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第16話 茜色の帰り道と、剥がれた仮面

土曜日のモールで一花さんに待ち伏せされ、気づけば女子用の試着室へ引きずり込まれていた。

 カーテン一枚で仕切られた半畳の空間で、絞り出すようなその声が、俺の答えを待っている。


 甘い匂いと、体温と、まっすぐな目に挟まれて、俺の頭はとっくに煮えていた。

 それでも――ふざけた仮面の下で、こいつが本気で怖がっているのは、伝わってくる。


「……まだ、誰も選べてない。けど」


 俺は、どうにか声を絞り出した。


「今この瞬間、いちばん心臓に悪いのがお前なのは、認める」


 一瞬、きょとんとして。

 それから、一花さんの顔が、耳まで一気に赤く染まった。


「……っ、なにそれ。ずるい。攻めてたの、あたしのほうなのに」


 胸元を押していた指が、ぎゅっと俺の服を握りしめる。

 仕掛けたほうが、見事に自爆していた。

 ……ざまあみろ、と思う余裕は、俺にも一ミリも無かったけれど。


 結局、その一着も、一花さんは買わなかった。

 ただ、試着室を出てからしばらく、俺たちはどっちも、妙に言葉数が少なかった。


「……誠のせいだからね。あんなこと、言うから」


「お前が言わせたんだろ」


「……ふふ。それも、そっか」


 まだ赤いままの横顔で、それでも一花さんは、ちょっと嬉しそうに笑った。


  ◇


 歩き疲れて立ち寄ったフードコートでも、一花さんのペースは崩れなかった。

 俺が頼んだアイスコーヒーを、彼女は勝手に引き寄せる。


「あ、それ一口もーらいっ」


 ストローに口をつけ、ちゅん、と音を立てて吸い込む。


「おい、それ俺の……」


「んー、冷たくて美味しい! はい、誠も飲むでしょ?」


 平然とグラスを押し返してくる。

 その唇は、さっきまで俺が口をつけていたストローに、間違いなく触れていた。

 俺が躊躇していると、一花さんはくすくすと笑った。


「もしかして、間接キスとか意識しちゃってる?」


「してない。ただ、お前が遠慮なさすぎるだけだ。ゲームじゃないんだぞ」


「えー、ルナならゲームの料理イベントで、同じスプーンで味見させてくれたっしょ? 忘れたの?」


「あれはアイテムの受け渡しモーションの使い回しだろ。現実と一緒にすんなよ」


「あははっ! 誠、まじでからかい甲斐あるよねー」


 まただ。

 事あるごとにルナの名前を出して、俺の反応を楽しんでいる。

 けれど、その軽口の応酬は、深夜に画面越しで交わしていたルナとの雑談のテンポそのものだった。

 軽くて、騒がしくて、どこか心地いい。


 モールの出口へ向かう通路は、傾いた陽がガラスの壁越しに差し込んでいた。

 一花さんの歩幅が、少しだけゆっくりになる。


「今日、楽しかったっしょ?」


「ああ……まあ、振り回されたけどな。おかげで洗剤は買えずじまいだ」


「あははっ、誠のそういう素直なところ、嫌いじゃないよ。あたしが何着ても正直に言ってくれるし」


 自動ドアを抜けると、空はすっかり茜色に染まっていた。

 風が吹き抜け、西日を透かした一花さんの茶髪が、琥珀色に揺れる。

 ふと、隣を歩いていた足音が止まった。


「ねえ」


 声のトーンが、変わった。

 軽さが、落ちた。

 数歩進んでいた俺が振り返ると、いつもの笑みが消えた一花さんが立っていた。

 その数歩をゆっくり詰めて、彼女はトン、と額を俺の胸に押し当ててきた。


「一花さん……?」


 いつものように腕を絡めてくるわけでも、押し付けてくるわけでもない。

 ただ、静かに体重を預けてくるだけの、ひどく心細げな密着だった。

 彼女の体温が、服越しにじんわりと伝わってくる。


「——私だけを、見ててよ。リオン」


 呼ばれた名前に、俺は息を呑んだ。

 あたし、ではなく——私。

 誠、ではなく——リオン。


 低く、小さく、ほとんど掠れるような声だった。

 俺のシャツの袖を掴む指先が、かすかに震えている。

 おちゃらけた小悪魔の仮面を脱ぎ捨てたような、生身の響きだった。


 言葉を返そうとした俺の体を、一花さんがぽんと軽く押し返す。


「——なーんてね!」


 俺から離れた一花さんは、弾かれたように顔を上げ、いつもの完璧な笑顔を貼り付けていた。

 けれど、その笑顔の起動が、ほんの半拍だけ遅い。


「あははっ、誠、まじで信じちゃった? ウケるんだけど!」


「おまっ……今の、演技だったのかよ」


「とーぜんじゃん! ルナならこれくらい、余裕で言えちゃうんだからねっ」


 一花さんはくるりと背を向け、数歩先を軽い足取りで歩き出す。

 その耳の先が、夕日よりも赤く染まっていることに、俺は気づかないふりをした。


「じゃあね、誠っ。また月曜日!」


 ひらひらと手を振りながら、一花さんの背中が人混みの中へと消えていく。

 残された俺の胸には、押し当てられた静かな熱と、震えるようなあの声だけが焼き付いていた。


 あの一瞬の声は、からかいではなかった。

 ルナの文字に宿る温度を、三年間ずっと読み取ってきたから。

 あれは——本気だった。


 ただの一人の女の子としての弱さが、そこにはあった。

 俺は小さく息を吐き、茜色の空の下を歩き出した。

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