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第18話 上書きしてあげる、と次女は囁く

月曜の放課後、鞄ごと二葉さんに連行された図書室。

 進路の資料を広げた机の上で、ページをめくろうと伸ばした俺の指に、彼女の白い指先が重なっていた。


「あっ、ごめ……」


 俺が引っ込めようとした手を、二葉さんの小指がすっと絡め取る。

 ひやりとした見た目に反して、その指先はじわっと熱を帯びていた。


「ページは私がめくるわ。マコトは見ていて」


 至近距離で見つめ合う。

 二葉さんの切れ長な瞳が、俺を逃がさないように捉えていた。


 見回りの司書が書架の向こうを横切ったとき、二葉さんはぱっと手を離し、完璧な優等生の顔で背筋を伸ばした。

 だが足音が遠ざかると、また何事もなかったように、指がそっと戻ってくる。


「……お前、確信犯だろ」


「図書室の死角は、計算済みよ」


 悪びれもしない。

 そのくせ、唇の端がかすかに緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。


 資料を並べ替えていたとき、ふと、二葉さんのノートの端が目に入った。

 そこには、彼女自身の志望校に混じって、俺の成績でも手が届きそうな大学の名前が、いくつも几帳面に並んでいる。

 しかも、学部の特徴から通学時間まで、ご丁寧に調べ上げられていた。


「……二葉さん。これ、俺の進路じゃないか?」


 二葉さんの肩が、びくっと跳ねた。

 いつも完璧に凪いでいるこの人の、この反応は珍しい。

 さっと手でノートを隠して、すい、と視線を逸らす。


「ち、違うわ。参考データを並べただけよ」


「俺の名前、書いてあったけど」


「……っ。効率の問題よ。自分の志望校を調べるついでに、周辺データを収集しただけ」


「周辺データって、俺の模試の判定まで書いてあるぞ。俺、自分でもちゃんと見てないのに」


「あなたが適当に鞄に突っ込むから、はみ出していたのよ。整理整頓がなってないわ」


 二葉さんの視線が、俺の顔からノートの角へ落ちる。


「普通、はみ出してるだけで他人の判定まで確認しないだろ」


「……他人じゃ、ないもの」


 ぼそりと、消え入りそうな声で。

 その一言で、二葉さんの頬がみるみる赤く染まっていく。


「マコトが、私の知らないところで、勝手に遠くへ行ってしまうのが、嫌なの。あなたの未来くらい、ちゃんと、私が隣で見ていたいの」


 早口で、まくし立てるように。

 いつもの淡々とした口調が、崩れている。


「……それは、ありがたいけど」


「ありがたい、じゃないわ。当然のことよ。私が、一番マコトのことを分かっているんだから」


 大きく出たな、と思う。

 自分がいなければ駄目だという、有無を言わさぬ重たい愛の押し付け。

 でも、ノートの余白を埋め尽くす几帳面な文字を見ると、それが冗談じゃないことくらい、分かる。


 だがふと、彼女の端正な眉が、わずかにひそめられた。

 すん、と小さく鼻を鳴らす。


「……かすかに、柑橘の匂いがする」


 声の温度が、一気に絶対零度まで下がった。


「えっ」


「ごくかすかに、移っているわね。……マコト、また、一花に、くっつかれたでしょう」


 ぴたりと言い当てられて、俺は思わず固まった。


「い、いや、あれは、向こうが勝手に、抱きついてきただけで……」


「知ってる。一花は、そういう子だもの。……でも、マコトに移った匂いまで、そのままにしておくつもりは、ないから」


 二葉さんは、さらに身体を密着させてきた。

 肩が完全に重なり、清涼感のあるシャンプーの香りが、俺を包み込む。


「他の女の匂いなんて、嫌よ。……私の匂いで、上書きしてあげる」


 真顔のまま、大胆すぎる発言。

 耳元にかかる吐息に、俺は完全に思考がショートした。

 逃げ出したいのに、絡め取られた指と、押し付けられた柔らかい重みのせいで、身動きが取れない。


「二葉さん、さすがにこれ、見つかったら……」


「さっきの見回りで、今日の巡回は終わりよ。誰も来ないわ」


「そうじゃなくて……」


「……知っているわ。さっきから、マコトの心臓の音がうるさいくらい」


 表情ひとつ変えない、抜かりのない包囲網。

 そのまましばらく、俺は二葉さんの静かで重たい独占欲に、ただじっと耐えるしかなかった。


 やがて、閉館を知らせる予鈴が鳴った。

 二葉さんはようやく身体を離し、何事もなかったかのように資料を片付け始める。

 俺はほうっと安堵の息を吐き出した。


「マコト」


「は、はい」


「返事は一回でいいわ」


「すいません」


「謝らなくていいわ。これを受け取りなさい」


 差し出されたのは、手帳から破り取られた一枚のルーズリーフだった。

 そこには、俺の学力と興味に合わせた、おすすめの参考書と読むべき本のリストが、几帳面な字でびっしりと書かれていた。

 分厚い専門書じゃなく、俺でも手に取りやすそうな本ばかりが並んでいる。


「マコトの弱点は、全体を見ずに突っ込むところよ。だから、私が舵を取ってあげる必要があるの」


 二葉さんは、俺の目を見据えて言った。


「マコトがこれから読むべき本のリスト。優先順位もつけておいたわ」


「いや、俺、あんまり本は——」


「これからは読むの。マコトが次に読む本も、進むべきルートも、私がすべて管理してあげる」


「管理って……」


「マコトには、私が必要でしょう?」


 その声の奥に、ほんの少しだけ揺れるような不器用さを感じて、俺は突き放すことができなかった。

 偉そうな物言いの裏で、ちゃんと俺の歩幅に合わせてくれている。

 ……本当に、そういう人だ。


「……わかったよ。読んでみる」


「ええ。期待しているわ」


 図書室を出て、静まり返った廊下を二人で歩く。

 二葉さんは半歩先を、背筋を伸ばしたまっすぐな姿勢で歩いている。


「今日は、ありがとな。無理やり連れてこられたけど、結局すごく助かった」


 素直に言うと、二葉さんの歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。


「……べつに。これくらい、なんでもないわ」


 いつもの声。

 なのに、その声の尻尾が、かすかに揺れた。


 夕日が差し込む窓際で、その背中がふと止まった。


「二葉さん?」


 振り返った彼女は、俺を見つめたまま、真顔で、しかしスカートの裾を指先できつく握りしめていた。

 完璧な仮面の下から、小さな脆さが漏れ出している。


「一花みたいに、明るく引っ張ってあげることは、私にはできないけど」


 ぽつりと、消え入りそうな声で。


「……それでも、マコトのことを想う気持ちだけは。誰にも……っ」


 途中で、声が止まった。

 二葉さんは、はっとしたように顔を上げ、いつもの凪いだ表情を貼り直す。


「……今のは、忘れなさい。じゃあ、また明日」


 きびすを返し、廊下の向こうへと歩いていく。

 その耳の先が、窓から差す茜色よりもずっと赤いことに、今度は気づかないふりはできなかった。


「……次は、何を読まされるんだ」


 俺は小さく苦笑して、手の中の几帳面なリストを見つめた。

 一花さんの甘い言葉とも違う。

 二葉さんの、静かで重い、逃げ場のない愛。


 俺の日常は、まだまだ平和には程遠い。

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