第131話 夕日が海に触るとき、ひとことの名前
波の音に足を止めた俺のところへ、三桜さんだけが引き返してきて、何も聞かずに乾いた砂のほうへ連れ出してくれた。
先を行くみんなのことは「お願いしてあるから」とだけ言って、中身は教えてくれないまま。
二人だけ遅れて歩く帰りの浜で、三桜さんが拾った桜貝は、俺へのお土産になった。
ティッシュにくるんだ桜貝をリュックにしまって背負い直したとき、三桜さんがふと海のほうへ向き直った。
右腕をまっすぐ前へ伸ばして、指をそろえて横に寝かせる。
夕日と水平線のあいだに、指を一本ずつ重ねていった。
「……さん、ぼん」
声がひっくり返った。
「うそ、一本へってる! さっき四本あったのに!」
「何を測ってるんだ?」
「日が沈むまでの時間。指一本で、十五分くらいなんだって。二葉ちゃんが言ってた」
「それ、指の太さで変わらないか」
三桜さんは腕を伸ばしたまま、首だけでこっちを振り返った。
「変わらないよ。私の指、二葉ちゃんとおんなじ太さなの」
「背は二葉さんのほうが高いのに?」
「指は同じなの! 三つ子だから。前に、三人で手のひら合わせて比べたんだから」
自信満々に言い切ってから、三桜さんは伸ばした自分の指を見つめて、少しだけ不安そうな顔になった。
「……一花お姉ちゃんのは、ちょっと長かったけど」
「で、さっきっていつ測ったんだ?」
「えっ」
「……ああ、貝を探してたときか。一回立ち上がって、同じ格好してたもんな」
三桜さんの腕が伸ばしたままの形で固まった。
「そ、それは……貝。貝を、夕日に透かしてたの」
「右手は空っぽだったぞ」
「じゃ、じゃあ……えっと、日が沈むまでに戻れば、二葉ちゃんに怒られないかなって、それで――あっ」
三桜さんは、あっ、の口のまま止まった。
「日が沈むまでに戻ればいいって、誰が決めたんだ」
「……だ、誰だろうね?」
「それに、さっきから二葉さんが一回も振り返ってない。あの人が、俺たちを置いて黙って行くわけないだろ」
三桜さんは伸ばしていた腕を、そろそろと下ろした。
下ろした手でワンピースの裾をきゅっとつかむ。
「……ばれた」
「三桜さんの嘘、昼に一花さんにも言われてたろ。俺といい勝負だって」
「誠くんといい勝負なら、そんなにへたじゃないもん」
「俺のは心花に、へたですねって言われた」
「……じゃあ、へただね」
三桜さんはあきらめたように肩を落として、つま先で砂に小さな丸を描いた。
「……朝ごはんのときにね、お願いしたの。一花お姉ちゃんと二葉ちゃんに」
「何を?」
「帰りの浜で、一回だけ。……誠くんを私にくださいって」
「俺は物か」
「ちゃんと返すもん! 日が沈んだら!」
三桜さんは空いているほうの手を握りこぶしにして抗議した。
「それ、貸し出しじゃないか」
「一花お姉ちゃんにも、おんなじこと言われた。貸し出しじゃん、って。それから――」
三桜さんは急に片手を腰に当てて、顎をつんと上げた。
誰の真似なのかは、聞くまでもなかった。
「はあ!? ずるい! ……って。トーストくわえたまま。それが一回目」
「回数があるのか」
「三回あるの。二回目は電車の中。窓のほう向いたまま、ずるいってば、って」
今度は見えない窓に頬杖をついて、三桜さんは唇をとがらせてみせた。
とがらせ方まで一花さんにそっくりだった。
「三回目は?」
「海の家で着替えてるとき。私のワンピースの背中のファスナー、上げてくれながら……ちっちゃい声で、ずるい、って」
そこだけ、三桜さんの声も一緒に小さくなった。
背中に片手を回して、見えないファスナーをそっと引き上げる手つきをしながら、三桜さんは目を伏せていた。
「一花お姉ちゃんのね、ちっちゃいずるいは、いいよってことなの」
「翻訳が要るのか、それ」
「要るよ。でも私は妹だから、辞書なしで読めるの」
「二葉さんは?」
「二葉ちゃんは、お味噌汁を最後まで飲んでから言ったの」
三桜さんは貝を握った左手ごと、腕を胸の前で組んだ。
顎をほんの少しだけ引いて、まぶたを半分落とす。
足の幅まできっちり肩幅にそろえていた。
「日が沈むまでよ。一分でも過ぎたら、迎えに行くわ」
……似ていた。
声の高さも、語尾の置き方も、驚くほど二葉さんだった。
「今日のは、語尾に迷いがないな」
「でしょ! 着替えながら練習したの。二葉ちゃん本人の前で」
「本人の前で練習するなよ」
「本人が直してくれたんだよ。語尾の手前で、ちょっとだけ息を止めるんだって。そしたら重くなるからって」
「自分の物真似の指導までするのか、あの人」
「するよ。二葉ちゃん、負けず嫌いだから。自分の真似でも、へたなのはいやなんだって」
三桜さんはなぜか誇らしげに顎を上げてみせた。
「息を止めるだけで合格だったのか」
「ううん、まだあるの。顎が二度高いわよ、って」
「分度器でも持ってたのかよ」
思わず笑ってしまった。
昼間のボールの輪で、何度も一から数え直させていた涼しい横顔が目に浮かぶ。
「それにね、工程表のいちばん下に、ちゃんと書いてくれたの。日の入り、三桜、って。二葉ちゃんの字で」
工程表の最後の一行に、三桜さんの名前がある。
書いたときの二葉さんの顔を、なんとなく想像してしまった。
たぶん、いつもと同じ顔だ。
同じ顔のまま、ペンを握る指にだけ少し力が入っていたんじゃないかと思う。
「……二人とも、よく許してくれたな」
「ううん。許してくれたんじゃないの」
三桜さんは首を横に振って、浜の入り口のほうを見た。
四つの点はもう浜の入り口で止まっていた。
担がれたパラソルの先が、点の上で小さく揺れている。
「お姉ちゃんたちの今日のぶんを、私に貸してくれたの」
その言い方でようやく腑に落ちた気がした。
朝から一日じゅう、一花さんも二葉さんも、俺の隣を取り合っていた。
取り合いながら、帰り道のどこかだけは、最初から三桜さんのために空けておいてくれたのだ。
「いつ使うかは、私が決めていいことになってたの。帰りの浜では、お姉ちゃんたちがみんなを連れて、振り返らないで先に行ってくれるって」
「……じゃあ、さっき引き返してきたのが」
「うん。ほんとはね、もうちょっと日が低くなってから使うつもりだったの」
三桜さんはそこで言葉を切って、俺の顔をちらりと見上げた。
「でも、誠くんが止まったから」
それ以上は何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
「そういえば、心花が抜けがけはなしって言ってなかったか?」
「抜けがけじゃないよ。ちゃんとお姉ちゃんたちに届け出たの。届け出たら、正式な……えっと、正式な寄り道なの」
「届け先に、心花が入ってないぞ」
「……あっ」
三桜さんの眉がみるみる下がっていった。
「心花ちゃんには……あとで、私がちゃんと怒られる」
「怒られるのは決定なのか」
「うん。怒られても、今日だけは譲れないの」
困った顔のまま、そこだけはきっぱりとしていた。
「それで。日が沈むまでに、何をするんだ?」
三桜さんは海のほうへ向き直った。
金色の道はいつのまにか色を変えていた。
白っぽかった金が濃い橙に沈んで、その両側の海が、昼間とは別の深い青に変わりはじめている。
「見たいの」
「見たいって、夕日をか? それなら、さっきからずっと見えてるだろ」
「夕日が、海に触るとこ」
三桜さんは人さし指を伸ばして、水平線のすぐ上をすっとなぞった。
「沈むのは、ゆっくりでしょ。みんなでおしゃべりしながら見てても、ちゃんと見られる。でもね、触るのは一回だけなの。ほんとに一瞬で、よそ見してたら終わっちゃう」
「だから、二人でか」
「うん。……誠くんの隣で、同じ一瞬を見たかったの」
波がひとつ寄せて、ひとつ引いた。
三桜さんの言葉はそのあいだに置かれたみたいに静かだった。
「それだけのために、朝から頭を下げてたのか」
「それだけって言わないで。今日のいちばんなんだから」
三桜さんは唇をとがらせて、それから少しだけ笑った。
どれくらい話しこんでいたのか、気がつくと浜からずいぶん人が減っていた。
最後までパラソルを立てていた家族連れが荷物をまとめて、浜の入り口のほうへ歩いていく。
波打ち際で犬を遊ばせていた人も、犬を呼び戻して帰っていった。
話し声がひとつずつ消えていって、最後に残ったのは波の音だけだった。
寄せて、砕けて、引いていく。
昼間は人の声にまぎれていた音が、急に浜いっぱいに広がった気がした。
水の色は暗くなっていくのに、砕ける波の縁の白さだけがやけにくっきりと浮いて見える。
腕の内側が、すうっと冷えた。
三桜さんがもう一度、腕を伸ばして指を重ねた。
「……一本、ない」
小さく呟いてから、三桜さんは握ったままだった左手を開いた。
手のひらには、欠けた貝殻やひびの入った貝殻が、いくつも寄り添うように乗っていた。
「この子たち、返してくる。お土産になれなかった子たち」
「持って帰ってもいいんじゃないか」
「だめ。みんな、ここの子なの。私が勝手に選んで、勝手に連れてきちゃったから」
三桜さんはそう言うと、濡れた砂のほうへ下りていった。
波打ち際の少し手前でしゃがむと、指先で砂を小さく窪ませて、貝殻をひとつずつそこへ寝かせていく。
並べるたびに何か声をかけているらしく、うつむいた頭が小さく揺れた。
その背中を、乾いた砂の上から見ていた。
日はもう水平線のすぐ上まで下りてきている。
暗くなっていく海を前に、しゃがんだ背中がひどく小さく見えた。
寄せた波が三桜さんのサンダルの踵を洗って引いていく。
浜にはもう、俺たちのほかに誰もいなかった。
暗くなる波打ち際に、小さな背中がひとつきり。
――そんなところに、ひとりで置いておけるわけがなかった。
足が勝手に前へ出た。
乾いた砂が湿った砂に変わり、湿った砂がもっと固く、冷たくなる。
三桜さんまであと三歩というところで、白い泡が砂を駆け上がってきて、俺のサンダルのつま先を越えた。
冷たかった。
ただそれだけのことで、体が止まった。
引いていく波が、足の下の砂を細くさらっていく。
踵がわずかに沈むその感触に、喉の奥が勝手に縮んだ。
前にも後ろにも、足が出なかった。
三桜さんが振り返った。
しゃがんだまま俺を見上げて、それからゆっくり立ち上がる。
何も聞かなかった。
残りの三歩を、三桜さんのほうから歩いてきた。
最初に触れたのは、小指だった。
だらりと下がっていた俺の右手の小指に、三桜さんの小指がちょんと引っかかる。
プールの水の中で、二回だけ揺らしたあの指だった。
それから薬指が、中指が、一本ずつすき間に入りこんできて、最後に手のひらがぴたりと重なった。
指と指がしっかりと組まれる。
三桜さんの手は波に浸かっていたぶん冷たかった。
冷たい指の奥から、とく、とく、と速い脈だけが伝わってくる。
三桜さんは手を繋いだまま、俺の隣に並び直した。
俺より一歩、海のほうに。
「海に来たときはね、私がずっと手を繋いでてあげる」
波の音の合間に、その声ははっきりと聞こえた。
物真似の声じゃなかった。
誰の言い方でもない、三桜さんの声だった。
寄せてきた波が、二人の足首をまとめて洗っていく。
引いていく水に合わせて、組んだ指が俺の手の甲をきゅっと押さえた。
「……波になんか、さらわせないから」
――知っている。
その言葉を、俺は知っている。
あの夜、画面に届いた一行と、ほとんど同じだった。
それだけじゃない。
【ルナ】の言葉には、続きがあった。
さっきは一行目までしかたどらなかった、その続きだ。
今の一言は、あの続きと同じことを言っていた。
あの夜のことは、誰にも話していない。
画面の向こうにいた、ひとりのほかには。
三桜さんが、本物の――
喉の奥で、問いはそこから先へ進まなかった。
三桜さんはもう俺を見ていなかった。
手を繋いだまま、まっすぐ海を見ている。
水平線のすぐ上で、ふくらんだ夕日が赤く揺れていた。
その赤が、三桜さんの頬にも、濡れた毛先にも、まばたきを忘れた睫毛の先にも落ちている。
波を吸ったワンピースの裾が、細いふくらはぎに張りついていた。
波が引くたびに、細い指が俺の指のあいだで締まる。
ついこのあいだまで、プールで顔を水につけるのに、三つ数えるのがやっとだった子だ。
その子が、くるぶしまで波に浸かったまま、足もとを一度も見ないで立っている。
俺の手を握って、俺より海のほうに立って。
胸の奥から何かがあふれた。
問いの続きも、あの夜の画面も、ぜんぶその下に沈んでいった。
知りたいことより先に、目の前のこの子が――俺の全部を持っていってしまったからだ。
俺のために綺麗な桜貝を見つけて、嬉しそうに笑ってくれたこと。
そして今、古い記憶に竦みかけた俺の手を、こうして力強く握ってくれていること。
この子はいつも、自分の気持ちをごまかせない。
打算も計算もない、ただ真っ直ぐなだけの想いを、そのまま差し出してくる。
そんなこの子が、どうしようもなく愛おしかった。
夕日の下の縁が、海に触れた。
「――三桜」
堪えていた喉から、勝手にこぼれた。
自分の声じゃないみたいに、かすれていた。
三桜の肩がぴくりと跳ねた。
海を見ていた顔がゆっくりとこちらを向く。
ずっと待っていたはずの一瞬に、背を向けて。
三桜は何も言わなかった。
言えないみたいだった。
唇だけが、俺の呼んだ形を音にしないままなぞった。
み、お、と。
なぞり終えたところで、口もとがくしゃりと崩れた。
夕日の色をいっぱいに受けた顔が、そのままほどけるように崩れていく。
目のふちに溜まった光が、ひとつ、頬を転がり落ちた。
それでも三桜は目を逸らさなかった。
濡れた目でまっすぐに俺を見上げていた。
何も言わずに、次の言葉を待っているのが分かった。
逃げ場なんて、とうの昔になかった。
俺は小さく息を吐くと、繋いだ手をそっと握り返し、もう一度、確かな熱を込めて呼んだ。
「……三桜」
「……うんっ」
三桜はこくりと頷いた。
頷いた拍子に、もうひとつ涙がこぼれた。
繋いだ手が一度だけ強く握られる。
それから三桜は、額を俺の肩にそっと押し当てた。
声は出さなかった。
預けられた重みが、薄い生地ごと胸に寄りかかってくる。
波に濡れた裾が、俺の脛にひやりと触れた。
肩口のシャツが、少しずつ温かく湿っていった。
「……触るとこ、見逃しただろ」
「うん」
肩口でくぐもった声がした。
「見逃しちゃった。朝からずっと、楽しみにしてたのに」
「悪い」
「ううん。いいの」
三桜は額をつけたまま、首を小さく横に振った。
「もっといいの、もらっちゃったから」
顔を上げた三桜と並んで、沈んでいく夕日を見た。
三桜の言ったとおりだった。
沈むのは、ゆっくりだった。
丸かった夕日が半分になり、細い弧になり、最後に光の粒をひとつだけ残して――
それも、海の向こうへ消えた。
空と海の境目で、色が入れかわりはじめた。
水平線のすぐ上だけが燃え残ったような橙で、その上から薄い紫が、さらに上から深い青が下りてくる。
海のほうはもう、空より先に暗くなっていた。
「……沈んだな」
「うん」
「二葉さんとの約束、日が沈むまでだったろ」
三桜は頷いた。
頷いたのに、手はほどけなかった。
組んだ指に、むしろもう一段力がこもった。
「三桜」
「……ごめんね、今は無理なの」
いつかの雨の軒先で聞いたのと、同じ言葉だった。
「それ、俺に使うのは二回目だぞ」
「うん。二回目だから、前よりじょうずに言えたでしょ」
三桜は沈んだ夕日のあとを見ていた。
「楽しい日ってね、終わるとこがいちばんこわいの。だから、ちょっとだけ遅くしたいの。……終わっちゃうの」
その全部が分かったわけじゃなかった。
楽しい日が終わるのがさみしい、というだけなら俺にも分かる。
けれど三桜の声は、さみしいというより、もっと手前の何かを怖がっているように聞こえた。
分かったのは、たぶん半分くらいだ。
残りの半分は、ほどけない指の強さだけが教えてくれていた。
浜の入り口のほうで点のひとつが動いた。
固まっていた四つの点の中から、ひとつだけが離れて、こちらへ向かって歩きだす。
遠すぎて、顔なんか見えるはずもない。
それでも、背筋をまっすぐに伸ばしたあの歩き方を、見間違えるはずがなかった。
「……二葉ちゃん、ほんとに来た」
「一分でも過ぎたら、って言ってたんだろ」
「言ってた。……二葉ちゃん、ほんとに一分も待ってくれないんだ」
三桜は小さく吹き出した。
涙のあとが残った頬のまま、肩を揺らして笑っている。
「じゃあ、二葉ちゃんがここに着くまで。それまで、もうちょっとだけ」
「延長の延長じゃないか、それ」
「延長はね、お迎えが来るまでが延長なの」
理屈になっていない理屈を、三桜は胸を張って言い切った。
繋いだ手はやっぱりほどけなかった。
俺のほうもほどかなかった。
暮れていく浜で、三桜が俺を見上げて笑った。
目のふちはまだ赤くて、睫毛の先は濡れたままで、それでも今日いちばんの顔だった。
あの夜、画面の向こうにいたのが誰だったのだとしても。
今この手を握っている笑顔だけは、疑いたくなかった。




