第17話 図書室への連行と、触れた指先
騒がしかった土曜日から一転して、日曜日は嘘のように静かだった。
三姉妹の誰からも連絡はなく、俺は嵐の前の静けさを感じながらも、久しぶりに平和な休日を過ごしていた。
そして迎えた、月曜日の放課後。
帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが部活や遊びへと散っていく中、俺も帰宅の準備を進めていた。
土曜日のモールで、一花さんが最後にこぼしたあの声が、夕焼けの色と一緒に、まだ耳の奥から消えてくれない。
だけど、今日一日は何事もなく平穏に過ぎた。
このまま無事に帰れる。
そう思って席を立ち上がり、鞄に手を伸ばした、その時だった。
「マコト」
左隣の席からすっと伸びてきた白い手が、俺より先に鞄の持ち手を掴んだ。
振り返ると、長い黒髪を揺らした綾瀬二葉さんが、涼しい顔で立っていた。
「二葉さん。……いや、鞄、返してほしいんだけど」
「進路の調べ物に付き合いなさい」
「調べ物って、急だな」
「急じゃないわ。先週から予定していたの。マコトに伝えていなかっただけ」
二葉さんはそう言い切って、俺の鞄を軽く持ち上げた。
「それを普通、急って言うんじゃ……」
「合理的に考えて、放課後の空き時間を有効活用するのは当然でしょう。はい、行くわよ」
鞄の持ち手ごと、俺の腕を軽く引っ張る。
「待った待った。俺、調べたい志望校とかまだ……」
「あなたが調べたいものは、私が把握しているわ」
「いや、それは把握される側が把握してないとおかしくないか?」
「マコトに拒否権があると思っているの?」
「……ないですよね」
「わかっているなら、さっさと歩きなさい」
有無を言わさぬ、静かで重い断言。
逆らう選択肢など、最初から用意されていなかった。
一花さんの強引さが嵐なら、二葉さんのそれは静かな潮流だ。
気づいたときには、もう流されている。
連行された先は、放課後の図書室だった。
室内は、水の底みたいに静かだ。
西日が書架のあいだを斜めに切り、窓際の机を淡い橙色に染めている。
残っている生徒は数人で、全員が声を殺して本を読んでいた。
二葉さんは迷いのない足取りで窓際の机を確保すると、俺の鞄を机の隅に置き、数冊の分厚い資料を広げた。
それから、隣の椅子をとん、と引く。
「……向かいじゃなくて、隣なんだな」
二葉さんは答えず、引いた椅子の座面を、指先でこつ、と叩いた。
座れ、ということらしい。
腰を下ろすと、当然のように、彼女もすぐ横に腰かけた。
「……あの、二葉さん。調べるって、何を……」
「しっ」
二葉さんが、静かに人差し指を唇に当てた。
「図書室ではお静かに。……マコトはそこで、私が終わるまで待っていなさい」
「待ってるだけなら、俺、帰っても……」
「駄目よ。私の視界から出ることは許さないわ」
「視界から出るって、軍隊か何かなのか」
「監視対象、と言い直しましょうか」
「もっと悪い」
二葉さんが、ふっと目元を緩めた。
「冗談よ」
「いま、絶対、本気の目だっただろ」
声を潜めた、密やかなやり取り。
それきり二葉さんは、几帳面な手つきで資料を開き、ノートに要点をまとめ始めた。
横顔は真剣そのもので、隙のない理知的な雰囲気を漂わせている。
……待っているだけでいいなら、まあ楽でいいか。
俺は窓の外へ視線を投げて、校舎の影が長く伸びていくのをぼんやりと眺めた。
ガタッ。
隣で、かすかな音がした。
見ると、二葉さんの椅子が、先ほどより少しだけ俺のほうに寄っている。
気のせいかと思ったが、数分後、再び小さな音と共に距離が縮まった。
気づけば、肩と肩のあいだは、指二本ぶんもなかった。
「……あの、二葉さん? なんか、近くないか?」
「気のせいよ。声を出せない場所では、近いほうが効率的でしょう」
「絶対、椅子寄せてきただろ」
「図書室は共有スペースよ。どこに座ろうと私の自由でしょ」
資料から目を離さないまま、平然と言ってのける。
「いや、いくらなんでも近すぎるって……」
「私に不都合はないわ。……不都合なのは、マコトのほう?」
「不都合っていうか……」
「気が散る、と言いたいの?」
真顔で、核心を突いてくる。
俺が黙り込むと、二葉さんはほんの一瞬だけ口の端を上げて、また資料に視線を戻した。
勝った、とでも言わんばかりの横顔。
……だが、ノートを押さえた指先が、意味もなく同じ罫線を二度なぞっていた。
平然としているのは、上半身だけだった。
机の下では、彼女の膝が俺の膝に微かに触れていた。
制服のスカートから伸びる、滑らかな足の感触。
俺が少しだけ足を引こうとすると、二葉さんは逃がさないと言わんばかりに、すっと体重をかけて押し付けてくる。
「……これ、わざとだろ」
「だから、図書室では静かにって言ったでしょう」
「静かにって言いながら、足当ててきてるのは二葉さんなんだけど」
「マコトが動くからよ。大人しくしていなさい」
涼しい顔のまま、机の下での密やかな攻防。
その体温の高さに、俺のほうが落ち着かなくなってくる。
「ほら、これを見て」
不意に、二葉さんが身を乗り出して、開いていた本を俺のほうへ引き寄せた。
文字の羅列を指差すため、彼女の身体がぐっと近づく。
肩と肩が触れ合い、着痩せしている制服越しの柔らかい重みが、俺の腕に押し当てられた。
「ちょっ……」
「この大学のカリキュラム、無駄がないと思わない? 最短で目的地まで辿り着けるように、無駄なく組まれているの」
耳元で囁かれる声に、心臓が跳ねる。
……ふと、胸の奥を、覚えのある感覚がよぎった。
ゲームの中のルナも、こうだった。
俺がどこへ行けばいいか迷っているとき、すっと先に道を示してくれる。
戦友の勘、とでも言うような、あの淀みない導き。
土曜にも、一花さんに同じことを思ったばかりじゃないか。
俺の心は、いったいどっちを向いているんだ。
俺は動揺を隠すように、資料のページをめくろうと手を伸ばした。
その瞬間、二葉さんの白い指先と、俺の指が重なった。
どちらの手も、すぐには動かなかった。




