第1話 顔も知らないネトゲ嫁と、三つの視線
深夜零時を大きく回った自室。
青白いモニターの光だけが、六畳間を無機質に照らしている。
世界中で数千万人がプレイしているという大人気MMORPG『エデン・オンライン』。
その最深部、燃え盛る火山地帯で、俺たち五人の固定パーティは巨大なドラゴン型のボスと対峙していた。
俺の分身である重騎士のアバター【リオン】が、身の丈ほどもある竜骨の大盾を構えたまま、ボスの鼻先へ猛然と突進する。
挑発スキルで、後衛へ向きかけたヘイト(敵意)を強引に奪い返す。
直後に吐き出された極太の炎のブレスが、大盾へ真正面から直撃した。
『【リオン】、ナイスカバー! さすが私の自慢の旦那様だねっ』
俺が守ったのは、攻撃魔法も回復もたった一人でこなす魔導神官、【ルナ】。
エデンでも数えるほどしかいない希少職で、ここぞという場面では極大魔法で戦況ごとひっくり返す。
そして、顔も本名も知らない、俺のネトゲ嫁だ。
『バカ、よそ見してる暇はないぞ。俺が耐えてる間に、大魔法の詠唱を終わらせろ』
『もー、わかってるよぉ。【リオン】は心配性なんだから』
ふふっ、と笑うようなスタンプと共に、装飾の施された杖が高く掲げられる。
彼女の足元に複雑な幾何学模様の魔法陣が展開され、詠唱のゲージが急速に溜まっていくのが見えた。
『兄貴、右から雑魚の増援だ! 俺が足止めするぜ!』
斥候(盗賊)の【クロウ】が死角へ回り込む。
やんちゃで人懐っこい、俺を慕ってくれる弟分だ。
『【リオン】くん、物理耐性のバフ、更新しておくね』
付与術師の【アリア】。
物腰の柔らかい、ルナの親友とも言える最初期からのメンバー。
『……ルナ、あと三秒でボスの防御膜が切れる。切れた瞬間に私が装甲を割るから、そこへ魔法を叩き込んで』
弓使いの【ノエル】が放った一本の光の矢が、ボスの眉間の硬い鱗を貫き、甲高い音と共に装甲を撃ち砕く。
クールで職人肌の彼女らしい、寸分の狂いもない一射だった。
ボスのHPゲージは、とっくに二割を切っている。
『──いっけーっ!』
ルナの掛け声みたいなチャットに合わせて、画面全体を覆い尽くすほどの極大魔法が放たれる。
回復を捨てた、全部乗せの一撃だ。
その一秒後に俺が盾を張り直すことを、こいつは疑いもしない。
絶対零度の吹雪がボスの巨体を包み込み、残っていたHPゲージが一瞬にしてゼロへと吹き飛んだ。
【システムメッセージ:フィールドボス『業火の飛竜』の討伐に成功しました】
『よし、討伐完了だな。みんな、お疲れ』
『おつかれさまーっ! 今日もみんなのおかげで楽勝だったね』
『兄貴のヘイト管理、今日も神がかってたぜ! 俺は明日早いから、この辺で落ちるな。また明日!』
『私もこれで失礼するね。【リオン】くん、ルナちゃん、またね』
『……今日もいい狩りだった。私も落ちる』
クロウ、アリア、ノエルの三人は口々に別れを告げ、光の粒子となって順番にログアウトしていく。
残されたのは、俺とルナの二人だけだ。
二人きりになると、今日のルナはどこか甘ったるく、普段よりも少しだけ距離が近いように感じた。
俺たちは拠点街の外れへファストトラベルし、人気のない裏路地を抜けて、小さな酒場の屋根へよじ登った。
入り組んだジャンプアクションをこなさないと辿り着けないここは、俺とルナだけが知っている、二人きりの秘密の場所だ。
ゲーム内の美しい星空をバックに、いかにも頑丈そうな重騎士と、布の服を着た魔法使いのアバターが、肩が触れそうな近さで並んで腰を下ろす。
『ねえ、【リオン】』
『ん? どうした』
『今日も、いっぱい助けてくれてありがとう。【リオン】が前にいてくれると、絶対安全なんだもん』
『それがタンクの役目だからな。それに、ルナの圧倒的な火力がないと、俺一人じゃボスは倒せない。お互い様だろ』
『……そっか。お互い様、だよね』
ルナのアバターが、俺のアバターの肩にこつんと頭を乗せるエモートを取る。
ただのポリゴンの動きだと、頭ではわかっている。
それなのに、本当に自分の肩へ、誰かの柔らかい温もりが触れた気がして、俺は意味もなくマウスを握り直した。
『……【リオン】はさ、私のこと、どう思ってる?』
唐突なチャットに、キーボードの上に置いた指が止まる。
『どうって……最高の相棒だし、大事なパーティメンバーだと思ってるよ』
『むー……それだけぇ?』
唇を尖らせる顔文字と共に、不満そうな言葉が返ってくる。
ルナとは、このゲームを始めてからもう三年の付き合いになる。
当時、動きが安定しないという理由で地雷扱いされ、悪質なプレイヤー狩りに遭っていた彼女を、偶然通りかかった俺が身を挺して庇った。
それがきっかけだった。
俺が責任が重くて敬遠されがちな重騎士を選んだのも、誰かを守る役割が性に合っているのに加えて、「何度失敗してもいい。俺が前で全部防ぐから、後ろから好きに魔法を撃て」と、不器用で打たれ弱かった彼女に約束したからだ。
俺、相沢誠は高校二年生。
現実では、特に目立つこともない平凡な男子生徒の一人だ。
熱中できる部活もなく、成績も中の上どまり。
だけどこの世界の中でだけは、【リオン】という一人の頼れる戦士になれる。
ルナの顔は知らない。
本名も、年齢も、住んでいる場所も。
可愛い顔文字を使ってはいるが、本当はネカマのおっさんである可能性だって、頭の片隅では理解している。
それでも、だ。
顔も名前も知らないかわりに、俺はルナの機嫌を、文字の向こうから読み取れる。
上機嫌な日は、返事が届くまでの間が、やけに短いこと。
照れたときに限って、わざと素っ気ない短文で突き放してくること。
画面に並ぶのはただの文字の羅列なのに、その打ち方ひとつに、ちゃんと体温がある。
俺が三年かけて覚えたのは、ルナの顔じゃない。
この温度のほうだった。
『……まあ、その。……お前がいないと、エデンをやっている意味がないくらいには、大事に思ってるよ』
照れを隠すように、少しだけ本音を打ち込む。
現実で直接顔を合わせて言うのは絶対に無理なセリフだが、この画面越しの彼女になら、不思議と素直になれる。
『……っ! ほんとに……? ほんとにほんとに、そう思ってくれてる……?』
『二度は言わないぞ』
『えへへへっ……嬉しい。私、【リオン】のその言葉だけで、明日からも生きていけるよぉ』
しばらく、他愛のない雑談が続いた。
今日食べた夕飯の話。
最近読んだファンタジー小説の話。
「本当は犬より猫が飼いたいんだよな。あの気まぐれなところがたまらない」という俺のどうでもいいこだわりも、ルナは優しい相槌のスタンプを交えながら聞いてくれた。
ふと視線をモニターの右下にやると、時計の針は深夜二時を回ろうとしていた。
『そろそろ寝るか。明日も学校だし、起きられなくなる』
『あ、うん。そうだね。私も明日……すごく大事な日だから、早く寝なきゃ』
『大事な日? 何かあるのか?』
『うんっ! あのね、【リオン】……』
ルナのアバターが立ち上がり、俺の正面へと向き直った。
チャットの入力中を示すアイコンが、今までで一番、長く点滅している。
『驚かないで聞いてね』
『なんだよ、改まって』
『実は明日、【リオン】の学校に転校するの』
「……は?」
思考が、止まった。
画面に並んだ文字を、二度、三度と読み返す。
何度読んでも、そこには同じことが書いてあった。
『転校って……え? なんで俺の学校を知ってるんだ?』
『えへへ。じゃあね、旦那様。明日、会えるのを楽しみにしてるよっ!』
俺が混乱してチャットを重ねる前に、ルナのアバターは光の粒子となって画面から消え去ってしまった。
【システムメッセージ:フレンド【ルナ】がログアウトしました】
静寂が戻った自室。
取り残された俺は、誰もいなくなった画面の星空を見つめたまま、ただ呆然と呟くことしかできなかった。
「……どういう、ことだ?」
◇
翌朝。
鉛を飲んだみたいに重い足を引きずって、通学路の坂を登っていた。
『実は明日、【リオン】の学校に転校するの』
頭の中で、ずっとあの一文がリフレインしている。
一睡もできなかった。
春の生ぬるい風が頬をかすめていくのに、頭の芯だけが妙に冷たい。
ルナに学校の名前なんて、教えた覚えはない。
住んでいる地域すら、知らないはずだ。
質の悪い冗談だろ、と自分に言い聞かせて、校門をくぐった。
二年B組の引き戸を開けた瞬間、文化祭前日みたいな熱気が顔に押し寄せる。
「おい聞いたか!? 今日うちに転校生が来るらしいぞ!」
「しかも三つ子! めちゃくちゃ美人だって!」
「なんだよそのギャルゲーみたいな設定……」
転校生。
しかも三つ子。
ルナは一人称で「私が転校する」と言ったのだから、三人がかりで転校してくるわけがない。
窓際の席に鞄を置きながら、自分にそう言い聞かせる。
「はいはい席つけー。ホームルーム始めるぞ」
担任が気怠げに教壇に立った。
だが全員の視線は、廊下側の扉に釘づけだ。
「今日からこのクラスに、新しい仲間が三人加わることになった。——入ってきてくれ」
引き戸が、からりと開いた。
三人の少女が、教室に足を踏み入れる。
その瞬間、ざわめきが凍りついた。
息を呑む音さえ聞こえそうな沈黙が、数秒だけ続く。
それを破ったのは、掠れた呟きだった。
「……マジ、か」
「夢じゃ、ねえよな……?」
理由はひとつ。
教卓の前に並んだ三人の容姿が、揃いも揃って、現実離れして整っていたからだ。
透き通る白い肌、ぱっちりした大きな瞳、すっと通った鼻筋。
同じ顔なのに、三人がまとう空気は笑ってしまうくらい違う。
向かって右は、明るめの茶髪をゆるく巻いた一人。
ボタンを外して胸元にカーディガンを覗かせ、スカートは規定より気持ち短い。
すらりと伸びた脚と、口元に浮かぶ小悪魔めいた笑み。
「……あの脚、規定の長さじゃねえ」
「ばか、声出すな。聞こえる」
真ん中は、艶やかな黒髪を背中までまっすぐ。
第一ボタンまできっちり留めた制服に隙はない。
なのに、隠しきれない曲線が静かに主張していた。
切れ長の瞳の奥に、冷たさと、もうひとつ別の熱。
「……あの目、刺さるわ」
「クール系の好きな奴は今日で終わったな……」
左は、肩で切り揃えたボブと、長めの袖が指先までかかる萌え袖。
大きな瞳をきょろきょろ動かして、制服の裾を握りしめている。
小動物みたいな子だった。
「萌え袖、反則だろ……」
「綾瀬一花でーす! みんな、仲良くしてね」
ウインクひとつ。
男子から低いうめきが漏れる。
「綾瀬二葉です。……よろしくお願いします」
短い一礼。
そっけないのに、何人かの心臓を正確に仕留めたらしい。
「あ、綾瀬三桜ですっ! 一生懸命がんばりますっ、よろしくお願いします!」
ぺこりと深いお辞儀に、男女問わず「かわいい……」と溜め息が漏れた。
——で、問題はここからだった。
自己紹介を終えた三人が、教室を見渡した。
三つの視線が、ぴたりと一点で止まる。
窓際、後ろから二番目。
俺の席だ。
一花さんの瞳が、すっと細くなった。
二葉さんの瞳が、かすかに熱を帯びた。
三桜さんの瞳が、花が咲くみたいにほころんだ。
三十人以上いる教室で、三人は真っ直ぐに、俺だけを見ていた。
「おい相沢……お前、あの三つ子と知り合いか?」
隣の席の樋口が、青い顔で振り向いた。
「いや。今日初めて見た」
「全員お前のこと見てんぞ。三人とも」
「……窓の外の景色でも見てるんだろ」
自分でも無理があると分かっていた。
三方向の視線は、担任が話を続けるあいだも一度も俺から外れなかった。
画面の中にしかいなかったはずの嫁が、教室で息をしている。
しかも、俺の知らない顔を三つも持って。




