第15話 土曜日の抜け駆けと、狭すぎる試着室
土曜日の昼下がり。
俺は駅前の大型ショッピングモールに一人で来ていた。
洗剤、シャンプー、ノート。
色気の欠片もないが、生活には欠かせないやつだ。
平日は三姉妹の包囲網に揉まれっぱなしの俺にとって、こういう何でもない買い出しの時間は、数少ない平穏だった。
……まあ、その平穏も、長くは続かなかったわけだが。
「だーれだっ」
背後から視界を塞がれると同時に、背中にふたつの柔らかい感触がむぎゅっと押し付けられた。
ふわりと、甘い柑橘系の香りに包まれる。
服越しに、予想以上の柔らかさと温もりが伝わってきて、俺は思わず変な声を出しかけた。
「ちょっ……一花さん!?」
慌てて振り返ると、そこには私服姿の一花さんが立っていた。
ゆるふわに巻いた茶髪を片方の肩に流し、鎖骨が覗くオフショルダーのニットに、膝上の短めスカート。
制服の着崩しでは隠れていた体のラインが、私服だとくっきりと浮かんでいる。
ウエストから腰にかけてのメリハリと、スカートの裾から伸びる健康的な脚に、思わず目を逸らした。
「奇遇だね、旦那様」
「奇遇って……どう見ても待ち伏せだろ」
「やだなー、人聞きの悪い。……ていうか今、目ぇ逸らしたっしょ。ちゃんと意識してくれたってこと?」
逸らしたことが、しっかりバレた。
「してない。反射だ」
「ふーん。……ま、いいけどさ。ちゃんと見てよ。せっかくおしゃれしてきたのに」
一花さんが、ちょっとだけ唇を尖らせる。
「……で、なんで俺が今日ここにいるって分かったんだよ」
「昨日の夜、ルナに言ってたじゃん。『明日は買い出しに行かなきゃ』って」
……しまった。
ゆうべ、ログアウトの間際に、何気なくこぼした一言だ。
それを、なんで目の前の一花さんが知っているのか――は、もう、考えるだけ野暮な気がした。
「ちなみに、二葉と三桜には内緒で来たから。今日のあたしは、抜け駆けってやつ」
一花さんは悪びれもせず、ぺろっと舌を出す。
……朝から平穏を満喫していた俺が、甘かった。
この三姉妹に、オフの日なんてものは、存在しないらしい。
「ま、そういうわけだから。今日はあたしに付き合ってよ」
「付き合うって……あのな、俺は洗剤とトイレットペーパーを買いに来ただけなんだが」
「はいはい、そういう生活感のある用事は後回し。あたしの服選びに付き合ってほしいの。ほら、行くよっ」
「おい、ちょっと待てって——」
反論する隙も与えられないまま、俺は腕を掴まれ、レディースのアパレルショップへと引きずり込まれていった。
男一人で入るには明らかにハードルが高い空間で、俺は居心地の悪さに肩をすくめた。
「そもそも、なんで俺なんだよ。服のセンスなんてないぞ」
「いいのいいの。あたしは男子の意見がほしいの」
一花さんは、ずらりと並んだ服のラックを指先で流していく。
「上手いこと言ってほしいわけじゃないから。誠の正直な感想が聞きたいだけ」
「……それ、いちばん難易度が高い注文なんだけどな」
ぼやいた俺の横で、一花さんの手が二着のハンガーを引き抜いた。
ひとつは大人っぽい黒のブラウスで、もうひとつは明るい白のニット。
それを体の前で当てて、こちらへ向き直る。
「ねえ誠、このふたつなら、どっちがあたしに似合うと思う?」
「……どっちも似合ってると思うけど」
「出た、男子特有の逃げ口上。そういうの、ルナには通用しないかんね?」
「いや、本当にどっちも似合ってるから。黒のほうは大人っぽくていいし、白のほうは一花さんらしくて明るいっていうか……」
「へえ? ちゃんと見てるじゃん」
一花さんは口角を上げ、嬉しそうに目を細める。
「じゃあ、両方着てみるから、誠が直接確かめてよ」
「は? 確かめるって、俺がどうやって……まさか着たところを見せる気かよ」
「とーぜん! ちょっとここで待ってて。逃げたら怒るからね」
そう言い残して、一花さんはカーテンの奥へ消えた。
衣擦れの音がかすかに聞こえてきて、意識が変な方向に引っ張られそうになり、慌てて視線を天井へと逸らす。
手持ち無沙汰に、店内を見渡す。
土曜のモールは家族連れやカップルでごった返していて、彼女の買い物に付き合わされている男の姿もちらほら見えた。
……これ、端から見たらデートだよな。
数分後、シャーッという音とともにカーテンが少しだけ開く。
「あ。ねえ誠、ちょっと来て。背中のチャック、引っかかって動かないの。手伝って」
「は? いや、店員さん呼べって」
「店員さん、今ほかのお客さんでいっぱいだもん。……ねえ、早くしてくれないと、あたし、このまま外に出ちゃうよ?」
カーテンの隙間から、まだ着替え途中の白い肩が、ちらりとのぞく。
……人質に取られているのは、どう考えても俺の理性のほうだ。
周りの目もある。
俺は観念して、カーテンの隙間に手だけを差し入れた。
その手首を、ひんやりした指が、がしっと掴む。
「えっ、ちょ――」
ぐん、と引かれて、たたらを踏んだ俺は、半畳もない試着室の中へ、まるごと引きずり込まれていた。
しゃっ、と、今度は内側からカーテンが閉じる。
一畳にも満たない狭い空間に、一花さんと二人きりで閉じ込められてしまった。
「ちょっ、おまっ……何やってるんだよ!」
「しーっ。声が大きいってば。店員さんにバレたらどうするの」
「だったら引きずり込むなよ! ここ、女子用の試着室だぞ!」
「あははっ、誠、顔真っ赤。面白すぎ」
――チャックは。
しっかり、いちばん上まで、上がりきっている。
「な……っ、チャック、ふつうに上がってるじゃないか」
「うん。引っかかってたのは、チャックじゃなくて……あたしのほう、かもね」
一花さんは悪戯っぽく笑いながら、人差し指を自分の唇に当てた。
黒いブラウスに着替えた彼女は、首元のボタンを少しだけ外している。
ブラウスが体に張りつき、腰から胸にかけてのラインがはっきりと浮かんでいた。
鎖骨の美しい窪みが、間近で露わになっている。
「ほら、どう? 似合ってる?」
「っ……近すぎるだろ」
「えー? ちゃんと見てくれないと、感想わかんないじゃん」
逃げ場がない。
一花さんが一歩身を乗り出すたびに、鏡の中の距離がゼロへ近づいていく。
首筋に、彼女の温かい吐息がかかった。
心臓がうるさい。
俺の腕に、彼女の胸の柔らかさが意図的に押し付けられているのがわかる。
「顔、真っ赤じゃん。誠ってば、ほんと純情だよね」
「からかってる場合か。誰かに見られたらどうするんだよ」
「いいじゃん、別に。あたしは誠にだけ見てもらえれば、それで満足だし」
「……っ、そういう問題じゃないだろ」
至近距離で見上げてくるその瞳には、いつものからかいの色が浮かんでいる。
けれど、その奥に揺れる光に、俺はなぜか目を逸らすことができなかった。
「ねえ。今だけでいいから、旦那様らしいこと、言ってよ」
からかいの色が、声からすっと抜けた。
至近距離の瞳が、まっすぐ俺を映している。
「他の二人じゃなくて、あたしを選ぶって。……一回でいいの」
狭い空間に、その声だけが落ちた。
さっきまでの軽さが、嘘みたいに消えている。




