第125話 背中を塗る番と、波間のひみつ
タオルの下から現れた四人の水着の感想は、「相沢の担当だろ」と立花に押しつけられて、俺がひとりずつ言うことになった。
一花さんの赤、二葉さんの黒、三桜さんのミントグリーン、それから、腰に黄色い紐を結んだ心花の白。
最後のひとりまで言い終えて、ようやく息をついたところだった。
「はーい、じゃあ日焼け止めタイム!」
一花さんがバッグから白いボトルを取り出して、高々と掲げた。
それから、くるりと俺に背中を向ける。
「誠、背中塗って。あ、紐はほどいたほうが塗りやすいよね」
言いながら、一花さんの指が首の後ろの結び目にかかった。
「貸しなさい」
結び目がほどけるより先に、二葉さんの手がボトルをひったくっていた。
「私が塗るわ」
「えー。二葉の手つき、雑なんだもん」
「効率的と言いなさい」
有無を言わせず、二葉さんは手のひらに絞り出した日焼け止めを、一花さんの背中にべたりと押しつけた。
肩甲骨から腰まで、手のひらが往復したのはきっかり三回だった。
「つめたっ! ちょっと、もうちょい優しく――」
「終わったわ」
「はやっ! 雑!」
背中をぺしりと叩かれた一花さんは、めげる様子もなくバッグに手を突っこんで、もう一本の日焼け止めを取り出した。
「二本目があるのかよ」
「あるよ。誠用」
「俺はラッシュガードを着てるから」
「首。顔。耳の裏。あと、脚」
指を折って数えあげると、一花さんは俺の背後へするりと回りこんだ。
シートに座らされた俺の首筋に、ひやりとした手のひらが張りつく。
「うわ、つめた」
「さっきのお返し。……誠、首の後ろ、もう赤くなりかけてるじゃん」
一花さんの指がうなじから耳の下へ、ゆっくりと日焼け止めを伸ばしていく。
背中に、ラッシュガード越しのやわらかな重みがぴたりと寄りかかってきた。
薄い化繊の生地一枚では、何ひとつ防げていない。
くすりと笑う一花さんの息が耳のすぐ後ろで聞こえた。
「ほら、耳の裏も。じっとしてて」
逃げようにも、背中の側はふさがっていた。
「――前は私がやるわ」
声と同時に正面で二葉さんが膝をついた。
日焼け止めをたっぷり乗せた両の手のひらが、左右から俺の頬を包みこむ。
「顔は前から塗るのが合理的よ」
清涼感のあるシャンプーの香りが、日焼け止めの甘ったるい匂いを押しのけて、すぐ目の前にあった。
二葉さんの親指が頬骨の上をゆっくりとなぞっていく。
片方しかない肩紐が俺の目の高さで揺れていた。
「二葉、それ塗ってるんじゃなくて、顔包んでるだけでしょ」
「均一に伸ばしているの」
「さっきから、ずっと同じとこ伸ばしてるけど」
後ろからは一花さんの指が耳をくすぐり、前からは二葉さんの手のひらが頬を離さない。
前にも後ろにも、退路がなかった。
しばらくして、一花さんがようやく手を離した。
見下ろした自分の手のひらには、まだ白いのがたっぷり残っている。
その目が、ボールを抱えて波打ち際をうろうろしている立花の背中で、ぴたりと止まった。
「タチバナくーん。背中出して。余ったから塗ったげる」
「は!? いや、俺はいい! 男は焼けてなんぼだから!」
「遠慮しないでってば。ついでに、背中にハートでも描いといたげるから」
「落書きする気満々じゃねえか!」
「諦めて塗ってもらえ、立花」
「さっきのお前見て、誰が並ぶかよ! 前と後ろから挟まれてたじゃねえか!」
叫ぶなり、立花はボールを抱えて海のほうへ駆けだした。
砂を蹴り上げ、波打ち際に派手な水しぶきを上げて突っこんでいく。
「あ、逃げた」
一花さんが白い手のひらを掲げたまま、ぽかんと呟いた。
心花がこらえきれずに声を上げて笑いだす。
二葉さんだけが遠ざかっていく背中をじっと目で追っていた。
「……一花から逃げる男の人、初めて見たわ」
「どういう意味、それ?」
「言葉どおりよ」
それから二葉さんは、誰に聞かせるでもなく、ほんの小さく呟いた。
「……合格ね」
「何が?」
答えの代わりに、二葉さんは一本目のキャップを、ぱちんと閉めた。
閉めたボトルが、そのままバッグの口へ沈んでいこうとする。
俺の目はボトルではなく、それを持つ腕の上で止まっていた。
一花さんの背中も俺の顔も塗り終えた人の左の肩が、更衣室から出てきたときの白さのまま、まだ何も塗られずに光の中へ出ている。
「二葉さん。自分のぶんは?」
「あとでやるわ」
「せっかくの日傘を、今日の午前で帳消しにする気か」
ボトルを持つ手がバッグの口で止まった。
「……私の理屈を、私に向けないで。自分で塗れるわ」
言うなり、二葉さんは右手を背中へ回した。
左の肩の丸みまでは届くのに、その下の肩甲骨のくぼみのあたりで、指先が何度も宙をかいた。
腕を引くたびにたった一本の黒い紐が右の肩へ食いこんで、斜めの線の下が、そのぶん窮屈そうに持ち上がる。
見ていられなくなって、俺は二葉さんの左手からボトルを抜き取った。
「貸して」
「あ、それ。さっきの二葉のセリフじゃん」
「命令形にはしてない」
一花さんの茶々を聞き流して、手のひらに日焼け止めを絞る。
二葉さんは何か言いかけて、結局は黙ったまま、膝をついた姿勢でくるりと俺に背中を向けた。
長い黒髪を片手でひとまとめにすくって、胸の前へ流す。
髪の下から、ひと夏ぶん日傘の内側にしまわれてきた背中が出てきた。
左の肩に手のひらを置く。
その瞬間、背骨に定規でも差しこまれたみたいに、二葉さんの背中がまっすぐになった。
肩から肩甲骨へ伸ばしていくと、日に当たってこなかった肌は、手のひらに吸いつくほどきめが細かかった。
肩甲骨の縁をなぞって脇のほうへ指を滑らせると、指先が黒い布の端に触れた。
その端のすぐ向こうで、布に収まりきらないやわらかな丸みが、体の横へわずかにこぼれている。
指が止まった。
「……止めないで。そこも日なたよ」
言われるままに布の端に沿って指を這わせると、二葉さんの喉の奥で、息がひとつ小さく詰まった。
「誠ー。今ので五往復目だよ。二葉の基準だと、とっくに終わってるけど」
「……マコトの手は効率が悪いの。回数で補うしかないわ」
「あたしには三回だったくせに。……てか待って。あたしが誠に頼んだときは横取りしたのに、自分はちゃっかり塗ってもらってんじゃん」
「頼んでいないわ。マコトが勝手に始めたの」
「うわ。それ、頼むよりずるいやつだ」
一花さんは心底感心したように唸ると、ぱっと俺のほうへ向き直った。
「じゃ、誠。次あたしね。頼まないから、勝手に塗って」
「それはもう頼んでるだろ」
二葉さんは何も言わなかった。
ただ、まっすぐになっていた背中が、いつのまにか少しずつ俺の手のひらのほうへ傾いてきている。
「……マコト。終わったら、しばらく反対を向いていて」
「なんでだ?」
「振り向く顔の準備が、まだできていないの」
背中越しでも、その声がいつもより半音だけ上ずっているのはわかった。
パラソルの影の奥では、三桜さんが心花に背中を向けて、ちょこんと座っていた。
「三桜先輩の背中、塗るとこほぼ全部じゃないですか」
「だから心花ちゃんにお願いしてるの。……ひゃっ、くすぐったい!」
「動かないでくださいってば。紐の下も塗らないと、紐の形に焼けちゃいますよ」
「紐の形!? それはやだ!」
「でしょ? 私の腕みたいになっちゃいますよ」
自分の焼け跡を引き合いに出して、心花は真剣な顔で三桜さんの背中に手のひらを滑らせた。
心花の指先が蝶結びの下を慎重にくぐっていく。
三桜さんは膝を抱えてくすぐったさに肩をすくめながら、それでも健気にじっとしていた。
「交代ね。心花ちゃん、腕のとこ、境目に重ね塗りしとくね」
「お願いします。これ以上くっきりしたら、日焼けのほうが本体になっちゃいます」
三桜さんは「ここね」と笑って、境目をなじませるように、心花の二の腕をとんとんと叩いた。
くすぐったそうに肩をすくめる心花と、真剣な顔で塗りこむ三桜さん。
パラソルの影の下で、二人ぶんの小さな笑い声が重なっていた。
◇
波打ち際の水は思っていたよりずっと冷たかった。
足首、膝、腰。
水が上がってくるたびに、焼けた砂の熱が体から抜けていく。
一花さんは水に入るなり、すいっと沖のほうへ滑っていった。
二葉さんはほとんど水しぶきを立てずに潜って、気づけばもうずいぶん先で顔を出している。
二人とも本当に泳ぎが上手い。
胸くらいの深さのところで二人が立ち止まると、心花が波に合わせてぴょんぴょん跳ねながら、そこへ追いついた。
そのさらに向こうでは、立花がひとりでボールを空高く放り上げては、自分で取りにいっていた。
三桜さんはまだ腰の深さのところにいた。
俺もその隣にいた。
「三桜ー! そんなとこで止まってないで、おいでよー! 歩いてくれば足つくからー!」
一花さんがこっちに向かって大きく手を振っている。
プールで見た光景に少しだけ似ていた。
あの日の三桜さんは、水際から一歩下がったところで、ずっと手を振り返す側にいた。
三桜さんは手を振り返さずに、水面に揺れる光をじっと見下ろしていた。
「……誠くん」
「ん」
「みんな、あそこにいるね」
「ああ。……一花さんの肩が出てるから、あそこならたぶん足はつく」
「うん」
三桜さんは水の中で右手をぎゅっと握って、ゆっくりと開いた。
それから顔を上げて、まっすぐに俺を見た。
「誠くん、見てて!」
あの日の影のプールで、浮いていられたのは五つ数えるあいだだけだった。
前に進むのはまだぜんぜんわからないと、三桜さんは言っていた。
それでも小指を揺らして、約束はずっと有効だと言った。
海で、みんながいるところまで。
並んで、泳いで。
パラソルの下のリュックの底には、空気の入っていない浮き輪が畳んである。
もしものときのために押し入れの奥から引っぱり出して、結局、誰にも言わないままここまで持ってきた。
「――見てる」
俺がそう言うと、三桜さんは小さく頷いた。
大きく息を吸う。
顔を水につけて、両腕をまっすぐ前へ伸ばす。
底を蹴った小さな体が水面をすべるようにすうっと前へ出た。
俺も水に体を預けて、その横に並んだ。
手を伸ばせば届く距離のまま、ゆっくりと水をかく。
手は出さない。
出さなくていいように、横からずっと見ていた。
ばたつく足が派手な白いしぶきを上げる。
膝が曲がっていて、半分くらいは水面を叩いているだけだ。
両腕は水をかくというより、目の前のカーテンを交互にかき分けているみたいだった。
それでも、進んでいる。
少しずつ確かに前へ。
途中で一度、三桜さんの頭がぐっと持ち上がりかけた。
足が下がる、と思った。
――けれど三桜さんは、自分からすぐに顔を水の中へ戻した。
水面に細い泡の列がぷくぷくと浮かんでくる。
鼻から少しずつ。
あの日、教えたとおりに。
「……え?」
最初に気づいたのは一花さんだった。
振っていた手が宙で止まっている。
「ちょ、待って。三桜……?」
「えっ、えっ!? 三桜先輩が、泳いでる……!?」
二葉さんは何も言わなかった。
ただ、反射的に一歩前へ踏みだしかけて、そこで止まっていた。
水の中で半分持ち上がった手が行き場をなくして浮いている。
少し離れたところでは、事情を何ひとつ知らない立花が「三桜ちゃん、ナイスー!」とボールを振り回していた。
あと少し。
伸ばした三桜さんの指先が一花さんのすぐ手前の水を叩いた。
つま先が底の砂に届いた。
ざばっと水を割って、三桜さんが顔を上げた。
「三桜、いつのまに泳げるようになったの!? プールのとき、一歩も入んなかったじゃん!」
「そうですよ! ずっと水際でタオル巻いて、手振ってたじゃないですか!」
詰め寄る二人のあいだで、三桜さんは濡れた前髪の下の目をぱちぱちさせた。
それから人さし指を一本、唇の前にちょこんと立てる。
「それは、ひ・み・つ!」
「はあ!? なにそれ!」
一花さんの声が海の上でひっくり返った。
二葉さんは浮かせていた手をようやく下ろした。
そのまま何も言わずに、三桜さんの額に張りついた前髪を、指でそっと横へ払ってやる。
詰め寄る二人のあいだから、三桜さんがこちらを振り返った。
すぐ後ろにいた俺と目が合った。
顔を上げたら誠くんがいた――あの日、影のプールでそう言った子の目が、今は海の光をいっぱいに映している。
三桜さんは水の中で右手の小指をちょこんと立てた。
俺たちのほかには、誰にも見えない高さで。
俺も水の中で小指を立て返した。
どちらからともなく、笑いがこぼれた。
「ちょっと、二人して何笑ってんの!?」
「センパイ!? センパイまで、ひみつ側なんですか!?」
「……さあな」
リュックの底の浮き輪は、今日はたぶん出番がない。
三桜さんは、うれしくてじっとしていられないみたいに、もう一度ざぶんと顔を水につけた。
ぶくぶくと泡を立てて、すぐにまた、ざばりと顔を上げる。
濡れた髪を頬に張りつかせて、睫毛の先から雫をこぼしながら、三桜さんは夏の光の真ん中で思いきり笑った。




