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第19話 エプロンの紐と、家庭科室の湯気

図書室で二葉さんがこぼした、不意打ちのようなあの弱音。

 その言葉の余韻に心臓を揺さぶられ、なかなか寝付けなかった夜が明け――翌日の、三時間目。


 エプロン姿の生徒たちがひしめく家庭科室は、どこか浮き足立った熱気に包まれていた。

 今日の授業は、四人一班での調理実習だ。

 黒板に貼り出された班表を見た瞬間、俺は嫌な予感がした。


 第三班——相沢誠、綾瀬一花、綾瀬二葉、綾瀬三桜。


「やったー! 誠と同じ班じゃん!」


「……偶然にしては出来すぎだな」


「偶然だよ? 運命っていうか、愛の力っていうか」


「班決めに愛の力は関係ないだろ」


「マコト。班決めの用紙を回収したのは一花よ。偶然のわけがないでしょう」


 左隣から、二葉さんが涼しい顔で告発した。


「ちょっと、二葉! バラすなし!」


「事実を述べただけよ」


「あはは……一花お姉ちゃん、もうちょっとうまくやればよかったのに」


 三桜さんが、こっそり笑いを噛み殺しながらエプロンを広げている。


「いいの! 結果オーライでしょ?」


 担任が怪訝そうにこちらを見ていたが、もう手遅れだった。

 俺が呆れながら背中の紐に手を回していると、一花さんが悪びれもせずに背後へ回り込んできた。


「固いこと言わないの。ほら、後ろの紐、結べてないよ」


 背中から腰元へ、すっと細い腕が伸びてくる。

 背中に押し付けられた柔らかいふくらみの感触と、耳元をかすめる吐息に俺の心臓が跳ねた。

 エプロン越しでもはっきりと伝わってくる、予想以上の豊満な重み。


「い、一花さん、近いって!」


「えー? ちゃんと結んであげてるだけなのに。だいたい誠、なんでこんな簡単な紐が結べないの?」


「余計なお世話だ。結ぼうとしてたところで、横から奪ったの一花さんだろうが」


「はいはい、素直に感謝しなさいっての。ほーら、ぎゅーっ」


「だから、密着しすぎ!」


 逃げ場のない密着に顔が熱くなっていると、横からすっと冷ややかな手が伸びてきた。


「一花。離れなさい。マコトが困っているでしょう」


 二葉さんが俺の背中から一花さんを引き剥がす。

 助かった、と息を吐いたのも束の間。


「前側の結び目も緩いわよ。私が直してあげる」


「えっ」


 今度は二葉さんが正面に立ち、俺の腰元へ手を伸ばしてきた。

 きゅっと紐を引き結ぶたび、少し身をかがめた二葉さんの胸元が俺の腕に触れる。

 着痩せするタイプなのは知っていたが、こうして密着されると制服とエプロン越しでもその暴力的な存在感がダイレクトに伝わってくる。


「あの、二葉さん、自分でできるから……」


「動かないで。合理的に考えて、不器用なマコトがやるより私のほうが早いわ。一花のように、マコトの身体へ無駄な接触を図る意図はないから安心しなさい」


「なら、なんでさっきからやけにゆっくり結んでるんだよ」


「……指先のコンディションを確認しているだけよ。実習前は繊細な感覚調整が必要だから」


「絶対嘘だろ、それ」


 平然とした顔で言うが、結び終わった後もなぜか二葉さんの指先が俺の腰元をすっと撫でていく。

 その確信犯的な所作に、またしても顔が熱くなった。


「ちょっと二葉ちゃん、抜け駆けはずるいよ!」


 横からポンと肩を叩かれた。

 見れば三桜さんが少しむくれた顔で立っている。

 けれどその手元を見ると、自分のエプロンの紐がぐちゃぐちゃに絡まっていた。


「……三桜さん、それ、どうしたの」


「うぅ……後ろの紐、見えなくて、適当に結んだら固結びになっちゃって……」


 涙目で訴えかけてくる小動物のような上目遣いに、俺は苦笑して背後に回った。


「貸してみて。解いて結び直すから」


「あ、ありがとう、誠くん……」


 俺が紐を解き始めると、三桜さんが嬉しそうに肩をすくめた。

 小柄な背中からは、甘いベビーパウダーのような匂いがふわりと漂ってくる。

 三人三様のアプローチに、実習が始まる前から俺の体力はごっそり削られていた。


「……ねえ誠、顔赤いよ?」


「誰のせいだと思ってるんだ……」


 気を取り直して、実習が始まった。

 本日のメニューはハンバーグだ。

 四人それぞれが自分の分を作る形になっている。


「見て見て! あたしのハンバーグ、星型にしてみたっしょ。絶対映えるやつ!」


 一花さんが器用に成形した星型の肉だねを得意げに見せつけてくる。

 見た目は確かに可愛いが、ボウルの中には刻んだ玉ねぎがゴロゴロと粗いまま残っていた。


「一花。形状を複雑にすると中心部まで火が通る時間にムラができるわ。レシピの規定通り、厚さ一・五センチの楕円形にするのが熱伝導の観点から最も合理的よ」


 隣の調理台で、二葉さんが計量カップとスケールを駆使しながら完璧な楕円形の肉だねを作り上げている。

 まるで理科の実験でもしているかのような、一切の妥協を許さない手つきだ。


「えー、二葉のそれ、面白みがないじゃん。料理は見た目のテンションも大事でしょ?」


「安全に可食できる状態に仕上げることが最優先よ。第一、その粗みじんの玉ねぎは炒め時間が足りていないわね」


「うっさいなー、これも計算のうちだから! 誠はちょっとスパイシーなほうが好きでしょ?」


「そんなデータはないわ。マコトはどちらかと言えば、優しくて馴染みのある味付けを好む傾向にあるはずよ」


「……って、なんで二葉が俺の好みを知ったかぶるんだよ」


「マコトは黙っていなさい。これは私たちの問題よ」


 俺の意見は、議題にすら上がっていないらしい。


「焦げてるよりマシっしょ! それに、ちょっとくらいワイルドな味のほうが男子は喜ぶんだって」


「非科学的な偏見ね。……マコト、あなたはどちらの理論が正しいと思う?」


「いま、黙ってろって言わなかったか?」


「仮説の検証には、サンプル本人のデータが必要なだけよ」


 俺の好みを巡って火花を散らす二人を横目に、俺は隣の三桜さんの様子を見た。


「あの、三桜さん……それ、大きすぎないか?」


「えっ?」


 三桜さんの手元には、巨大な肉の塊ができあがっていた。

 中に大量のチーズを仕込もうとしたらしく、あちこちからチーズがはみ出して今にも崩壊しそうだ。


「これ、誠くんの分だから……おっきくして、いっぱい食べて元気になってほしくて」


「気持ちは嬉しいけど、これじゃ中まで火が通らないぞ」


「うぅ……どうしよう、手がベタベタで、まとまらなくて……」


 涙目の三桜さんに見かねて、俺は自分の手を綺麗に洗い直してからサポートに入った。

 後ろから腕を伸ばすような形で、俺の手を三桜さんの小さな手に重ねてぐしゃぐしゃになった肉だねを一緒にまとめ直す。


「ひゃっ……ま、誠くんの、手……」


「ほら、空気を抜きながら、二つに分けて」


 三桜さんの肩がビクッと跳ねて、耳まで真っ赤に染まっているのが至近距離で見えた。

 華奢な肩越しに伝わってくる体温が、俺の冷静さを容赦なく削ってくる。


 なんとか成形し直し、表面に小麦粉をまぶす工程に入ったときだ。


「あっ」


 三桜さんが勢いよく粉を振ったせいで、白い粉がふわっと舞い上がった。


「三桜さん、顔に粉がついてるぞ」


「え? どこ……?」


 三桜さんが手の甲で拭おうとするが、手が肉だねと粉で汚れているため、かえって被害が拡大しそうになる。


「待って、俺が拭くから」


 俺は濡れタオルを手に取り、三桜さんの頬に白くついた小麦粉をそっと拭き取った。

 ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳が、すぐ目の前にある。


「……っ」


 三桜さんの顔が、みるみるうちに赤く茹で上がっていく。


「こら三桜。実習中に抜け駆けは禁止でしょ」


「そうよ。不注意を装ってマコトの気を引くなんて、感心しないわ」


 一花さんと二葉さんからすかさずジト目が飛んでくる。


「ち、違うもん! ほんとに間違えただけだもん!」


 三桜さんが慌てて首を振るが、顔の赤さは増すばかりだった。


 と、一花さんが指先で小麦粉をつまみ、ぽん、と自分の頬に押し当てた。


「はい。あたしにも、ついちゃった。拭いてくれる?」


「一花。自分でつけたものは、不注意とは言わないわ」


「二葉はもうちょっと空気読みなよ……」


 そんなドタバタを経て、ようやく四人分のハンバーグが焼き上がった。

 一花さんの星型は案の定、端が焦げてしまっている。

 二葉さんの楕円形は見本写真のように完璧な焼き色だ。

 三桜さんのチーズインハンバーグは、見た目こそ少し不格好な仕上がりになっていた。


「じゃあ、さっそく試食タイムといこうか」


 これでようやく、自分の皿に手をつけられる。

 そう思って、俺がフォークを伸ばそうとした瞬間。

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