第126話 海の家の取り合いと、特賞の抽選会
泳げないはずの三桜さんが、ばたつく足で水を叩きながら、みんなの待つところまでひとりで泳ぎきった。
どこで覚えたのかと詰め寄られても「ひみつ」で押し通し、水の中でこっそり俺と小指を立て合って笑った――そこまではよかった。
海から上がるほんの数十歩のあいだに、三桜さんは三方を塞がれていた。
右に一花さん、左に心花、真後ろには二葉さんがぴたりとついている。
波打ち際を歩いているだけなのに、どう見ても連行だった。
「で、三桜。いつから泳げるようになったの?」
「ひみつ」
「じゃあ、どこで練習したんですか? 川ですか? まさか池じゃないですよね?」
「池で泳ぐ人なんていないよぉ! ……あっ、場所もひみつ!」
「池ではない。それだけは判明したわね」
二葉さんが後ろから静かに付け足した。
足首を洗っていく波の音の中で、その声だけがやけにくっきりと届く。
三桜さんは両手で口をふさいで、首をすくめた。
「消去法でいくなら、次は川ね」
「か、川は流されちゃうからダメって言われ……あっ!」
「誰に言われたのかしら」
「だ、誰も言ってない!」
三桜さんの裏返った声が、寄せてきた波の音にまぎれた。
「二葉ちゃん、なんでさっきからずっと後ろにいるの……?」
「三桜は逃げるとき、必ず後ろへ下がるもの」
「うわ、詳しっ。さすが生まれたときから隣で見てるだけあるわ」
一花さんが感心したように口笛を吹くまねをした。
三桜さんは右にも左にも後ろにも逃げられず、助けを求めるみたいにこっちを振り返る。
俺はちょうど水平線を眺めているところだった。
眺めているところ、ということにした。
「あっ、今、三桜先輩がセンパイのほう見ましたよね!?」
心花の指がまっすぐ俺に向いた。
一花さんの目がすうっと細くなり、二葉さんは三桜さんの肩越しに首だけをこちらへ向ける。
「見てない。……見てたとしても、俺は関係ない」
「関係ない人は、さっき海の中で三桜といっしょに笑わないと思うなー」
「思い出し笑いだ」
「二人同時に?」
「……同じことを思い出したんだろ」
「それを共犯と言うのよ、マコト」
二葉さんの声は涼しかった。
三桜さんの肩にはいつのまにかその手が置かれている。
逃がさないつもりの置き方だった。
「腹減ったー! 昼! 昼にしようぜ!」
沖のほうから立花がざぶざぶと水を蹴立てて上がってきた。
ひとりで散々泳ぎ回っていたらしく、肩で息をしている。
尋問の輪のすぐ脇を、何も知らない顔でまっすぐ通り過ぎていった。
「タチバナくん、今いいとこなんだけど」
「いいとこって何? 焼きそばより?」
「……焼きそばよりは、いいとこじゃないかも」
一花さんがあっさり寝返った。
その隙に、三桜さんが二葉さんの手の下からするりと抜け出して、パラソルのほうへ駆けていく。
二葉さんは追わなかった。
追わずに、「お昼のあいだも続けるわ」とだけ俺に言った。
なぜ俺に言うのかは聞かないでおいた。
パラソルの下に戻ると、三桜さんが水着の胸もとを両手でぐいと引き上げていた。
肩紐のない布は水を吸って重くなったぶん、歩くたびに少しずつ下がってくるらしい。
引き上げるたびに、フリルの縁がやわらかな丸みに沿って小さく弾んだ。
「三桜。それ、人のいるとこで直すやつじゃないから」
「だって、水吸ったら重たくなるんだもん……。一花お姉ちゃんのは落ちないの?」
「あたしのは首で吊ってるからね。構造の勝利っしょ」
「構造なら、私のほうが安定しているわ。肩一本で支えているもの」
「二葉のは、一本で支えてる量がおかしいんだって」
一花さんの指摘に二葉さんは黙ってタオルを肩に掛けた。
掛けたタオルの端が、ちょうど片方しかない肩紐を隠す位置に落ちる。
◇
海の家は浜の真ん中あたりに、よしずを張りめぐらせて建っていた。
板張りの小上がりに低い長テーブルがいくつも並び、天井の扇風機が気だるそうに首を振っている。
奥の鉄板ではソースの焦げる音がひっきりなしに弾けていた。
「立花くんは通路側。その隣がマコト、奥が私。向かいは奥から篠崎さん、三桜、一花」
サンダルを脱ぐより先に、二葉さんの指示が飛んだ。
電車のときよりさらに早かった。
「また二葉が決めてるし。しかも自分は誠の隣」
「揉めないためよ」
「それ、電車でも聞いた」
「電車でも揉めなかったでしょう」
「揉めなかったんじゃなくて、あたしが譲ってあげたの」
一花さんは唇を尖らせて、もうひと押ししかけた。
けれど二葉さんに目だけで何か言われると、小上がりの奥のほうへちらりと視線を流して、あっさり通路側に腰を下ろした。
「……ま、いっか。ななめ前ってさ、じーっと見てても気づかれにくい席なんだよね」
「今の宣言で気づいた」
「じゃあ、気づかれてるの承知で見る。そっちのほうが楽しいし」
一花さんはテーブルに頬杖をついて、言葉どおり俺の顔を眺めはじめた。
頬杖の角度まで、見られる側のことを計算しているみたいだった。
目が合うと、一花さんは片眉を上げて、指先で自分の唇をとんとんと叩いてみせた。
「焼きそば大盛りと、カレーと、ラーメン。あとフランクフルト」
壁に貼られた品書きを指でなぞりながら、立花がひと息に言った。
「立花くん。それは一人分なの?」
「一人分。海ってさ、なんでか腹減るじゃん」
「胃袋の数を数えてから頼みなさい」
「一個しかないけど、でかいから平気」
「朝、駅で足踏みしてたぶん取り返さないとだもんね、タチバナくん」
「そう! 二十分ぶん!」
足踏みのカロリーを本気で取り返す気でいるらしい。
三桜さんはラーメン、一花さんは焼きとうもろこしといか焼き、心花はカレーに決めた。
二葉さんは品書きをほとんど見ないまま、焼きそばと言った。
「センパイは焼きそばですよね」
俺が口を開くより先に、心花が言った。
「なんでわかった」
「入ってきてから、鉄板のほう三回は見てましたもん。それにセンパイ、味の濃いのから行く人じゃないですか。お昼も、いっつもいちばん濃いおかずから箸つけてますし」
「……よく見てるな」
「えへへ。見てますから」
悪びれるところのひとつもない笑顔だった。
好きで見ているから知っている、と真正面から言われてしまうと、こっちはもう焼きそばを頼むしかない。
運ばれてきた焼きそばは、紙皿からこぼれそうなほどの山盛りだった。
鉄板に押しつけられていた縁のほうの麺が、ところどころ茶色く焦げている。
「見ててください。センパイは、まず端っこの焦げたとこから行きますよ」
心花がテーブル越しに身を乗り出して、実況みたいに声をひそめた。
言われると逆らいたくなるのが人情だ。
真ん中から崩してやろうと思った箸の先が、気づけば勝手に焦げのほうへ吸い寄せられていた。
「ほら!」
「……腹が減ってるだけだ」
言い訳をしているあいだに、隣から別の箸がすっと伸びてきた。
二葉さんが自分の皿の端から焦げたところだけを器用につまんで、俺の皿へ移している。
ひとつ、またひとつ。
「二葉、何してんの」
「焦げは好きではないの」
「うっそだー。家でフライパンの底の焦げたとこ、いっつもこそいで食べてるじゃん」
「……記憶にないわ」
「二葉ちゃん、こないだもやってたよ? 木べらで、こりこりって」
三桜さんの無邪気な証言に、二葉さんの箸がぴたりと止まった。
移しかけていた焦げのひとかけらが、俺の皿と二葉さんの皿のあいだで宙ぶらりんになっている。
二葉さんはそれを黙って俺の皿に落とすと、麦茶の紙コップに口をつけた。
紙コップを傾ける首筋に、じわじわと赤みがのぼっていった。
「二葉先輩、ずるいです。私は見てただけなのに、行動で上書きしてきましたね」
「見ているだけでは、焦げは移らないもの」
「名言っぽく言ってるけど、それ、ただの焦げの押しつけだからね? はいはい、そこまで。誠、あーん」
ななめ前から焼きとうもろこしが一本ぬっと突き出された。
低いテーブルの上に一花さんが膝立ちで身を乗り出している。
前に傾いた体の重みを、胸の前で交わった二本の紐が懸命に受け止めていた。
紐の交わった真下のくぼみがテーブルの醤油差しよりも近い。
「……近い」
「とうもろこしが? まだ鼻の先までしか寄せてないけど」
「とうもろこしも」
「も、ってことは、ほかに何が近いのかなー。言ってみ?」
逃げ道はとうもろこしにしかなかった。
かじりつくと、甘い汁と醤油の焦げた香ばしさが、口の中でいっぺんにはじけた。
一花さんはにんまりと笑って、俺の唇の端に指を伸ばした。
くっついていた粒をひとつ、指先でつまみ取る。
そのまま自分の口にぽいと放りこんだ。
「ん、おいし。誠の味つき」
「一花。テーブルに乗り出さないで。醤油差しが倒れるわ」
「倒れないように、ちゃんと肘ついてるじゃん」
確かに肘はついていた。
その肘のすぐ上で、もっと危なっかしいものが、テーブルの縁にやわらかく乗っかっていた。
「ま、誠くん! 私のも、あーん!」
負けじと三桜さんが箸を突き出してきた。
つまんでいるのはラーメンだった。
持ち上げた麺の束から、スープがぽたぽたとテーブルに垂れている。
「三桜ちゃん、それ汁が全部相沢の膝にいくやつ!」
「えっ、あっ、あつっ!」
垂れたスープが、慌てた三桜さん自身の手首に落ちたらしい。
「三桜さん、気持ちだけでいい。麺は三桜さんが食べてくれ」
「……気持ちだけ届いた?」
「届いた。汁より先に届いた」
三桜さんはふにゃりと笑って、垂れかけた麺を自分の口にすすりこんだ。
すすった勢いでスープのしずくが鼻の頭に跳ねた。
三桜さんは舌を伸ばして鼻の頭を舐めようとし、届かずに寄り目になった。
二葉さんが黙ってテーブル越しに紙ナプキンを伸ばし、その鼻の頭をとんと押さえてやる。
「じゃあ私はカレーで! センパイ、ひと口どうぞ」
奥の席から、心花がめいっぱい腕を伸ばしてスプーンを差し出してきた。
断る理由を探しているうちに、スプーンはもう唇の前まで来ていた。
観念して口を開けると、甘ったるいルウのあとから、遅れて辛さが追いかけてきた。
「海の家のカレーって、なんでかすっごくおいしくないですか?」
「具がほとんど見当たらないけどな」
「そこがいいんですよ! 具がないぶん、海の味がするんです」
「海の味がするなら、それは衛生の問題よ」
「二葉先輩、海の家でそれ言うのは野暮ですって!」
「野暮で結構よ」
二葉さんはそう言いながら、自分の麦茶を心花のほうへ少しだけ寄せた。
辛いのかどうかは聞かずに、黙って。
「相沢、お前さっきから、ひな鳥みたいに口開けっぱなしだぞ」
「好きで開けてるわけじゃない」
「うそ。とうもろこしのとき、自分から開けてたよ」
一花さんの証言には反論の余地がなかった。
「三桜先輩。質問の仕方を変えます」
カレーのスプーンを置いて、心花が居住まいを正した。
尋問はまだ終わっていなかったらしい。
「はいか、いいえで答えてください。それなら、ひみつにしたまま答えられますよね?」
「う、うん。それなら……」
三桜さんはラーメンの器を両手で抱えて、こくこくと頷いた。
頷いた時点でもう半分くらい負けている気がした。
「練習したのは、最近ですか?」
「は――ひ、ひみつ!」
「今、『は』まで出たよね」
「出たわ。最近ね」
「出てないもん! 今のは、ラーメンが熱くて、はふはふの『は』!」
三桜さんは証拠を見せるみたいに、冷めかけたラーメンにふうふうと息を吹きかけた。
湯気はもうほとんど立っていなかった。
次の問いは、二葉さんの口から静かに出た。
「……練習は、ひとりで?」
「ひとりで! ひとりで、毎晩、洗面器に顔つけて、息止める練習してたの!」
「洗面器で息止め……あ、それはちょっとありそうですね」
「篠崎ちゃん、納得しかけないで」
「洗面器では、前に進めないわ」
「……進めないね」
二葉さんのひと言で、三桜さんの声がしぼんだ。
しぼんだまま、どうにか言い返そうとして身を乗り出す。
「で、でもね! 顔を上げたら、誠く――」
三桜さんの口がそこでぴたりと止まった。
テーブルの上の目という目が、焼きそばを食べている俺のほうへ集まってくる。
「誠く、の続きは?」
「ま、誠くんが! お、おかわりするって!」
三桜さんの指がまっすぐ俺の皿を指していた。
皿の上にはまだ半分以上残っている。
「……する。おかわり」
「焦げたところなら、まだ私の皿にあるわ」
「センパイ、今かばいましたよね? かばう人の顔でしたよね!?」
「誠、目が泳いでる。三桜より泳いでる」
「私だって泳げるもん!」
「三桜先輩、そこは張り合うとこじゃないです」
三桜さんが頬をふくらませて、心花がテーブルに突っ伏して笑う。
俺はおかわりする予定のない焼きそばを、黙って口に運んだ。
「てかさ」
大盛りの焼きそばを半分ほど片づけた立花が、箸を持ったまま顔を上げた。
「三桜ちゃんが泳げるようになった。それでよくね? どこで練習したとかより、俺、さっきの普通に感動したけど。ばしゃばしゃーって、ちゃんと前に進んでたじゃん」
テーブルの上が一瞬静かになった。
天井の扇風機がちょうど一往復した。
「……立花くんにしては、まともなことを言うわね」
「にしてはって何!? 俺、わりといつもまともだろ!」
「帰りに履くもの、考えてなかったやつがか」
「それは未来の俺の担当だって言ったろ!」
立花が箸を振り回して抗議する。
三桜さんがテーブル越しに、両手を合わせて拝むような格好をした。
「立花くん、ありがとう……! 立花くんだけが味方だよぉ……」
「三桜ちゃん、俺はいつでも味方。焼きそばの次くらいに」
「二番目なんだ……」
心花がお腹を抱えて笑いだした。
つられて一花さんが吹き出し、二葉さんまで、紙コップの陰で口もとをゆるめている。
そのとき、通路を、日に焼けた男の人たちの一団が通りかかった。
大きな声で笑いながら、テーブルのあいだを縫うように奥へ歩いていく。
二葉さんの目が俺の肩越しに通路のほうへ流れて、その背中をひとつずつ追っていった。
一花さんは頬杖をついたまま、通路側へ少しだけ体をずらした。
三桜さんの片腕がテーブルの下へ消えていた。
知り合いでもいたのかと思ったが、一団が通り過ぎると、二葉さんは何事もなかったように麦茶を口へ運んだ。
心花はテーブルの下に目を落として、小さく笑った。
くすぐったいような、少しだけ困ったような笑い方だった。
「……先輩たち、今日、ずーっと私の隣ですね」
「だって、心花ちゃんといっしょに遊びたいから!」
「篠崎ちゃんの席はいちばん奥って決まってんの。あたしが決めた」
「決めたのは私よ」
心花は三人の顔を順番に見て、それから俺のほうを見た。
「……えへへ。じゃあ午後は、センパイのことも、ちゃんと取り合ってくださいね。私ばっかりじゃ、もったいないですよ」
「人を景品みたいに言うな」
「景品じゃないですよ。特賞です」
「なお悪い」
特賞、のひと言で、三人の顔がそろってこちらを向いた。
「特賞かー。じゃ、あたしが当てたら誠、一日貸し切りね」
「公正を期すため、抽選の管理は私が行うわ」
「二葉ちゃんずるい! 自分の当たり増やす気でしょ!」
「……心外ね」
誰もくじを引くとは言っていないのに、小上がりの上ではもう抽選会の段取りが始まりかけていた。




