第135話 自己申告の勝負と、からかい返し
海で一日遊んだあの日から、何日か過ぎた。
お盆を目前にした平日の昼過ぎ、俺はコンビニの袋を提げて、学校の最寄り駅から綾瀬家のマンションまでの数分を小走りで急いでいた。
帰りの電車で俺の肩を枕にして寝ていた人から、昼前にメッセージが立て続けに届いたせいだ。
『たすけて。とける。アイス持ってきて』
『二葉と三桜は夕方まで図書館。三桜のレポートの調べものに、二葉が見張りでついてった』
『だから今日は、あたしの貸し出し日。早く来ないと、アイスが届く前にあたしが溶けちゃうからね』
貸し出し日、という言い方には覚えがあった。
海の帰りの浜で、一花さんはあの日を「三桜の貸し出し日」と呼んでいた。
その日のうちに、横を向いて、息みたいな声で「ずるい」とこぼしたことも覚えている。
言った本人が今度は自分の番を取りにきたらしい。
袋の中では二本の棒アイスが、少しずつ柔らかくなりはじめている。
ガラス張りのエントランスが見えてきたところで、俺はもう一段足を速めた。
インターホンを鳴らしても、スピーカーから声は返ってこなかった。
かわりにオートロックの扉が無言のまま左右に開いた。
ポケットのスマホが短く震える。
『鍵あいてるから、勝手に上がってきて』
エレベーターで上がって、部屋のドアを開ける。
廊下の奥から扇風機の首振りの音だけが聞こえてきた。
冷房はついているはずなのに、空気がやけにぬるい。
「お邪魔します。……一花さん?」
返事がない。
リビングを覗いて、足が止まった。
フローリングの真ん中に、一花さんが仰向けに倒れていた。
大きめの白いTシャツの襟が片方の肩からずり落ちて、日に焼けていない肩と、キャミソールの細い紐がのぞいている。
ゆるくまとめたお団子が床に崩れ、扇風機の風が来るたびに、ほつれた毛先だけがかすかに揺れた。
投げ出された手のひらは、天井を向いたまま動かない。
胸が上下しているのかどうか、ここからでは分からなかった。
袋が手から滑り落ちた。
「一花さん!」
駆け寄って膝をつく。
頬に触れると、ひやりとしていた。
額に手を移して、それから首筋に指を当てる。
熱はない。
むしろ床に冷やされて、走ってきた俺の指のほうがよほど熱いくらいで——
「……ぶふっ」
閉じていた唇の端が、ぴくりと震えた。
「ひっ……かかったー! あははっ、誠、顔! 今の顔やばい!」
一花さんは床の上で体を丸めて、お腹を抱えて笑い転げた。
笑いながら、首筋に当てたままだった俺の手首をつかまえて、自分の頬に押しつけてくる。
床で冷えた頬が、手のひらの中でふにゃりとつぶれた。
「手、あっつ。走ってきたんだ? ウケる。誠が遅いから、あたし床に溶けちゃってましたー」
俺は膝をついたまま、しばらく何も言えなかった。
駅から走ってきた汗が、今ごろになって背中を伝い落ちていく。
頬に押しつけられていた手を、そっと引き抜いた。
「……一花さん」
「なになに、怒った? もしかして本気で心配しちゃった?」
「した」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「床に倒れてて、呼んでも返事がなかったら誰だってする。……それはやめてくれ。笑えない」
一花さんの笑い声がぷつりと途切れた。
床に寝そべったまま、黙って俺を見上げてくる。
笑った形で固まっていた口もとから、ゆっくりと力が抜けていった。
ほんの一瞬だけ、置いていかれた子どもみたいな顔をした。
「……ごめんて」
小さな声だった。
けれど次の瞬間には、もう口の端が持ち上がっていた。
「でもさ、誠が怒るのってめずらしくない? そんなに、あたしのこと心配だったんだ?」
「心配するだろ、普通」
即答すると、一花さんはなぜか二回まばたきをした。
それから勢いよく上体を起こして、ずり落ちていた襟を肩まで引き上げる。
「……ふーん。あっそ」
引き上げた襟の端を、指先でいつまでもいじっている。
いじりながら、一花さんは横目でちらりとこちらをうかがった。
「じゃあさ、勝負しよ」
「なんでそうなるんだよ」
「誠が今日、ちょっと生意気だから。今日一日、先にドキッとさせたほうが勝ち。負けたほうは、勝ったほうの言うことを一個だけ聞くの」
一花さんは床に手をついて身を乗り出すと、人さし指を一本立てて、俺の鼻先に突きつけた。
引き上げたばかりの襟が、前のめりになった拍子に、また肩からすべり落ちる。
今度は、直す気配もなかった。
「判定はどうするんだ?」
「自己申告。嘘ついたら針千本ね」
「針千本って、どこで揃えるんだよ」
「通販。送料無料のとこ探しとく」
探さなくていい。
「ちなみに、さっきのはあたしの一点ね」
「あれはドキッじゃない。ヒヤッだ」
「……ヒヤッはノーカンにしたげる。あたし、優しいから」
優しい人は、死んだふりで客を出迎えたりしない。
「勝ちたいとも思ってないけどな」
「はい出た、負ける人の言い訳。もう始まってるかんね」
一花さんは床に落ちたコンビニの袋を拾い上げて、中から一本を抜き取った。
残りの一本を俺に放ってよこすと、ぺたりと床にお尻をつける。
ソファがあるのに、二人とも床だった。
「この部屋、なんでこんなにぬるいんだ?」
「二十七度。二葉の決まり」
「下げればいいだろ」
「リモコン、二葉が持って出てった」
「図書館にエアコンのリモコンを持っていく人、初めて聞いた」
「あたしも初めて見た。玄関で鞄に入れてたもん。一花は下げるからって」
壁の上のエアコンは、低い音を立てて律儀に二十七度の風を吐いている。
「スマホで動かせるやつじゃないのか、これ」
「アプリ、二葉のスマホにしか入ってない。パスワードも二葉しか知らない」
「完全に読まれてるじゃないか」
信用がないにもほどがあった。
たぶん、実績のある信用のなさだ。
一花さんはアイスの袋を破ると、扇風機の首振りを止めて、その正面に顔を突き出した。
「あ゛ー……」
「宇宙人か」
「これも、二葉がいるとできないやつ。はしたないからやめなさいって言われんの」
「三桜は?」
「三桜は隣で一緒にやる。で、二人並んで怒られる」
目に浮かぶようだった。
並んで扇風機に声を震わせる二人の後ろで、二葉さんが腕を組んで立っている。
ひと口かじったソーダ味のアイスを、一花さんがくるりと俺のほうへ向けた。
「はい、あーん。あたしのかじったとこ、あげる」
「自分のがある」
「そういうことじゃないの。間接キスだよ? 今なら、あたしの体温つき」
言いながら、一花さんは膝で床をすべって距離を詰めてきた。
かじり跡の残るアイスの先が、俺の唇の手前で止まる。
触れてもいないのに、冷気だけが唇に届いた。
「アイスに体温がついたら、溶けるだけだろ」
顔を引くと、一花さんは唇を尖らせてアイスを引っこめた。
その先で、水色の雫がふくらむ。
ぽたり、とそれが一花さんの鎖骨のくぼみに落ちた。
「ひゃっ、つめた……」
肩をすくめたあとで、一花さんはふと動きを止めた。
くぼみからあふれた雫が、細い筋になってTシャツの襟の内側へ伝っていく。
一花さんはその筋を下から追うように、人さし指の腹で肌をゆっくりすくい上げた。
俺の目を見たまま、その指先を唇へ運んで、ちろりと舐める。
濡れた唇が、指から離れるまでにやけに時間がかかった。
心臓が、ひとつ余計に打った。
喉の奥が乾いていく。
顔にだけは出すな、と自分に言い聞かせる。
一花さんは指先を唇に当てたまま、四つん這いでもう一歩寄ってきた。
大きすぎるTシャツの襟が重さで前へ垂れて、雫が伝っていった先の、白い影がのぞく。
「……今の、見てた?」
吐息に、ソーダの甘い匂いが混じっていた。
「ティッシュならそこにあるぞ」
「見てたかって聞いてんの!」
「見てた。床に垂れたら面倒だなと思って」
嘘ではない。
全部ではないだけだ。
一花さんは無言でティッシュの箱をつかむと、俺の膝めがけて投げつけた。
箱は膝で一度跳ねて、フローリングをすべっていった。
「……ふーん。いいよ。ちょっと本気出すから」
アイスの棒を捨てに立った一花さんが、戻ってくる途中で俺の正面に立ち止まった。
大きすぎるTシャツの裾が、床に座った俺の目の少し下で揺れている。
一花さんは裾の端を指先でつまむと、ゆっくりと、一センチずつ持ち上げてみせた。
「ねえ誠。……下、はいてないと思った?」
「はいてるだろ。裾から、ショートパンツの縁がちょっと出てる」
「出てない! 出ないように、ちゃんと計算して着てんの!」
一花さんは首を折って、自分の太ももを見下ろした。
白い裾の下から、水色の生地が指一本ぶんだけはみ出している。
「……計算、ずれてた」
「なんの計算だよ」
「男子を惑わす黄金比! 二葉が洗濯で縮ませたんだ、絶対そう」
「人のせいにするな」
裾を引き下ろしかけた手が、そこで止まった。
一花さんはくるりと半回転すると、すとん、と俺の膝の上へ横向きに腰を下ろした。
ショートパンツ越しの太ももの重みと熱が、膝の上にまるごと乗る。
片腕が首に回って、逃げ道をふさいだ。
「……ていうか。指一本ぶんって、よく見えたね」
にやりと、口の端が上がる。
鼻先が触れそうな距離で、一花さんは小首をかしげた。
「そんなとこ、じっと見てたんだ?」
「……目の前に出されたら、見えるだろ」
答えが、半拍遅れた。
一花さんの目が、獲物を見つけた猫みたいに細くなる。
「はい、今の間。一点でしょ、今の」
「自己申告って言ったのは一花さんだぞ。申告しない」
「うわ、セコ!」
「ルールを作ったのも一花さんだ」
一花さんは首に回した腕で、俺の頭をがくがくと前後に揺さぶった。
ひとしきり揺さぶってから、ようやく膝から降りる。
裾をぐいぐい下へ引っぱりながら、ソファの向こうへ回っていった。
膝の上には、重みの形をした熱だけが残った。
それから三十秒もしないうちに、背中を預けていたソファがきしんだ。
後ろから二本の腕が、首に巻きついてくる。
ソファの上で膝立ちになったらしい一花さんの体が、背中にぴたりと貼りついた。
Tシャツと、その下のキャミソール。
薄い布二枚だけを隔てた柔らかさが、後頭部から肩にかけて、重みごと押しつけられる。
甘い柑橘の香りが、ぬるい空気の中でいっぺんに濃くなった。
とん、と顎が肩に置かれる。
「ねえ、誠……」
声が一段低く、甘くなった。
首に回った腕に、きゅっと力がこもる。
指先が、俺のTシャツの襟ぐりから鎖骨の上へ、そろりともぐりこんできた。
「あたしさ、ほんとは……」
続きの代わりに、耳の縁に何かが触れた。
吐息だったのか、唇だったのか、分からなかった。
柔らかくて、熱くて、近い。
どれも、もう認めるしかない。
心臓が、肋骨の内側を叩きはじめた。
もし今の続きが本当に来たら——と、一瞬だけ考えてしまう。
その一瞬の手前で、思い出した。
腕が首に回る直前に聞こえた、すう、と小さく息を吸う音。
一花さんが仕掛ける直前には、決まってあの音がする。
春からこっち、この手の奇襲は数えきれないほど受けてきた。
教室で、通学路で、この前の海でも。
ただ、今日のは、そのどれよりも一段深かった。
分かっていても、心臓の速さは変わらない。
変えられるのは、声の平らさくらいだった。
鼓動が背中ごしに伝わっていないことを祈りながら、俺は口を開いた。
「……一花さん、顎」
「顎?」
「肩に刺さってる。重い」
「重いって言った!? 女子に向かって!?」
「顎の話だよ」
「顎だって女子の一部なんですけど!」
抗議しながら、一花さんは顎をぐりぐりと肩にねじこんできた。
普通に痛い。
「あと、その声。夏休みに入ってから三回目だぞ」
「数えてんの!?」
「数えてはいない。でも分かる」
耳もとで、ぐぬぬと唸り声がした。
首に回っていた腕がほどけて、一花さんはソファの上にうつぶせに倒れこむ。
背中から熱が離れて、ぬるいはずの部屋が少しだけ涼しくなった。
クッションに顔を埋めたまま、くぐもった声が漏れてきた。
「……誠、なんか耐性ついてない?」
「春から毎日これだからな」
ついたのは、顔に出さない耐性だけだ。
中身のほうには、まだ一つもついていない。
「毎日はやってないし! ……週五くらいだし」
「学校のある日、全部じゃないか」
「土日はちゃんと休んでるもん。週休二日制だもん」
働き方の話みたいになってきた。
ローテーブルの上には、原稿用紙の束と、メモが一枚置いてあった。
定規で引いたみたいにまっすぐな、二葉さんの字だ。
『一花へ。読書感想文、原稿用紙二枚。十七時まで。終わらなければ、夕食のあとで私が隣に座るわ』
「これ、脅迫状だよね」
「隣に座るだけだろ」
「二葉が隣に座るとね、一行書くたびに『そこ、読点が多いわ』って言われんの。三行目で泣くよ、あたし」
妙に具体的だった。
たぶん、泣いたことがある。
「でも今日は誠がいるから平気。誠先生、添削よろしく。あたしは横で応援してるから」
「書くのは一花さんだろ」
一花さんは唇を尖らせながらも、鉛筆を握った。
握ったまま、床を這って、俺の脚のあいだへ割りこんでくる。
「おい」
「背もたれ。誠、背もたれやって。ソファより誠のほうがあったかいもん」
「この部屋で、あったかいのは長所じゃないだろ」
「いいの。ほら、腕はここ」
有無を言わせず、俺の両腕を自分のお腹の前で組ませる。
そのまま、背中を胸にぴったりと預けてきた。
崩れかけたお団子の後れ毛が、顎の下をくすぐる。
組まされた腕の中のお腹は、Tシャツ越しにも分かるくらい薄くて、息をするたびに小さくふくらんだ。
「誠、知恵熱吸い取って」
「吸い取れないし、熱が出るほど書いてないだろ。まだ三行だぞ」
「三行も進んだの! 褒めて!」
それから小一時間、一花さんは三分に一回は後頭部を俺の胸にこすりつけ、五分に一回は「疲れた」と言った。
そのたびに、さっき首に腕を回されたときと同じ香りが立ちのぼる。
俺はローテーブルの上の二葉さんのメモを、意味もなく五回読み返した。
四十分ほど経ったころ、一花さんの頭が、胸の真ん中でふと止まった。
「……ねえ」
後頭部を押し当てたまま、一花さんが真上を見上げてくる。
逆さまの顔が、顎のすぐ下にあった。
「誠の心臓、背中でどくどく言ってるんですけど?」
「駅から走ってきたぶんが、まだ残ってる」
「何時間前の話よ。はい一点」
「自己申告だろ」
「背中が申告してますー」
口の端が、にんまりと持ち上がる。
逆さまの目が、勝ちを確信して細くなった。
「……手、止まってるぞ」
「ちぇっ」
鉛筆は止まりながらも進んで、一枚目の半分ほどが埋まったところで、原稿用紙が肩ごしにこちらへ突き出された。
「はい、添削」
読んでみる。
組まされた腕は、ほどかせてもらえなかった。
感動しました、考えさせられました、強く生きていきたいと思いました。
どこかで読んだことのあるような文が、行儀よく一列に並んでいた。
その途中に一行だけ、鉛筆で横線が引かれている。
線の下には、「主人公が最後まで笑ってるとこ、えらいけど、ちょっとむかついた。泣けばいいのに」と書いてあった。
「これ、なんで線を引いたんだ?」
「だって、感想文っぽくないじゃん。むかついたとか書いたら、先生に怒られそうだし」
「ほかの文は全部、本の帯に書いてありそうなのに。ここだけ一花さんがしゃべってる」
「帯って」
「本屋で本に巻いてあるやつ。涙が止まらない、とか書いてある」
「知ってるし!」
知っているなら話は早かった。
腕の中の耳が、ちょうど口の高さにあった。
「だから、ここは残したほうがいいと思う。ここから書けば、二枚なんてすぐ埋まるだろ」
腕の中で、一花さんの体がぴたりと固まった。
返事はない。
俺の手から原稿用紙をひったくると、両手で胸に押しつけて、顔の下半分を隠してしまう。
目だけが、肩ごしに振り向いてこっちを見ていた。
その目がぱちぱちと忙しく瞬いている。
目の前の耳が、根もとからじわじわと赤くなっていった。
組まされた腕の内側で、薄いお腹がせわしなく上下しはじめる。
「……してないから」
「何を」
「ドキッとか、ぜんぜんしてないから!」
「お腹が申告してるけど」
一花さんは原稿用紙を抱えたまま腕の中から抜け出すと、ソファのクッションに顔から突っこんだ。
クッションの中で、しばらく何かわめいていた。
胸に残った体温が引いていくまで、少し時間がかかった。




