二葉さんが、内鍵を外す軽い音を立てた。
週明けから、この三人が一人ずつ来る。
最初に俺の前に立つのが誰なのか、まだ見当もつかなかった。




