第130話 波打ち際、気づいたのは三桜だけ
一日じゅう海で遊び倒して、海の家で着替えを済ませたあと、六人で駅へ続く長い砂浜を引き返していた夕方のことだ。
いちばん後ろを歩いていた俺は、すぐ先の砂を洗っていった波の音に、ふと足を止めてしまった。
前を行く声はそのまま遠ざかっていき、すぐ前を歩いていた三桜さんだけが振り返った。
低くなった日が、海の上に白い光を細かくばらまいている。
三桜さんはその光を背にして、少しのあいだ俺の顔を見ていた。
何も聞かれなかった。
三桜さんはサンダルの足を砂に沈ませながら、来た道をとことこ引き返してきた。
俺の隣まで来ると、海のある側にすっと並ぶ。
湿った毛先から落ちたしずくが、ワンピースの肩の染みをまたひとまわり広げた。
「誠くん、こっちの砂、まだあったかいよ」
三桜さんは俺の手首を指先でつまむと、海とは反対の、乾いた砂のほうへ軽く引いた。
引かれるまま、斜めに二歩、三歩と上がる。
足の裏の感触が、湿って締まった砂からさらさらの砂に変わった。
波の音がそのぶんだけ遠くなった。
「……ほんとだ。まだぬるいな」
「でしょ。昼間の熱がね、中にしまってあるの。干したてのおふとんみたい」
「砂を布団にたとえる人、初めて見た」
「いちばんいいおふとんだよ? お日さまのにおいがするやつ」
三桜さんは俺の手首をつまんだまま、海側を歩いた。
寄せた波がときどき三桜さんのサンダルのすぐ脇まで来て、白く泡立っては引いていく。
三桜さんは足もとを見もしなかった。
「三桜さん、そっち側だと濡れるぞ」
「いいの。サンダルだもん。濡れても、歩いてたら乾くやつ」
それきり三桜さんは波のことを何も言わなかった。
どうして止まったの、とも聞かなかった。
俺のほうも言わなかった。
口に出すほどのことでもない気がして、言葉になる前に飲みこんでしまった。
前を見ると、四人の背中はずいぶん小さくなっていた。
日傘がひとつと、その少し後ろに、畳んで旗みたいに担がれたパラソルが一本。
声はもう波にまぎれて、ほとんど届いてこない。
「まずいな。みんな、だいぶ先に行ってる」
「いいの」
「よくないだろ。二葉さんのことだから、電車の時刻まで工程表に書いてあるはずだぞ」
「大丈夫。お願いしてあるから」
「お願い? 誰に、何を?」
「それは……まだ、ないしょ」
三桜さんは俺の手首から指を離して、その指を唇の前に一本立てた。
内緒の合図のつもりらしいが、目がものすごい勢いで泳いでいる。
「まだってことは、そのうち教えてくれるのか」
「そのうち。……たぶん、今日のうちに」
「たぶんが付いたな」
「付いちゃうの。私の予定って、だいたいたぶんで動いてるから」
背中のほうでまた波が砂を洗った。
さっきより遠い音なのに、耳はまだそれを拾ってしまう。
小さいころ、家族で行った海で、一度だけ迷子になったことがある。
夕方だった。
波打ち際で何かを追いかけているうちに、振り返ったら、見覚えのあるパラソルがどこにもなかった。
日がどんどん低くなって、水の色が暗くなって、波の音だけがだんだん大きくなっていった。
俺はその波打ち際で、ひとりで泣いた。
両親はすぐに見つけてくれた。
たぶん、ほんの数分のことだったのだと思う。
それでも、あれから夕方の波の音だけは少し心細い。
昼の海はなんともない。
今日だって一日じゅう泳いでいたし、三桜さんが泳ぐのも、すぐ横で見ていた。
誰にも話したことはなかった。
話すほどのことでもないし、話せばきっと笑われる種類の話だ。
……一度だけ、【ルナ】に話した。
いつだったか、なかなか寝つけなかった夜更けのチャットで、ぽろりと打ってしまったのだ。
【ルナ】は笑わなかった。
茶化しもしなかった。
しばらく返事が途切れて、それから、一文字ずつ置くようにして、その一行が届いた。
『今度海に行くときは、私がずっと手を繋いでいてあげるね』
画面の向こうから届いた、手のない約束だった。
あの夜はそれだけで十分だった。
その今度が、今日だった。
……それにしても。
俺は隣を歩く三桜さんの横顔を盗み見た。
なんで分かったんだろう。
足が止まっただけで、顔に何か書いてあったわけでもないだろうに。
――いや、三桜さんはそういう子だ。
誰かが立ち止まれば、理由も聞かずに引き返してくる。
今日だって、心花の手を握りに何回走っていったか分からない。
それに、俺がただ波を冷たそうに眺めていただけかもしれない。
「あっ!」
三桜さんが急に立ち止まって、俺の袖を引いた。
「誠くん、あれ! あそこ、ピンクのちっちゃいの!」
三桜さんが指さしたのは、さっき離れたばかりの波打ち際だった。
波が引いたあとの濡れた砂の上で、爪の先ほどの何かが、夕日を受けてちかりと光っている。
「待っててね! すぐ戻るから。ほんとにすぐだから!」
返事も待たずに、三桜さんは濡れた砂のほうへ駆け下りていった。
俺は乾いた砂の上に残った。
追いかけようとした足が、一歩ぶんだけ迷ったからだ。
三桜さんは波打ち際にしゃがみこんだ。
ワンピースの裾を膝の裏にまとめて挟み、濡れた砂から光るものをつまみ上げる。
夕日に透かして、首をかしげて、それを左の手のひらに乗せた。
「それじゃないのか?」
「欠けてるの。端っこが、ちょっとだけ」
声を張って返しながら、三桜さんはもう次を探している。
二つ目も透かして、左の手のひらに乗せた。
「それは?」
「ひびが入ってる。おうちに着くまでに割れちゃう」
二つの貝を左の手のひらに乗せたまま、三桜さんがふと立ち上がった。
右腕をまっすぐ夕日のほうへ伸ばして、ほんの少しのあいだ、そのまま止まる。
貝の色と夕日の色でも見比べているのだろうか。
すぐにまたしゃがみこんで、三桜さんは砂の上に目を戻した。
三つ目を拾ったとき、三桜さんの顔がぱっと明るくなって、すぐにしぼんだ。
「……これ、貝じゃなかった」
「じゃあ何だったんだ?」
「ガラス。角がまるくなってるやつ。きれいだけど、ピンクじゃないの」
寄せた波が、しゃがんだ三桜さんのつま先を洗った。
三桜さんは気にも留めずに、次の光を探して砂の上に目を走らせている。
海の上では、ばらばらだった白い光がいつのまにか寄り集まって、水平線から波打ち際までまっすぐ続く、一本の金色の道になっていた。
三桜さんはその道の終わるところにしゃがんでいた。
夕日のほうを向いた背中が、逆光の中で細い輪郭だけになっている。
薄いワンピースは光をほとんど止めていなかった。
生地の向こうで、しゃがんだ腰から腿へ続くなだらかな線が、影絵のようにうっすらと透けていた。
五つ目か、六つ目か。
数えるのが面倒になったころ、三桜さんが息を呑んだ。
「……あった」
つまみ上げたひとつを夕日にかざして、三桜さんはしばらく動かなかった。
それから、くるりとこちらを振り向いた。
「あったよ、誠くん! 欠けてない、ひびもない、ちゃんとピンクの――」
言い終わる前に、ひときわ大きな波が、白く泡立ちながら砂を駆け上がってきた。
「ひゃっ……! 来た、来た来たっ!」
三桜さんは右手を握りしめて跳ね起きると、裾をひるがえして、こっちへ一直線に駆け上がってきた。
背中から白い泡が追いかけてくる。
追いつかれるより先に、三桜さんは勢いのまま俺の胸に飛びこんできた。
受け止めた体は小さくて、ひどくやわらかかった。
薄い生地越しに、胸もとの丸みが俺の胸板に押されてたわむ。
乾ききらない髪が顎の下に触れて、ひんやりと湿っていた。
波は俺たちの手前、乾いた砂の境目まで来て、そこで力尽きて引いていった。
「……セーフ?」
「セーフだ。波は追いかけてきたわけじゃない。寄せてきただけだ」
「寄せてくるのを、追いかけてくるって言うんだよ! 今のは、ぜったい私のこと狙ってたもん」
「波に狙われる心当たりがあるのか」
「あるよ。貝、いっぱい拾っては、だめって言っちゃったから。怒ったんだよ、きっと」
胸に額をくっつけたまま言い張る声が、シャツ越しに直接響いてくる。
そこでようやく、三桜さんは自分がどこにいるのかに気づいたらしい。
勢いよく顔を上げて、半歩だけ後ろへ下がった。
夕日の赤さを差し引いても、耳まで真っ赤になっていた。
「わ、ご、ごめんね。ぶつかっちゃった……っ」
「いいよ。それより、手」
三桜さんは握りしめていた右手を、おそるおそる開いた。
手のひらのまんなかに、爪の先ほどの小さな貝殻がひとつ乗っていた。
逃げてくるあいだも、握りつぶさないように指を丸めていたらしい。
「割れてない……よかったぁ」
三桜さんは心の底からほっとした息をついて、それから俺を見上げた。
「誠くん、手、出して」
言われるまま差し出した手のひらに、三桜さんは貝殻を慎重に移した。
二枚貝の片割れで、薄くて平たい。
指でつまんだら、それだけで割れてしまいそうだった。
「日に透かしてみて」
息を詰めてつまみ上げ、夕日にかざす。
白っぽく見えていた殻が、光を通したとたん、淡い桜色にふわりと染まった。
「……きれいだな」
「でしょ。桜貝っていうの。誠くんへのお土産」
「お土産って、俺も同じ海に来てるんだけど」
「同じ海でも、誠くん、今日いっこも拾ってないでしょ。ずっと誰かの足を冷やしてたり、顔で炭酸を受けてたりしてたから」
「……よく見てるな」
三桜さんはなんでもないことみたいに頷いた。
「見てたもん。ずっと」
それから、俺がつまんだままの桜貝を、指先でつんとつついた。
「名前に桜が入ってるの。だから、なくしちゃだめだよ」
「三桜さんの桜か」
「……そう。私のぶん。机の上とか、毎日目に入るところに置いといてね。ひきだしの奥とかは、だめ」
「机の上な。分かった」
ポケットに入れたら、家に着くまでに粉々になりそうだった。
ポケットティッシュを一枚抜いて桜貝をくるみ、背負っていたリュックを下ろす。
ファスナーを開けた拍子に、底に押しこんであったビニールの塊がのぞいた。
「……それ、浮き輪?」
「もしものときのな。押し入れから出してきた」
「もしものときって……私の?」
「出番がなかったんだから、どっちでもいいだろ」
三桜さんは目をまるくして、それからゆっくりと口もとをほどいた。
「えへへ。……一回も膨らまなかったね」
「膨らまなくてよかったんだよ」
くるんだ桜貝をいちばん上に寝かせて、ファスナーを閉じた。




