第14話 つま先立ちと、残された静けさ
一人のはずだった掃除当番は、押しかけてきた三姉妹のおかげで、いつの間にか四人がかりの大所帯になっていた。
その賑やかさに任せて、一花さんが黒板の隅に『一花の旦那様♡』と落書きをしたところだ。
「ちょっ、なに書いてんだ。消せって、それ」
「えー、記念だからいいじゃん。明日、みんなに見てもらお」
「よくない。明日の俺の学校生活が、どうなると思ってんだ」
そこへ、すっと二葉さんが歩み寄って、無言で黒板消しを構えた。
……かと思いきや、その『一花の』の部分だけを、きれいに消す。
そして、空いた頭の部分に、几帳面な字で『二葉の』と書き入れた。
「……これで、所有関係が正確になったわ」
「いや、誰のものでもないからな」
三桜さんまで「じゃ、じゃあ私も……!」と、チョークに手を伸ばしてくる。
俺は慌てて、黒板全体を消しにかかった。
……こいつら、本当に、掃除をしに来たんだろうか。
ひとしきりの攻防が落ち着くと、二葉さんは今度こそ、まじめに黒板を拭きはじめた。
黒板消しを丁寧にはたいて、上の縁の桟まで拭こうと、つま先立ちになる。
だが、あと少しのところで、指が届かない。
「貸して。俺がやるよ、そこは高いから」
「……いいえ。これは私の担当よ。マコトは、そこで私を見ていればいいわ」
真顔で、そんなことを言う。
言ってから、自分の発言の意味に気づいたのか、二葉さんの耳が、じわりと赤くなった。
「……いえ、訂正するわ。今のは、忘れて」
「ぶはっ。二葉、それ、掃除する気ある?」
「うるさいわよ、一花」
めったに崩れない二葉さんの、こういう瞬間は、なかなかに破壊力がある。
俺はなんとなく目をそらして、黒板の桟を、横から代わりに拭いた。
「あっ、それなら、窓の上のところは私が……!」
今度は三桜さんが、窓際のロッカーの上を拭こうと、うんと背伸びをした。
小さな体では、やっぱり少し届かない。
「とどかない……あともう少しなんだけど……」
つま先立ちで、ぐっと体を伸ばした、その拍子に。
ブラウスの裾から、細い腰のラインがちらりと覗く。
「きゃっ」
ふらり、と。
バランスを崩した三桜さんの体が、後ろへ傾いた。
考えるより先に、体が動いていた。
俺は背後から、三桜さんの背中と腰を、とっさに支える。
腕の中に、ぽすんと、小さくて柔らかい体重が収まった。
驚いて跳ねる小さな呼吸と、ほのかな体温が、すぐ近くにある。
「あ……っ」
三桜さんが、俺を見上げて、ぴたりと固まる。
みるみるうちに、その頬が、ゆでだこみたいに真っ赤に染まっていった。
「だ、大丈夫か」
「だ、だいじょうぶ……っ。ありがと、誠くん……」
消え入りそうな声で言って、三桜さんは慌てて俺の腕から離れようとした。
――が、足がもつれて、またよろける。
支え直すかたちで、腕の中の小さな体温が、数秒だけ長く重なった。
「あっ……ご、ごめんなさい。誠くん、重かったよね……?」
「いや、全然重くないけど。怪我がなくてよかった」
「ほんと? ほんとに重くなかった……?」
「ああ。むしろ、軽すぎるくらいだよ」
その耳まで真っ赤なのを見て、なんだか俺まで、調子が狂った。
「抜け駆けはずるいっしょ!」
言うが早いか、一花さんが背後から俺の背中に飛びついてきた。
背中に、ぐいと全体重が乗ってくる。
制服越しに押し当てられたふたつの膨らみが、形を変えて潰れるのが、はっきりと伝わってきた。
前には三桜さん、後ろには一花さん。
……逃げ場が、どこにもない。
「……三桜。わざとでしょ、それ」
「ち、ちがうもん! ほんとにバランス崩しただけだもん……!」
「マコト。次に転びそうになるのは、私の番でよいかしら?」
「いや、わざと転ぶな。危ないから」
俺がそう言うと、三人が顔を見合わせて、なぜか声を揃えて笑った。
結局、掃除は、ちっとも捗らなかった。
一花さんは遊び、二葉さんは隣を陣取り、三桜さんは空回りする。
てんでバラバラな三人に振り回されて、俺はずっと、笑いをこらえるのに必死だった。
……それにしても、と思う。
軽口で場を回す一花さん。
先回りして段取りを整える二葉さん。
不器用でも、全力でぶつかってくる三桜さん。
タイプはてんでバラバラなのに、こうして同じ教室にいると、不思議と、騒がしさが心地いい。
ふと、画面の向こうの【ルナ】の、あの賑やかなテキストの温度が、頭をよぎった。
「――こら、君たち。何をやっているんだ」
不意に、戸口から、呆れたような声が飛んできた。
見回りに来たらしい担任が、腕を組んで立っている。
「もう下校時刻だぞ。当番でもない君たちまで、いつまで居残っているんだ。ほら、帰った帰った」
「えー。もうちょっとだけ、だめですかー?」
「だめに決まっているだろう」
一花さんが、不満たっぷりに唇を尖らせる。
「せんせー。このままだと、私たちの愛の語らいが中断されちゃうんですけどー」
「馬鹿なことを言ってないで、さっさと支度しなさい。相沢の邪魔だ」
二葉さんも、めずらしく動こうとせず、当然みたいに俺の隣をキープしたままだ。
三桜さんに至っては、両手を合わせて「もう少しだけ」と名残惜しそうにしている。
「……というか相沢。今日の当番、本当はもう一人いたはずだな。相方はどうした」
「あー……えっと。なんか、用事を思い出したとかで」
「まったく、あいつは。……まあいい。残りは明日、サボった当人にやらせる。お前も、ほどほどのところで切り上げて帰れよ」
……地獄に仏とは、このことかもしれない。
一人で背負わされかけていた居残りに、そっと助け舟を出してくれた担任へ、俺は心の中で、深々と頭を下げた。
「ほら、三人とも。下校時刻だ。さっさと帰りなさい」
「はーい。……じゃあね、誠! 名残惜しいけど、また明日っ」
一花さんは、何度もこちらを振り返りながら、それでも渋々、鞄を抱え直す。
「また明日。マコト、戸締まりは任せたわ」
「また明日ね、誠くん! ほんとは、もっと一緒にいたかったけど……えへへ。今日は、楽しかった」
三人は、それぞれの調子で手を振って、廊下の向こうへ散っていく。
あっという間に、教室は、また元の静けさに戻った。
担任の言葉に甘えて、俺は、出しっぱなしだった掃除道具をまとめ、窓を順番に閉めていく。
黒板には、さっき消しきれなかったチョークの跡が、うっすらと残っていた。
窓を閉めていくたびに、柑橘とベビーパウダーの甘い匂いが、まだほんの少しだけ、教室に居座っている気がする。
鍵をかけて、夕暮れの廊下を、一人で歩きながら、俺は、ふと気づいてしまった。
……あの三人がいなくなった教室が、やけに、広く感じる。
ついこの前まで、一人の時間が、当たり前で、気楽だったはずなのに。
いつの間にか、この騒がしさのほうが、嫌いじゃなくなっている自分がいた。
まったく、調子が狂う。
俺は誰にともなく、小さく苦笑して、帰り道を急いだ。




