第132話 延長料金と、知らされなかった同盟
海で一日遊んだ帰り、みんなから遅れて歩いた浜で、俺は三桜と二人きりで夕日が海に触れる一瞬を待っていた。
その一瞬に初めて三桜を呼び捨てにして、日が沈むまでという約束の刻限が過ぎても、繋いだ手はほどけないままでいる。
浜の入り口で待っていた四人の中から、迎えの影がひとつ、まっすぐこちらへ歩いてくる。
三桜は空いているほうの腕を前へ伸ばして、指を一本だけ立てた。
近づいてくる影を、指の幅で測っているらしい。
「さっきは指の半分もなかったのに、もう一本ぶんあるよ」
「人にも使えるのか、それ」
「使えないよ。でも、二葉ちゃんがどんどん大きくなってくのは分かるの」
「本人の前では言うなよ。怪獣が来るみたいに聞こえる」
「言わないもん。言ったら、工程表に書かれちゃう」
何と書かれるのかは聞かないでおいた。
波が寄せて、引いた。
暗くなりはじめた浜の上で、白いブラウスだけがやけにくっきりと浮いている。
畳んだ日傘を片手に提げて、背筋をまっすぐに伸ばした歩き方は、遠目にもまるで崩れない。
「二葉ちゃんの顔が見えたら、おしまいにするね」
「延長の延長の締め切りか」
「うん。締め切りはね、自分で決めると守れるの」
三桜は伸ばした指の向こうの白い影を、じっと見ていた。
指一本が二本になり、三本になる。
薄暗がりの中で、影の上にようやく顔の輪郭が乗ったとき、三桜が小さく息を吸って腕を下ろした。
「……お迎え、着いちゃった」
組んでいた指が、ゆっくりとほどけはじめた。
先に離れたのは手のひらだった。
重なっていたところに夕方の風が入りこんで、汗ばんだ肌がすうっと冷える。
中指が抜けて、薬指が抜けた。
最後に小指だけが残って、俺の小指の先にちょんと引っかかった。
三桜はそれを一回だけ揺らした。
それから、そっと外した。
「はい、延長おしまい」
外したばかりの手を、三桜は自分の胸の前でもう片方の手に包みこんだ。
大事なものをしまうみたいな手つきだった。
それから急に思い出したように、手の甲で目もとをごしごしこすろうとする。
「擦らないの」
声のほうが先に届いた。
顔を上げると、二葉さんがもう数歩手前まで来ていた。
きちんと四つに畳んだハンカチを、三桜の前へ差し出している。
「押さえるだけにしなさい。擦ると、明日まで赤いわ」
「……うん。ありがと、二葉ちゃん」
三桜は受け取ったハンカチを、まぶたにそっと押し当てた。
二葉さんはそれ以上何も聞かなかった。
赤い目のわけも、浜のこっち側で何をしていたのかも。
代わりに、取り出したスマホの画面にちらりと目を落とした。
「日の入りから九分」
「九分!? 一分過ぎたら来るって言ってたのに、九分もかかってるよ?」
「一分過ぎたところで歩きだしたもの。残りの八分は、浜が長いせいよ」
「浜のせいにした……」
「事実よ。電車は十九時二十分。走らなくても間に合うわ」
二葉さんの目がほんの一瞬だけ俺の右手に降りた。
さっきまで三桜の指が挟まっていた手だ。
目はすぐに戻って、俺の顔の上で止まった。
何か言われると思った。
言われなかった。
「マコト。シャツの肩に砂がついているわ」
二葉さんは手を伸ばして、俺の肩口を二度、軽く払った。
払ったのは三桜が額を押し当てていたあたりだった。
二葉さんは砂のことしか言わなかった。
リュックを背負い直す。
いちばん上に桜貝が寝ていると思うと、背負い直す手つきまで自然とそっとしたものになった。
「行こう、三桜。ハンカチは歩きながらでいいだろ」
言ってから、しまったと思った。
日傘の先が砂に小さく沈んだ。
二葉さんの足が半歩ぶんだけ止まっていた。
それだけだった。
二葉さんは何も言わずに歩きだして、三歩目で振り返った。
「三桜。手を出しなさい」
「え?」
「冷えているでしょう。裾まで濡らして」
差し出された手を、三桜はきょとんと見つめた。
それからぱっと顔を明るくして、両手でつかまえる。
「二葉ちゃんの手、あったかい」
「三桜のが冷えすぎなのよ」
手を引かれて、三桜は二葉さんの半歩後ろを歩きだした。
二葉さんは繋がれた手を振りほどかなかった。
前を向いたまま、歩幅だけを三桜に合わせて、ほんの少し狭くしていた。
浜の入り口の石段で残りの三人が待っていた。
一花さんは石段のいちばん上に腰かけて、頬杖をついている。
心花はその足もとにしゃがみこみ、立花は借りていたパラソルを返し終えたところらしく、空になった両手をぶらぶらさせていた。
「おっそーい」
一花さんが石段の上から声を投げてきた。
「三桜、延長料金ね。アイス一週間ぶん」
「一週間は長いよ、一花お姉ちゃん!」
「じゃ、五日」
「ちょっとしか減ってない!」
三桜は指を折って数えはじめた。
一週間から五日では、折った指が二本しか戻ってこない。
「値切っていいのは、あたしの機嫌がいいときだけ。今日はわりといいよ」
「じゃあ三日! 三日がいい!」
「調子に乗ると十日に増えるよ」
「……五日でお願いします」
三桜はあっさり白旗を上げて、ぺこりと頭を下げた。
一花さんは笑いながら、石段をとんとんと下りてきた。
三桜の顔をのぞきこんで、その目が一瞬だけ止まる。
二葉さんのハンカチと、まだ少し赤いまぶたを見比べたようだった。
一花さんはそれについては何も言わずに、三桜の濡れた前髪を指先でひょいと払った。
「センパイ! 三桜先輩も!」
心花が勢いよく立ち上がった。
後ろ前にかぶったキャップのつばが勢いでくるりと横を向く。
「二人して何しゃがみこんでたんですか! もう真っ暗になっちゃいますよ!」
「真っ暗ってほどじゃないだろ」
「なりかけてます! しかも一花先輩に聞いても、いいのいいのしか言わないし、二葉先輩は時計見たままひとりでずんずん歩いてっちゃうし。私と立花先輩だけ、ずっと置いてけぼりだったんですけど!」
「俺は別に、置いてけぼりでもよかったけどな。パラソル返してたし。保証金も戻ってきたし」
「立花先輩は、置いてけぼりに慣れすぎです!」
立花が戻ってきた五百円玉を親指で弾いて、手のひらで受け止めてみせる。
「五百円玉が戻ってくるとさ、なんか勝った気ぃしない?」
「もともと先輩のお金ですからね!? 一円も儲かってませんよ!」
「夢のないこと言うなよ、篠崎ちゃんは……」
心花は頬をふくらませたまま、ちらりと一花さんのほうを見た。
一花さんはわざとらしく口笛を吹くまねをした。
吹けていなかった。
「……一花先輩。何か知ってますよね」
「知らなーい。ただ今日は、三桜の貸し出し日だっただけ」
「貸し出し……って、本みたいにですか?」
心花の首がゆっくりと傾いていった。
三桜がハンカチを握ったまま、二葉さんの手から自分の手をそっと抜いた。
一歩、心花の前へ出る。
「心花ちゃん。……あのね。朝ごはんのときに、お願いしてたの。一花お姉ちゃんと二葉ちゃんに。帰りの浜で一回だけ、誠くんを私にくださいって」
「く、ください……!?」
「ちゃんと返すって言ったよ! 日が沈んだら!」
「沈んでから九分過ぎていたわ」
「二葉ちゃん、今それ言わなくていいの!」
心花は口をぱくぱくさせて、三桜と一花さんと二葉さんを順番に見た。
三人目まで来たところで、両手をぎゅっと握りしめる。
「朝ごはんの席って……私がいないとこじゃないですか! 抜けがけはなしって、私ちゃんと言いましたよね!? 先輩たちも、センパイのこと見張っとくって!」
「見張ってたってば。ここから、ずーっと。一回も目ぇ離してないし」
「見張るっていうのは、止めるとこまで込みなんですよ!」
「篠崎さん。見張りを頼まれたとき、止めるところまでは聞いていなかったわ」
「二葉先輩まで、そういう抜け道使うんですか!?」
輪の真ん中で心花だけが本気で地団駄を踏んでいた。
踏むたびにサンダルの下で砂がきゅっと鳴る。
さすがに放っておけなかった。
「心花。三桜をあんまり責めないでやってくれ。もとはといえば、俺が――」
そこで言葉が詰まった。
俺が浜の途中で立ち止まったから。
その先はどう言っても波の話になる。
口をつぐんだ俺を、心花がじっと見上げていた。
見上げたまま、目がまんまるになっていく。
「……センパイ。今、三桜先輩のこと、なんて呼びました?」
空気が止まった。
一花さんの首が、ぎぎぎ、と音がしそうなぎこちなさでこちらを向く。
立花が口を半開きにしたまま固まった。
二葉さんだけは何事もなかったような顔で、日傘の留め具を直していた。
「……三桜、って」
「呼び捨て!? 抜けがけの上に、呼び捨てまで!? 二個目じゃないですか、それ!」
「いや、一個目は俺じゃなくて――」
「一個目も二個目も、真ん中にいるのはセンパイなんです!」
反論の余地がまるでなかった。
「へえー」
一花さんがゆっくりと俺の前へ回りこんできた。
腰の後ろで手を組んで、下から顔をのぞきこむ。
口もとは笑っているのに、目だけがやけにじっとしていた。
「へーえ。三桜、ねえ。ふうん」
「……なんだよ」
「べつにー。いい響きじゃん、って思っただけ」
そう言ってから、一花さんはふいと横を向いた。
ほとんど息みたいな声が、唇の端からこぼれる。
「……ずるい」
「あっ。一花お姉ちゃん、今のちっちゃいずるいはね――」
三桜が嬉しそうに口を開きかけた瞬間、一花さんの手のひらがその口をぱふっとふさいだ。
「翻訳禁止。辞書はおうちに置いてきな」
「むー、むむー」
手のひらの下で三桜が何か抗議していた。
たぶん、辞書は頭の中にあるから置いてこられない、とかそういうことだ。
ちっちゃいずるいは、いいよってこと。
辞書がなくても、浜で教わったばかりの俺にはもう読めてしまった。
「なんの辞書ですか!? ずるいって言っただけなのに、なんで辞書が要るんですか!」
「篠崎ちゃんにはまだ早いかなー。姉妹歴十何年ぶんの厚みがあるからね」
「早くないです! 私だって、センパイの後輩歴なら誰にも負けてません!」
「張り合う相手が違うだろ」
「うわー……相沢が、三桜ちゃんを呼び捨てかあ」
立花が両手を頭の後ろで組んで、薄暗くなった空を仰いだ。
「なんだろな、これ。胸にくるっていうか。俺、ちょっと泣いていい?」
「タチバナくんが泣く要素、どこにあんの?」
「振られた男の目線だよ! 文句ある!?」
ほんの一拍、三桜の肩が小さくすくんだ。
立花はそれを見て、わざと大げさに胸を押さえてみせた。
「立花先輩、それ自分で言っちゃうんですね……」
「人に言われる前に言っとくんだよ。そのほうが傷が浅いだろ」
「浅くはないわね。傷口に自分で塩を揉み込んでいるだけよ」
「次女さん、たとえが痛えよ!」
胸を張って言うことではなかった。
でも立花は本当に笑っていた。
負けを認めたあの日と同じ、からっとした顔だった。
一花さんの手からようやく口を解放された三桜が、ぷは、と息をついた。
それから背筋を伸ばして、心花の前に立った。
「心花ちゃん」
「な、なんですか」
「怒って。……あとで私がちゃんと怒られるって、決めてたの」
三桜はぎゅっと目をつぶった。
両手を体の脇で握りしめて、顎を少しだけ上げる。
覚悟を決めたというより、注射の順番を待つ子どもみたいな顔だった。
「そ、そんなふうに目をつぶって待たれたら、怒りにくいじゃないですか……!」
「どうぞ」
「どうぞって言われると、もっと怒りにくいんです!」
心花は両手をわたわたさせて、助けを求めるように俺を見た。
俺は首を横に振った。
ここで口を挟んだら、たぶん三個目になる。
心花はしばらく唸っていた。
それから意を決したように、人さし指を一本、三桜のおでこへ持っていく。
ぺち。
音のわりにほとんど触れていなかった。
三桜はおでこに手を当てたまま、片目だけをおそるおそる開けた。
「……いたくない」
「痛くしてないからです! 痛くしたら、私のほうが泣いちゃいますもん」
心花はぷいと横を向いて、それから小さな声で付け足した。
「そのかわり。次からは、そのお願いの受付に私も入れてください。受付が先輩たちだけなの、ずるいです」
「入れる! 心花ちゃんも受付!」
三桜がぱっと目を開けて、心花の両手を握った。
心花の口もとが、怒った形を保とうとして、ぐにゃりと崩れかける。
「ただし、受付は朝食の席に限るわ」
「朝ごはんの席にいないの、私だけじゃないですか! それ、実質受け付けないってことですよね!?」
「……電話でも受け付けるわ」
「二葉が折れた。あした雪降るね」
「八月よ」
二葉さんは涼しい顔で日傘を持ち直した。
心花が嬉しそうに、三桜と握った手をぶんぶん上下に振っている。
「なあ篠崎ちゃん。俺も知らされてなかったんだけど。俺も受付入れる?」
「立花先輩は受付じゃなくて、知らされなかった同盟です。私と」
「同盟か! いいね、組もう組もう」
「組みます。……でも立花先輩、知らされても次の日には忘れてそうですけど」
「否定できねえのが、いちばんつらい」
心花が声を上げて笑った。
笑いながら、立花の差し出したこぶしに、自分のこぶしをこつんと当てる。
昼の浜で震える声で礼を言っていた子が、もうためらいもなく笑っていた。
駅までの短い上り坂を、六人でだらだらと歩いた。
海沿いの街灯がひとつずつ点きはじめている。
「タチバナくん、帰りのパンツ問題は解決したんだっけ?」
「おう、売店さまさまだよ。乾いてるってだけで、人間こんなに幸せになれんだな」
「朝の時点で考えていれば、売店に寄らずに済んだわね」
「次女さん、朝のこと根に持ちすぎだって!」
立花が笑いながら抗議したところへ、一花さんがその背中をばしんと景気よく叩いた。
「いっでえ!?」
立花の体が海老みたいに反り返った。
坂道の途中で背中を反らせたまま固まって、両手が宙をかいている。
「え、なに。そんな強く叩いてないよ?」
「せ、背中……背中がやばい。服がこすれるだけで痛えのに……!」
柄シャツの裾を、立花がおそるおそるめくった。
街灯の下に出てきた背中は、見事なまでに真っ赤だった。
肩甲骨のあたりから腰のすぐ上まで、どこにも切れ目がない。
「うわ、ほんとにまっかです。私の腕より赤いですよ、それ」
「篠崎ちゃんのは境目がオシャレじゃん。俺のは全面だぞ、全面」
「オシャレじゃないです! これのせいで、もう夏休み明けまで袖の長さ変えられないんですから」
「だから言ったろ。塗っとけって」
「朝の俺に言ってくれよ……あ、言われてたわ」
立花は自分の言葉に自分でうなだれた。
一花さんが手のひらを掲げて、日焼け止めを絞る手つきをしてみせる。
「あたし、塗ったげるって言ったよね? 背中出してって、ちゃんと言ったよね?」
「ハートまで描くって言われたら、誰だって逃げるだろ!」
「ハートの形に焼けてたら、それはそれで面白かったですよね」
「篠崎ちゃんまで敵かよ!」
「えへへ。私は焼け跡の先輩なので」
心花は自分の二の腕を、三桜にぼかしてもらった境目ごとぺちぺちと叩いてみせた。
立花はシャツの裾を下ろしかけて、こすれた背中にまた小さく呻いた。
「駅に着いたら、自販機で冷たい缶を買いなさい。背中に当てるといいわ」
「次女さん、仏に見える……!」
二葉さんに手を合わせて拝む立花を急かしながら、駅までの残りの坂を六人で上りきった。




