第134話 炎天下の空回り、はじめての『友達』
じりじりと焼けつく太陽が、アスファルトを白く照らし出している。
八月も第二週に入った駅前のロータリーは、蜃気楼が立ち上りそうなほどの強烈な熱気に包まれていた。
肌を刺す日差しを遮るために白いレースの日傘を差し、つばの広い帽子とサングラスで顔を隠して立つ琴音は、額に滲む汗を上質なハンカチで優雅に押さえながら、小さく、そして深く息を吐いた。
日傘の柄を握り直す指先が、汗でじわりと滑る。
完璧に整えられたゆるふわのロングヘアも、涼しげな白いワンピースも、この炎天下の前ではただの強がりでしかない。
周囲を行き交う人々が、不思議そうな、あるいは奇異なものを見るような視線を向けてくる。
こんなうだるような暑さの中で、誰かを待ち続けているような立ち姿は、どう見ても周囲の風景から浮き上がっていた。
ロータリーの向こうの商店街には、夏休みの学生たちが楽しげに行き交っている。
アイスを分け合う女子のグループ。
ペダルを漕いで走り抜けていく男子。
どれも、琴音とは関係のない風景だった。
蝉の声が、耳の奥を引っ掻くように鳴り続けている。
——完璧な計画でしたのに。
琴音は心の中で、自分自身の迂闊さを強く呪っていた。
あの方々がいつも集まる駅前の商店街。
清華高校の生徒たちの、普段の動線。
考えうる限りの情報を集め、最も自然な偶然の出会いを演出できる場所を選んだはずだった。
だが、琴音は最も基本的な事実を見落としていたのだ。
今は夏休み。
学校はない。
つまり、【リオン】さまがいつ、どの時間帯にこの駅前を通りかかるかなど、誰にも予測できないのである。
登下校がなければ、改札を通る時間を張ることはできない。
授業がなければ、校門の外周で偶然を装ってすれ違うこともできない。
一学期の間は、それで足りていた。
時間さえ合わせれば、この駅前に立っているだけで、あの方の姿を視界に捉えることができたのだ。
それだけで、一日分の勇気を注ぎ直せた。
もしかしたら、今日は一日中涼しい部屋の中で過ごしているのかもしれない。
あるいは、まったく別の場所に出かけているのかもしれない。
そんな当たり前の可能性にようやく思い至ったのは、ここに立ってから優に二時間が経過してからのことだった。
今さら引き返すのは、琴音のプライドが許さなかった。
あの忌々しい三姉妹が【リオン】さまの隣を我が物顔で占拠している間に、自分だけが何もしないで引き下がるなど、考えたくもない。
あの方々はただの偽物。
卑劣な泥棒猫。
その確信だけが、炎天下に立ち続ける琴音の背筋を支えていた。
ふと、ロータリーの端に視線を向ける。
少し離れた日陰に停車している、見慣れた黒塗りの高級車。
その運転席の窓越しに、心配そうにこちらを窺う黒服の運転手と目が合った。
お嬢様の熱中症を案じているのは明らかだが、琴音は鋭い視線を返し、周囲に気づかれない程度の、僅かな手首の動きだけで制した。
ここで倒れるわけにはいかない。
まだ、可能性が潰えたわけではないのだから。
「あっつ……」
不意に、すぐ横から場違いなほど明るく、よく響く声が聞こえた。
日傘の陰から視線を向けると、コンビニの袋を提げた男子生徒が、シャツの胸元をぱたぱたと手であおぎながら歩いてくるのが見えた。
少し明るめに染めた茶髪。
ゆるく着崩してはいるが、不思議と清潔感のある夏の私服。
見覚えがある。
終業式の日に、校門の外周で声をかけてきた無遠慮な生徒だ。
彼も琴音の姿に気づいたようで、ぱちりと目を瞬かせた。
「おっ、あんた。終業式の日に学校の近くにいた人だよな」
琴音は咄嗟に表情を消し、鏡の前で何度も練習した、完璧な令嬢の微笑みを張り付けた。
つばの広い帽子にサングラス。
完璧な変装のはずだった。
「……人違いではありませんか? 私は、あなたのような方に見覚えはありませんけれど」
「いやいや、絶対そうだって。そのレースの日傘、かなり目立ってたし。それに……」
「それに……?」
「あっちで心配そうに見てる黒塗りの車と黒服のおっさん。終業式の時と同じだし、何より、すげえいい花の匂いがする」
「なっ……!?」
図星を突かれ、琴音は日傘の柄を握る手をわずかに震わせた。
だが立花はそんな動揺など意に介さず、あっけらかんと笑う。
「そんなお嬢様みたいな格好で、こんなクソ暑い日に突っ立ってる奴、他にいないって。だいたい、その帽子にサングラスって、変装のつもりかよ」
「へ、変装ではありません! これは日焼け対策で……」
「全然隠れてないけどな」
遠慮のない、真っ直ぐすぎる言葉に、琴音の取り澄ました微笑みが微かに引きつる。
彼は――立花陽斗は、全く悪気のない屈託のない笑顔で、琴音の前に立ち止まった。
暑さも気まずさも意に介さない、不思議な軽さを持った少年だった。
「にしても、また誰か待ってんの? こんなところで何時間も待ってたら、本気でぶっ倒れるぞ」
「わ、私は別に、誰かを待っているわけでは……」
「顔、真っ赤だぜ」
立花の身も蓋もない指摘に、琴音は思わず日傘の柄を握る手に力を込めた。
暑さのせいだけではない。
図星を突かれた羞恥で、顔に血が上っていくのが自分でもはっきりと分かる。
完璧に取り繕っているはずなのに、なぜこの少年の前ではこうも簡単にペースが乱されるのか。
「……余計なお世話ですの」
ぽろりと、取り繕っていたはずの素の言葉が漏れた。
だが、立花はそれを咎めることも、気にした様子もなく、提げていたコンビニ袋の中に無造作に手を突っ込んだ。
「ほら、これ」
差し出されたのは、水滴がたっぷりついた冷たいお茶のペットボトルだった。
それを握る腕は、半袖の境目からくっきりと日に焼けている。
琴音が目を丸くして彼を見つめ返すと、立花は自分の分のスポーツドリンクを開けながら笑う。
「……これ、なんですか?」
「見りゃわかんだろ、お茶。二本で安かったから買っただけ。遠慮しないで飲んどけって」
「私は、見ず知らずの方から物をいただくような教育は受けておりません」
「見ず知らずって、俺たち終業式の日に会ってるんだけどな。俺、立花陽斗。清華の二年生。あんたは?」
「……お話しした記憶はございませんが」
「いやいや、思いっきり動揺してたくせに。ほら、熱中症で倒れられたら、こっちも見て見ぬ振りできねーし。寝覚め悪いから受け取れって」
半ば押し付けられるように渡されたペットボトルは、今の琴音にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。
冷たい感触が、手のひらから火照った身体へとじんわりと伝わってくる。
琴音は一瞬だけ躊躇したが、結局は乾きに抗えず、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
素直に礼を言うと、立花は「おう」と軽く頷いた。
琴音はキャップを開け、一口だけ含んだ。
冷たさが喉を滑り落ちていく感触に、張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
「俺、立花陽斗。さっきも言ったけど。で、あんたは?」
「……天道、琴音と申します」
「天道さんな。了解」
立花はスポーツドリンクを煽り、ふうと大きく息を吐いた。
その横顔には、下心や打算といったものは一切見当たらない。
ただの親切な、通りすがりの気のいい男子生徒だ。
「……あの。終業式の日は、失礼いたしました」
「ん?」
琴音は、手の中のペットボトルを持ち直した。
「突然、逃げるように立ち去ってしまって……」
「あー、あの時の。別にいいって。それより、あの黒服のおっさん。俺、あの人に睨まれてんのかと思ったぜ」
「あ、あれは……お気になさらず」
琴音は慌てて目を逸らしたが、立花はもう車の方を見てもいなかった。
「で、天道さんはなんでこんなところにいるわけ? 夏休みなんだから、涼しいところで遊べばいいのに」
「それは……その……」
「もしかして、誰か出てくるのを張ってたとか?」
「っ!」
冗談交じりの言葉に、琴音の肩が大きく跳ねた。
あまりにも的確に核心を突かれ、思考が真っ白になる。
「マジか。図星?」
「ち、違います! 私はただ、散歩の途中で少し休んでいただけで……」
「いや、夏休みにそれはないって。学校がないんだから、いつ家から出てくるかなんて分かりっこないし」
「……っ、そんなこと、分かっております!」
むきになって言い返したものの、その声はひどく自信なさげに震えていた。
反論すればするほど、自分の滑稽さが浮き彫りになっていく。
「……あの方の動きが、まるで掴めなくなってしまって……」
言ってから、琴音は言葉を切った。
——今のは、少し喋りすぎた。
「あの方?」
「……この辺りの学校に通っている、知り合いです」
「ふーん」
立花は、それ以上突っ込んでこなかった。
「ていうか、一時間以上前からずっと同じ場所にいたよな。俺、行きにも天道さんのこと見かけたし」
「……っ」
「そんなに待つくらいなら、普通に連絡して呼び出せばいいのに」
「……それができれば、苦労はいたしません」
立花の言う通りだ。
学校という共通の枠組みがない夏休みにおいて、接点のない人間が偶然を装うことの難しさを、琴音は今、身をもって思い知っていた。
待つ場所すら分からない。
連絡先も知らない。
ただの部外者。
その事実が重くのしかかり、琴音の表情から余裕が抜け落ちていく。
俯きがちになり、日傘を持つ手が微かに震えているのを見て、立花は察したように少しだけ声のトーンを落とした。
「……まあ、厳しいよな。夏休みって。用事がないと会えないし、声もかけづらいし」
その言葉には、どこか実感の伴った優しさがあった。
琴音はハッとして顔を上げる。
「立花さんも……そう思うのですか?」
「そりゃな。俺だって、同じクラスじゃなきゃ話しかける口実なんてそうそう作れねえし。学校ってすげえ便利だったんだなって、夏休みになると思うよな」
悪気のない、フラットな言葉。
それが琴音の張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ緩ませた。
琴音は、手にしたペットボトルの水滴を親指でなぞりながら、慎重に言葉を選んだ。
「……あの、少しお聞きしても? 立花さんは、清華の二年生なのですよね。もしかして、相沢さん、という方をご存知ですか?」
探るように尋ねると、立花は少し驚いたように目を丸くした。
「相沢? ああ、なんだ、あいつの知り合いか! 俺、あいつと同じクラスだし、よく一緒にいるぞ」
「っ、本当ですか……!?」
思いがけない接点に、琴音は思わず身を乗り出した。
立花が【リオン】さまの友人。
それは、彼に近づくための大きな糸口になるかもしれない。
「本当本当。え、じゃあ天道さん、あいつに用事あってここで張ってたの?」
「……はい。少しだけ、お伝えしたいことがあって。でも、夏休みに入ってからお会いする手段がなくて……」
「なるほどな。でも、相沢を偶然ここで見つけるのはキツいと思うぞ。あいつ、先週はクラスのみんなで海行ってたし」
「え……海、ですか?」
「そうそう。俺も一緒だったんだけど、あいつ、女子連中に囲まれてえらい楽しそうにしてたぜ。今日あたりは家でだらけてんじゃねーの」
海。
女子連中。
その言葉が、琴音の胸にすとんと落ちた。
あの方は、海に行っていたのだ。
あの三人と一緒に。
琴音の知らないところで、あの方の夏はとっくに始まっていた。
……分かっていたはずだ。
あの方々は、いつでも当たり前のようにすぐ隣にいられるのに。
自分だけが、ずっと輪の外側に立たされていることくらい。
「おい、大丈夫か? なんか急に顔色悪くなったぞ」
「……平気です。少し、立ちくらみがしただけです」
「絶対違うって。図星突かれた顔してるし」
ずけずけと言ってから、立花は「あ、悪い」とぽりぽりと頭を掻いた。
「なんか踏み込みすぎたか。すまん。日差し、ハンパねえしな」
「いえ……。ご心配をおかけしました」
琴音の声が、少しだけ柔らかくなった。
立花はそれ以上深入りすることなく、少しだけ気遣うような目を向けた。
相手の困惑や拒絶のサインを察知して、すぐに一歩引く。
彼のこの、踏み込みすぎない繊細さが、琴音にとってはひどくありがたかった。
ゲームの事情も、あの姉妹のことも、何も知らないフラットな関係。
探ろうとしない。
値踏みもしない。
ただ目の前にいる人間として接してくれる。
そんな相手とこうして言葉を交わすこと自体、琴音には初めての経験だった。
「とりあえず、今日はもう帰った方がいいって。ここで倒れられたら、相沢だって気にするって」
「……そうですね。今日は、私の見通しが甘かったようです」
琴音は素直に負けを認め、日傘の柄を握り直した。
ふと、立花が自分のスマートフォンを取り出した。
「もしよかったらさ、連絡先、交換しとかない?」
「えっ……」
「いや、その、下心とかじゃなくてな。俺が勝手に相沢の連絡先教えるのはアレだけど、天道さんがどうしても伝えたいことあるなら、俺経由で伝言くらいはできるかなって。一人でこんなところで待ってるより、ずっとマシだろ?」
あっけらかんと差し出された画面。
琴音は目を瞬かせた。
こんな風に、利害も目的もなく、ただ友達の友達だからという理由だけで連絡先を求められたのは初めてだった。
彼女の交友関係は、いつだって計算と家柄と、完璧な微笑みの上に成り立っていたのだから。
「……私のような者と、よろしいのですか?」
「いいからいいから。俺も、他校に美人の知り合いができたって自慢できるしな」
冗談めかして笑う立花に、琴音はどうしようもなく毒気を抜かれてしまった。
小さく息を吐き、自分の端末を取り出す。
「……その、こういった交換は、不慣れなもので。少し、時間がかかるかもしれませんが」
「いいよいいよ、ゆっくりで。……お、来た来た。よろしくな、天道さん」
短い操作音とともに、連絡先の交換が完了する。
「っと、そろそろ帰んねえと。アイス溶けちまう」
立花はコンビニ袋を持ち上げて、中を軽く覗き込んだ。
「天道さんも、何かあったら連絡してくれていいからな」
「……はい。そうさせていただきます」
立花は満足そうに頷くと、「じゃ、気をつけて帰れよ!」と片手を上げて、商店街の方へと歩き去っていった。
その背中を見送りながら、琴音は手に残る冷たいペットボトルをそっと抱き寄せた。
◇
「お嬢様、そろそろお車にお戻りください。この暑さではお身体に障ります」
黒塗りの高級車から降りてきた黒服の運転手の声に、琴音は静かに振り返った。
「ええ。もう大丈夫です。帰りましょう」
よく冷えた空調の効いた後部座席。
外の炎天下が嘘のように快適な空間で、琴音はふかふかのシートに深く身体を沈めていた。
「お嬢様、よろしかったのですか。あのような得体の知れない学生と……」
「構いません。……ただの、親切な方でしたから」
「しかし、もし旦那様のお耳に入れば……」
「お父さまには、私からうまく伝えておきます。あなたは何も心配なさらなくて結構です」
「……畏まりました」
窓の外を流れる景色は、相変わらず容赦のない夏の日差しに照らされている。
琴音は膝の上に置いたスマートフォンを手に取り、画面を点灯させた。
連絡先リストの中に、新しく追加された名前。
『立花 陽斗』。
家族や家庭教師、形式的な知人の名前しか並んでいなかった琴音の世界に、不格好に混ざり込んだ、ただの高校生の男子の名前。
あの方と同じ教室で、同じ空気を吸って、毎日当たり前のように顔を合わせている人。
琴音がどれだけこの駅前に立っても手に入らなかったものを、彼は最初から持っている。
その名前は、あの三姉妹の思惑も届かない、琴音だけの小さな架け橋だった。
今日の計画は、何一つ上手くいかなかった。
【リオン】さまの姿を見ることもできず、ただ炎天下で無駄な時間を過ごしただけ。
しかも、あの方々が【リオン】さまと海で夏を満喫していたという現実まで突きつけられた。
けれど、なぜか不思議と、いつものような焦燥感や惨めさは薄らいでいた。
完璧ではない、空回りばかりの自分。
そんな自分を笑い飛ばし、冷たいお茶を押し付けてくれた彼の無遠慮な優しさが、琴音の強張っていた肩から、少しだけ力を抜かせてくれたのだ。
琴音は画面を見つめたまま、ふわりと口角を上げた。
それは、鏡の前で練習した完璧な微笑みではなく、どこか気が抜けたような、年相応の柔らかな表情だった。
「……お友達、ですのね」
車内に小さく響いたその呟きは、誰に聞かせるためのものでもない、琴音自身の静かな安堵の音だった。




