第13話 賑やかな居残りと、黒板の落書き
その日の放課後、俺は一人、がらんとした教室で、机を運んでいた。
今日の掃除当番は、本当ならもう一人いるはずだった。
だが相方は、ホームルームが終わるなり、鞄を掴んで立ち上がった。
「わりぃ、急ぎの用事!」
「おい、ちょっと待てって」
「マジでごめん! ジュース奢るから!」
それだけ言い残して、風みたいに消えていった。
……まあ、よくあることだ。
文句を言う相手もいないので、俺は黙々と、机を教室の後ろへ寄せていく。
窓の外は、もう夕方の色に傾きはじめている。
運動部の掛け声も、まだ遠い。
誰もいない教室に、椅子を机へ上げる音だけが、やけに大きく響いた。
……たまには、こういう静かな時間も、悪くない。
そう思った、まさにその矢先だった。
「みーつけた。誠、なに一人で黄昏れてるの?」
戸口から、ひょいと顔をのぞかせたのは、とっくに帰ったはずの一花さんだった。
鞄を肩にかけたまま、にやにやと、こちらを見ている。
「……一花さん。帰ったんじゃなかったのか」
「帰ろうとしたんだけどさ。昇降口で、誠がまだ残ってるって聞いて、戻ってきちゃった。掃除当番、一人なんでしょ? 暇だしぃ、手伝ったげる」
言うが早いか、一花さんは教室の隅から箒を引っ張り出して、くるりと一回転させた。
そのまま柄をマイクみたいに握って、俺のすぐ横にすり寄ってくる。
「ほら、感謝しなよ? こんな美少女が手伝ってあげるんだからさ」
「いや、まだ何も手伝ってないだろ」
「これから手伝うの! 心の準備ってやつ」
……遊ぶ気が手伝う気の三倍くらい、顔に出ていた。
「いや、別に手伝ってくれなくても……」
「えー、いいじゃん。二人っきりだしさ?」
一花さんは箒を肩に担いで、わざとらしく俺へ身を寄せてくる。
箒の柄越しに、肩がこつんとぶつかる距離だ。
かと思えば、ちりとりのほこりを、すすっと俺の上履きの先へ寄せてくる。
前傾した拍子に、カーディガンの裾がめくれて、制服のブラウス越しに体のラインが一瞬はっきりと浮かんだ。
……意識しないほうが、難しい。
「ちょっ、なにすんだ」
「あはは、ごめんごめん。つい、ね」
まるで反省していない顔で、けらけらと笑う。
……これは、戦力どころか、明確な妨害だ。
「――騒がしいと思えば。やっぱり、あなたたちね」
今度は、戸口の反対側から、冷ややかな声がした。
二葉さんが、これまた帰ったはずの姿で、無表情のまま立っている。
「二葉さんまで……」
「掃除の段取りなら、私が見たほうが早いわ。……それに、マコトのサボり癖は、私が見張っていないと」
しれっと、そんなことを言いながら、二葉さんは雑巾を一枚手に取り、当然みたいに俺の隣へ並んだ。
手際よく窓のサッシを拭きはじめる、その動きには、一切の無駄がない。
ただ、腕が触れそうな距離だけは、どう考えても必要のない近さだった。
きっちりと着こなした制服の肩が、動くたびに俺の腕へかすかに当たる。
着痩せしているはずの体の、確かな重みと柔らかさが、服越しにはっきり伝わってきた。
「ほら、一花。遊ぶなら出ていって。マコトの邪魔よ」
「なにそれ。二葉だって、ただ誠の隣を取りたいだけのくせに」
「…………」
二葉さんは、答えなかった。
ただ、雑巾を持つ手が、ほんの少しだけ、止まっただけだった。
「ま、待ってぇ……! 私も、私も手伝うっ!」
最後に、息を切らして駆け込んできたのは、三桜さんだった。
よほど急いで戻ってきたのか、髪が少し乱れている。
「三桜さんも……。みんな、本当に帰ったんじゃなかったのか」
「だって、お姉ちゃんたちだけ誠くんのそばにいるなんて、ずるいもん! 私も、いいとこ見せたいし……えへへ」
三桜さんは腕まくりをすると、勢いよく、教室の隅のバケツへ突進していった。
水道で水を汲んできて、ぱたぱたと戻ってくる。
「まずは、雑巾をしっかり濡らして……あっ」
たぷん、と。
勢いがつきすぎたバケツの水が、小さく跳ねて、床に丸い水たまりを作った。
「わわっ、ご、ごめんなさい! すぐ拭くから……!」
「落ち着け、三桜さん。べつに怒ってないから」
慌てて雑巾を床に滑らせる三桜さんの隣に、俺もしゃがんで、一緒に水を拭き取る。
「誠くん、一緒に拭いてくれるの、嬉しいな」
「いや、このくらい普通だろ」
「普通じゃないよぉ。私がこぼしたのに、怒らないでくれるの、優しい……」
「三桜。あなたがこぼさなければ、そもそもマコトが拭く必要もなかったのだけれど」
二葉さんが、横から淡々と指摘する。
三桜さんの顔が、ぽっと赤くなった。
「う……は、はいっ……」
三桜さんは雑巾を握り直して、床にへばりつくように拭きはじめる。
すぐ隣で見るその横顔は、必死そのものだった。
不器用でも、とにかく一生懸命やろうとする。
……この子は、本当に、そういうやつだ。
結局、当番一人のはずの教室は、いつの間にか、四人がかりの大所帯になっていた。
「よーし、じゃあ手分けしよっか。あたしは……そうだなー、誠の監督ね」
「それはただ見ているだけでしょう。一花は窓拭き。私が全体の段取りを組むわ」
「なんで二葉が仕切るのよ。掃除なんて、てきとうでいいじゃん」
「だからこそ、手順を最適化しないと終わらないの。合理的に考えて」
脇で置いてけぼりだった三桜さんが、勢いよく手を挙げた。
「わ、私は!? 私は、何をすればいいっ?」
「三桜さんは……とりあえず、そのバケツを、もうこぼさないように運ぶことから」
「うぐっ……が、がんばりますっ」
号令一下、三人がてんでに動き出す。
もっとも、一花さんは結局窓へ向かわず、箒を杖代わりにして俺の後ろをついて回るだけ。
二葉さんは脳内の手順表どおりに、迷いのない手つきで机を拭き上げていく。
三桜さんは、こぼすまいと、両手でバケツを抱えて忍び足だ。
……統率、ゼロだ。
肝心の一花さんが、はなから二葉さんの段取りに従う気がない。
仕方なく、俺は雑巾を絞って、窓際の列の机を上から順に拭いていく。
その少し後ろを、二葉さんが同じ列を辿るように拭き直していた。
「ねえ二葉さぁ。さっきから誠の拭いた後ばっかり拭き直してない?」
「……仕上げのチェックは必要不可欠よ」
「ふーん? 間接タッチを楽しんでるわけじゃないんだ?」
「なっ……! ただの衛生管理よ!」
二葉さんが手元の雑巾を落としそうになり、耳を真っ赤にして黙り込んだ。
建前で武装しても、一花さんにはあっさり見透かされているらしい。
「誠、その机、奥のと一緒に運んじゃお。はい、せーの」
言われるまま、重ねた机の端に手をかける。
――が、一花さんは向かい側へ回らず、そのまま隣り合う長いほうの辺を掴んだ。
机の角を挟んで、俺と一花さんの立ち位置が、ちょうどL字になる。
「いや、その持ち方だと動きにくいだろ。向かい側に回ってくれって」
「えー? こうやって並んで運ぶのが、共同作業の醍醐味じゃん」
「醍醐味の前に、進む方向が合わないんだが」
「やーだー。この持ち方のほうが、距離が近くてドキドキするっしょ?」
結局、L字のまま、じりじりと横歩きで運ぶ羽目になった。
角を挟んだ手と手が、ほんの数センチしか離れていない。
タイミングを合わせて下ろそうとした拍子に、机の縁に伸ばした互いの手の指が、こつんと触れた。
一花さんが、おっと、というふうに、ほんの一瞬だけ目を見開く。
……が、すぐにいつものからかい顔に戻って、わざと指を絡めようとしてくるので、俺は慌てて手をどけた。
「あー、逃げた。減るもんじゃないっしょ?」
「減る減らないの問題じゃないんだよ」
「……一花。今、マコトの指を絡め取ろうとしたでしょう」
「……見てたの」
「見なくても分かるわ」
二葉さんにまで釘を刺されて、一花さんは「ふーんだ」と唇を尖らせ、黒板の縁に置かれていたチョークを一本つまみ上げた。
そして、まだ拭いていない黒板の隅に、さらさらと何か書きはじめる。
書き上がったのは、下手くそな似顔絵と、『一花の旦那様♡』という、やたらと丸っこい文字だった。
明日の朝、このクラス全員があれを見ることになる。
平穏な高校生活の終わりは、チョーク一本で十分らしい。




