第133話 帰りの電車、答えの出ない問い
浜で三桜と二人きりで夕日を見送った帰り道、初めての呼び捨ては、駅に着く前にみんなにばれた。
抜けがけだと詰め寄った心花も、おでこへのぺちと、お願いの受付に自分も入れてもらう約束で手を打ってくれた。
駅までの坂の街灯の下でめくってみた立花の背中は、肩甲骨から腰まで、切れ目なく真っ赤に焼けていた。
帰りの電車も行きと同じ古い車両だった。
向かい合わせの座席が並ぶ車内には、海帰りらしい家族連れが何組か乗っているだけで、まだ十分に空いている。
「はい、約束」
乗りこむなり、一花さんが俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
リブ編みのタンクトップ越しに、やわらかな重みが二の腕へぴたりと寄せられる。
「帰りは譲んないって言ったよね、二葉」
「言っていたわね」
「……え、それだけ?」
「帰りのことは帰りに考える、と言ったでしょう。今、考えたわ。どうぞ」
二葉さんはあっさりと言って、通路を挟んだ向かいのボックスへ腰を下ろした。
一花さんは俺の腕を抱えたまま、拍子抜けした顔で固まっている。
「……なんか企んでない?」
「企んでいないわ。行きの四十分で、足りたもの」
「何が足りたの、何が?」
「景色よ」
「景色見てたとき、誠の腕に乗っかってたもんね。そりゃ足りるわ」
「……景色よ」
二葉さんは窓のほうへ顔を向けた。
窓の外はもうほとんど暗くて、景色なんかろくに見えない。
一花さんは釈然としない顔のまま、それでも俺を窓側へ押しこんで、自分はその隣にすとんと座った。
向かいの窓側には三桜が座った。
その隣に心花が当然のような顔で腰を下ろす。
「罰として、帰りは三桜先輩の隣です。私が見張ります」
「見張りって、さっき止めるとこまで込みって言ってなかったか」
「今度は止めます。三桜先輩がまたセンパイを借りようとしたら、私が窓口で『ただいま貸し出しできません』って断りますから」
「私、図書館の出入り禁止の人みたい……」
三桜はそう言いながら、どこか嬉しそうに心花の腕に自分の腕を絡めた。
残った立花が、二葉さんの向かいへどさりと腰を下ろし――背もたれに触れた瞬間、跳ね起きた。
「いっ……!」
「背もたれに寄りかからないこと。それと、今夜は仰向けで寝ないことね」
「うつ伏せで寝ろってこと? 俺、うつ伏せだと息できねえんだけど」
「昼、うつ伏せで爆睡してたじゃん。シャツかぶって、寝言まで言って」
「あれはノーカンだろ!」
結局、立花は背もたれから拳ひとつぶん体を浮かせて、膝に両手を置いた姿勢に落ち着いた。
通路の向こうで、背筋のまっすぐな二人が向かい合っている。
片方は生まれつきで、片方は日焼けのせいだった。
「次女さん、ずっとその姿勢で疲れねえの?」
「疲れるのは、立花くんの背中のほうよ」
電車が動きだした。
窓の外を、浜沿いの街灯がひとつずつ後ろへ流れていく。
「で?」
一花さんが俺の腕を抱えたまま、顔だけこっちへ向けた。
「どういう流れで、そうなったわけ? 三桜って」
「……夕日がきれいだった」
「答えになってないし。三桜は?」
「……ひみつ」
三桜は心花の肩に半分隠れるようにして、膝の上のハンカチをいじっていた。
二葉さんに返しそびれたままのハンカチだった。
「二葉ー。迎えに行ったとき、なに見たの?」
「夕日よ」
「……迎えに行った人まで口裏合わせてんの、なんで?」
「見たままを言っただけよ」
一花さんは天井を仰いで、もういい、と小さくぼやいた。
ぼやきながら、俺の腕を抱える力だけは少しも緩めなかった。
「……ねえ誠。あたしも夕日見ればよかったかな?」
「なんでだよ」
「そしたら今ごろ、あたしのことも呼び捨てだった?」
「……どうだろうな」
「ほら、すぐ濁す」
一花さんは俺の二の腕を、抗議するように指先でつねってきた。
痛くはなかった。
「三桜先輩、何拾ってたんですか? ずっとしゃがんでましたよね」
「貝だよ! いちばんきれいなの、誠くんにあげたの。お土産」
通路の向こうで、立花が首を伸ばした。
「同じ海に来てんのに、お土産?」
「それ、俺も言った」
「同じ海でも、ひとつも拾ってない人には、お土産になるの」
三桜は胸を張った。
一花さんが、なにそれ、と笑いながら、俺の腕をもう少し深く抱えこんだ。
「見たいです、センパイ!」
「リュックのいちばん上。家に着くまでは開けない」
「揺れたら割れちゃうから。心花ちゃん、ごめんね。今度、誠くんに写真撮ってもらうね」
「約束ですよ! センパイ、ちゃんと明るいとこで撮ってくださいね」
トンネルをひとつ抜けたころ、肩にこつんと重みが乗った。
「……あたし寝る」
「寝るって宣言してから寝る人、初めて見た」
「宣言しとかないと、誠が肩動かすっしょ。動いたら起きるからね」
「起きてるだろ、それ」
「寝言だよ、今の」
一花さんは俺の腕を抱えこんだまま、目を閉じた。
頬が肩口に落ち着く場所を探して、二、三度ずれる。
ずれるたびに、腕に寄せられたやわらかさが、薄いリブの生地ごと形を変えた。
わざとなのかどうか、確かめる勇気はなかった。
寝言だと言い張った声は、五分もしないうちに本物の寝息に変わった。
高い位置でまとめた髪の結び目がゆるんで、ほつれた毛先が俺の首筋にかかっている。
シャワーのあとでつけ直したらしい柑橘の香りが、潮の匂いの下でまだかすかに残っていた。
絡めた腕の力だけは、眠ってもまるで緩まなかった。
向かいでは心花が三桜の肩にこてんと頭を預けていた。
「……心花ちゃん、見張りは?」
「見張ってます……目つぶって、見張ってます……」
言い終わる前に、心花の口から小さな寝息がこぼれた。
三桜はくすくす笑いながら、心花のキャップをそっと取って、自分の膝の上に置いた。
そのうち三桜のまぶたも、ゆっくりと重くなっていった。
通路の向こうで、二葉さんが静かに立ち上がった。
手には畳んだバスタオルを一枚持っている。
通路を渡って三桜たちの席まで来ると、眠りかけた三桜と心花の膝の上に、それを広げてかけた。
「冷房が効いているわ」
誰に言うでもなくそう言って、二葉さんは三桜の頬に貼りついていた髪をひと筋、指先で耳にかけた。
三桜は半分眠ったまま、その指に頬をすり寄せた。
二葉さんの手が、ほんの一瞬だけそこで止まった。
それから何事もなかったように席へ戻り、腕を組んで目を閉じた。
その背筋は眠っても崩れなかった。
向かいの立花も背もたれから体を浮かせたまま、こくり、こくりと舟をこいでいる。
起きているのは、俺ひとりになった。
レールの継ぎ目を越えるたびに、車両が小さく揺れる。
窓の外にはもう海は見えなかった。
暗いガラスに、車内の明かりと、眠っている顔がいくつも映っている。
その端にひとりだけ目を開けている俺の顔があった。
右手を膝の上で開いた。
浜を出てからもうずいぶん経つ。
それなのに、指のあいだにまだ何かが挟まっているような気がした。
組まれていた指の形が、皮膚のどこかに残っている。
電車が揺れて、向かいの三桜の膝が俺の膝に当たった。
朝と同じだった。
朝は、わざと寄せてきた膝だった。
今は眠っていて、寄せたのか揺れたのかも分からない。
タオル越しに、膝の骨の小さな硬さが、ときどき触れては離れていく。
蛍光灯の下で見ると、三桜の目のふちはまだほんのりと赤かった。
波打ち際で三桜が言ったことと、あの夜、画面に届いた一行。
言葉はほとんど同じだった。
三桜はその続きまで同じことを言っていた。
あの夜のことを知っているのは、画面の向こうにいたひとりだけのはずだった。
浜では喉の奥で止まった問いを、今度は最後まで言葉にしてみた。
――三桜が本物のルナなのか。
声には出さなかった。
それでも、言葉の形になったのは初めてだった。
形になってみると、思っていたよりずっと短い問いだった。
答えのほうは、すぐには来なかった。
代わりに来たのは、別の考えだった。
本物のルナは一人のはずだ。
けれど、あの三人は何でも話す。
朝ごはんの席で、俺の貸し借りまで決めてしまうくらいに。
本物が三人のうちの誰か一人で、ほかの子はその子から話を聞いているだけなのかもしれない。
夕方の波の音が少し心細い【リオン】のことも、それに【ルナ】が返した一行のことも。
それを聞いて覚えていたのなら、言葉が同じでも不思議はない。
説明は、それでつく。
つくはずだった。
波が引くたびに、組んだ指が俺の手の甲を押さえた。
冷たい指の奥で、脈だけが急いでいた。
夕日の色の中を、涙がひと粒、頬を転がっていった。
どの説明に入れてみても、あの熱だけは収まる場所がなかった。
かといって、だから三桜だと決められるわけでもない。
確かめる方法なら、ひとつ思いついた。
目を覚ました三桜に、その言葉をどこで覚えたのか、ひと言だけ聞いてみればいい。
答えに詰まるかどうかは、顔を見ればたぶん分かる。
思いついたのに、それをしている自分の姿は、どうしてもうまく思い描けなかった。
思い描こうとすると、浜で問いが止まったのと同じ場所で、喉の奥がまた縮んだ。
リュックは足もとに置いてある。
いちばん上には、ティッシュにくるんだ桜貝が寝ている。
開ければすぐに割れていないか確かめられるのに、家に着くまでは開けないと決めたものだ。
さっきの問いも、その隣に置いておくしかなかった。
くるんだまま、いちばん上に。
「……誠くん」
向かいから寝ぼけた声がした。
三桜がうっすらと目を開けて、こっちを見ていた。
焦点が合っているのかどうか、怪しい目だった。
「……誠くん、まだおきてる?」
「起きてる。着いたら起こすから、寝てろ」
「……そっか」
三桜はとろんとした目のまま、ふにゃりと笑った。
「よかった……まだ、おわってない……」
それだけ言って、三桜はまた目を閉じた。
膝の上で、タオルの下の指が、何かを握るみたいに小さく丸まった。
俺はずれかけたタオルを、三桜と心花の膝の上にかけ直した。
窓の外に見覚えのある街の明かりが増えはじめていた。
◇
朝みんなで集まった乗り換えの駅――学校の最寄り駅に着いたのは、二十時を少し回ったころだった。
「誠ー……肩、あたしの跡ついてない?」
「シャツの縫い目の跡なら、一花さんのほっぺたについてる」
「うそ、まじで? ……責任とってよ」
「縫い目の責任までは取れない」
一花さんは頬をこすりながら、ふらふらとホームへ降りた。
心花は三桜にキャップをかぶせ直してもらって、まだ半分目が閉じている。
立花は立ち上がるときに背中がシャツにこすれたらしく、声にならない悲鳴を上げた。
二葉さんは眠る前とまったく同じ姿勢のまま、すっと立ち上がった。
改札の前で六人の足が止まった。
立花と三姉妹はここで改札を出る。
俺と心花はここから別の路線に乗り継ぐ。
「じゃね、誠」
一花さんが、寝起きでまだ少し腫れたまぶたのまま、ひらひらと手を振った。
「肩貸してくれたお礼、今度なんかで返したげる」
「貸したっていうか、勝手に寝てただろ」
「勝手に寝られる肩してるほうが悪いの」
「マコト」
二葉さんが一歩前に出た。
「帰ったら首の後ろを冷やしなさい。昼より赤くなっているわ。それから、明日の工程表は白紙よ。好きなだけ寝ていていいわ」
「二葉さんの工程表に、白紙の日なんてあるのか」
「今、作ったわ」
それだけ言って、二葉さんはくるりと背を向けた。
改札へ向かいながら、三桜のほうを一度だけ振り返る。
三桜はまだ、二葉さんのハンカチを握ったままだった。
「誠くん」
三桜が俺の前に立った。
何か言いかけて、口を閉じて、また開く。
結局出てきたのは、短いひと言だった。
「……またね」
「ああ。またな、三桜」
三桜の肩がぴくりと小さく跳ねた。
浜で呼んだときと、同じ跳ね方だった。
三桜は何も言わずに、繋いでいたほうの手を胸の高さで小さく振って、二葉さんの背中を追いかけていった。
「はいはい、ごちそうさまー」
改札の向こうから、一花さんの声が飛んできた。
「相沢、篠崎ちゃん、またな! ……いってっ」
手を振り上げた立花が、そのまま背中を押さえて固まった。
「立花先輩、今夜はうつ伏せですよー!」
「だから息できねえんだって!」
「昼寝はうつ伏せだったじゃん」
「綾瀬姉さん、それ今日二回目!」
騒がしい声が改札の向こうへ遠ざかっていく。
四つの背中が駅前の明かりの中に溶けていった。
乗り継ぎの通路は、休日の夜らしくがらんとしていた。
心花は俺の隣を、半歩だけ前に出て歩いた。
さっきまで閉じかけていた目は、いつのまにかぱっちり開いている。
「センパイ」
「ん?」
「三桜先輩のこと、呼び捨てにしたの。……私、ちょっとだけ悔しいです」
「……悪い」
「謝んないでください。三桜先輩、帰りの電車でずっとにこにこしてたので。私が寝ちゃう前まで、ずーっと」
心花は後ろ前のキャップのつばを、指先でくるりと回した。
「それに、呼び捨ては私のほうが先輩ですもん」
「呼び捨てに先輩も後輩もあるのか」
「ありますよ。呼び捨てにしてもらった歴が、私のほうが長いんです。三桜先輩は、今日からの新人さんです」
「数え方が独特すぎるだろ」
「独特じゃないです! 私、こういうのはちゃんと数えてますから」
心花は人さし指を一本立てて、得意げに振ってみせた。
がらんとした通路に、サンダルの足音がぺたぺたと響く。
「だから、センパイが三桜先輩を呼ぶときは、私への敬意をちょっとだけ込めて呼んでくださいね」
「どんな敬意だ」
「元祖呼び捨てとしての敬意です!」
「元祖って言うな」
心花は胸を張って、それからふっと前を向いた。
通路の分かれ道で、その足が止まる。
「私、こっちのホームなので。ここから、あと一時間ちょっとです」
一時間ちょっとの帰り道を、心花はいつもひとりで帰っている。
「長いな」
「長いですよ。……でも今日は、たぶんすぐ着きます。窓の外見てたら、思い出すことがいっぱいあるので」
心花はにっと笑って、両手を大きく振った。
「おやすみなさい、センパイ! 三桜先輩に、受付のこと念押ししといてくださいね!」
心花は振り返り振り返り、階段を駆け上がっていった。
短い髪が最後の段の上でぴょこんと跳ねて、見えなくなった。
◇
家に着いたのは、二十一時の少し前だった。
シャワーを浴びると、首の後ろが思っていたよりしみた。
二葉さんの言うとおりだったらしい。
冷凍庫から出した保冷剤をタオルで巻いて首に当てながら、自分の部屋でリュックを開けた。
いちばん上にティッシュの小さな包みが寝ていた。
指でつまみ上げて、そっとティッシュを開く。
薄い貝殻は欠けもせずに、浜で見たときのままそこにあった。
机のスタンドを点けて、光にかざしてみる。
白い明かりの中では、夕日の下で見たときより色が淡い。
それでも縁のほうに、ほんのりと桜色が溜まっていた。
机の上とか、毎日目に入るところ。
ひきだしの奥とかは、だめ。
三桜に言われたとおり、机の真ん中に置いた。
置いてから少し考えて、ノートを一冊どけて、もう少し手前に寄せた。
椅子に座れば、いちばん最初に目に入る場所だった。
リュックの底からは、一度も膨らまなかった浮き輪が出てきた。
しぼんだビニールを畳み直して、押し入れの奥へ戻す。
膨らまなくてよかったんだ、と浜で言った自分の声を思い出した。
スマホが短く震えた。
『おうちに着いたよ。今日はありがとう。貝、ちゃんと机の上にいる?』
三桜からだった。
顔文字も絵文字もひとつもない、短い文だった。
画面の中の【ルナ】なら、語尾が跳ねて、顔文字がふたつみっつ付いてくるところだ。
三桜の文は浜で話すときの声よりも少しだけ静かだった。
返事を打った。
『いるよ。机のまんなか。椅子に座ったら、いちばん最初に見えるとこ』
送ってから、もう一行足した。
『おやすみ、三桜』
三桜、の二文字を打つとき、指が少しだけゆっくりになった。
浜で声にしたときより、ずっと簡単に打てるはずの二文字だった。
送信を押す指先まで、自分でも可笑しいくらい優しかった。




