第123話 柱の陰の『なんでもない』と、窓の向こうの海
乗り換えの駅の階段を半分も上らないうちに、立花の声が降ってきた。
「相沢ー! こっちこっち! 海だぞ、海!」
知っている。
知っているから、休みの日だというのに七時きっかりに起きてきたのだ。
二葉さんの工程表に書かれた起床時刻を、海へ行く日まで律儀に守った自分を、少しだけ褒めてやりたい。
階段を上りきると、コンコースの柱の前で立花が両腕を振り回していた。
頭にはサングラスが乗っかっていて、派手な柄シャツの裾が、腕を振るたびにばさばさと翻る。
休日の朝で人がまばらなのが、せめてもの救いだった。
「声がでかい。下のホームまで響いてたぞ」
「そりゃ響くって、海だもん。俺さ、楽しみすぎて一本早いのに乗っちまって、もう二十分ここにいんの」
「二十分も何してたんだ?」
「足踏み」
「着く前に体力を使い切るなよ」
立花は歯を見せて笑うと、その場でまた足踏みをしてみせた。
肩に引っかけたナップサックの口から、しぼんだビーチボールの縞模様がはみ出している。
遊ぶ気だけは誰よりも先に海へ着いているらしい。
柱の向こう側では、見慣れた背中が四つ、ひとかたまりになっていた。
額を寄せ合って、何かをひそひそと囁き合っている。
一花さんが何か言うと三桜さんが小さく跳ねて、心花が両手で口を押さえた。
二葉さんは表情ひとつ変えずにうなずいていたが、そのうなずきがやけに深い。
「おはよう。……何の話だ?」
声をかけた途端、四つの顔がくるりとこちらを向いた。
それから示し合わせたみたいに、四つの口がぴたりと閉じる。
「おはよ、誠。べつに、なんでもないよ?」
「ええ。なんでもないわ」
「なんでもないよ! ほんとに、なんでもない! ぜんぜん、なんでもないの!」
「おはようございます、センパイ! なんでもないです、ほんとです!」
なんでもないが四つ揃うと、なんでもあるようにしか聞こえない。
「三桜さん。今、なんでもないが三回重なってたぞ」
「重なってないよ! ……え、重なってた?」
「重なっていたわね。きっちり三回」
二葉さんが涼しい顔で付け足すと、三桜さんは慌てて両手で口をふさいだ。
その拍子に、淡いクリーム色のワンピースの裾がふわりと持ち上がる。
薄手の生地が朝の風をはらんで、膝の少し上でやわらかく波打った。
ほかの三人も、それぞれに夏の朝の格好だった。
一花さんは黒いリブのタンクトップに麻のワイドパンツで、明るい髪を高い位置でひとつにまとめている。
二葉さんは白いブラウスを喉もとのボタンまできっちり留めて、紺のロングスカートの脇に、畳んだ日傘を杖のように立てていた。
心花はくすんだオレンジのTシャツをだぼっと着て、キャップを後ろ前にかぶっている。
四人とも肩から大きめのバッグを提げていた。
その中身のいちばん大事なところを、俺だけが知らない。
「新しい水着、買ったんだよな」
「買ったよー」
「どんなのを?」
「言うわけないじゃん。ここで言ったら、何のために誠に留守番させたのかわかんなくなるでしょ」
「写真もないわ。一枚も撮らせなかったもの」
二葉さんがなぜか三桜さんのほうを見ながら言った。
三桜さんの肩がびくりと跳ねる。
「と、撮ってないよ! 撮ろうとしただけだよ!」
「三桜。それは言わなくていいことよ」
「あっ」
「スマホに手ぇ伸ばした瞬間に、あたしが取り上げたもんね」
「一花お姉ちゃん、それ言ったらもっとダメなやつ!」
三桜さんが一花さんの腕をぽかぽかと叩く。
その肩越しに、心花がひょこりと顔を出した。
「センパイ、今日はちゃんと目を開けといてくださいね。閉じちゃったら、それはそれで面白いですけど」
「目を閉じるようなことが起きるのか」
「それも、なんでもないです!」
心花は後ろ前のキャップの下で、にんまりと笑った。
四人のあいだを目配せが一往復する。
俺だけがその往復の外側にいた。
「あとね、誠くん。見るときは、いっせーので見てね。みんないっしょに――」
「三桜、それ言ったら段取りバレるって」
「……あ」
一花さんに唇の前でばってんを作られて、三桜さんはしおしおと縮こまった。
段取りがあるらしい。
水着を見せるのに、段取りが。
「なになに、何の話? 俺も混ぜてよ」
立花が柱の陰へ首を突っこんできた。
心花はいつのまにか一花さんの背中の側へ半歩回りこんでいる。
「タチバナくんには関係ない話ー」
一花さんがひらひらと手を振って、立花を追い払う仕草をした。
「ひでえ! 俺だけ仲間はずれかよ。いいよ、俺は俺で準備万端だから。ほら」
立花は得意げに、ハーフパンツのウエストを親指でぐいと引っぱってみせた。
ゴムの下から鮮やかな青の海パンがのぞいている。
「家から履いてきた。着いたら脱ぐだけ。時短ってやつ」
「小学生男子じゃん」
「立花くん。帰りは何を履くの?」
二葉さんの静かなひと言に、立花の親指がぴたりと止まった。
「…………あ」
「考えていなかったのね」
「だ、大丈夫だよ! 乾くまで待てばいいよ、今日はお日さまいっぱいだし!」
「三桜ちゃん……! そうだよな、乾くよな!」
「乾かなかったら、なんにも履かないで帰ればいいじゃん」
「綾瀬姉さん、朝の駅で言うことじゃねえって!」
心花が一花さんの背中に隠れたまま、こらえきれずに吹き出した。
二葉さんは「一花。駅よ」とだけ言って、日傘の先で床をとんと突く。
夏の朝の、最初の犠牲者が決まった瞬間だった。
電光掲示板を見上げて、二葉さんが日傘を持ち直した。
「八時十二分。あと五分よ」
◇
海へ向かう電車は、拍子抜けするほど空いていた。
お盆の前のほうが浜も電車も空いていると言っていた二葉さんの読みは、ぴたりと当たっていたらしい。
向かい合わせの座席が並ぶ古い車両で、俺たちのほかには、釣り竿を抱えたおじいさんがひとり座っているだけだった。
「マコトは窓側。私はその隣」
乗りこむなり、二葉さんがボックス席のひとつを指さした。
最初から座席表が頭に入っていたみたいな、迷いのなさだった。
「ちょっと。なんで二葉が勝手に決めてんの?」
「誰かが決めないと、通路で揉めるでしょう」
「揉める原因、二葉が隣取るからじゃん」
一花さんは唇を尖らせたが、意外にもそれ以上は食い下がらなかった。
くるりと身を翻して、通路を挟んだ反対側のボックスへさっさと腰を下ろす。
「じゃ、あたしこっち。タチバナくん、窓側どうぞ」
「え、マジで? いいの?」
「タチバナくんをいじる係だからね、あたし。隣にいないといじれないっしょ」
「いじられるの前提かよ……」
一花さんが自分から俺の隣を手放すなんて珍しい。
目が合うと、一花さんは通路越しに人さし指を一本立ててみせた。
「帰りは譲んないからね、二葉」
「帰りのことは、帰りに考えるわ」
心花は一花さんが腰を落ち着けるのを見届けてから、俺の斜め向かいの通路側にすとんと座った。
その奥の窓側に三桜さんが座って、ちょうど俺と向かい合わせになる。
心花は車内をぐるりと見回すと、小さく息をついた。
座れてよかったな、と思った。
ここから海までは、まだ四十分ほどかかる。
電車が動きだすと、向かいの三桜さんの膝が、俺の膝にこつんと当たった。
「あ、ごめんね」
「狭いからな」
「……誠くんの膝、あったかいね」
「三桜さんのが冷えてるんだろ。冷房、けっこう効いてるし」
「じゃあ、あっためてもらおっと」
謝ったばかりの膝を、三桜さんは今度はわざと寄せてきた。
ワンピースの薄い生地越しに、丸い膝頭の形がそのまま伝わってくる。
電車が揺れるたびに、そのやわらかさが少しずつ居場所を変えた。
「三桜。脚を伸ばしすぎよ。そこはマコトの領分だわ」
「二葉ちゃんだって、肩、くっついてるよ?」
言われて横を見ると、確かに二葉さんの肩が、俺の肩にぴたりと寄り添っていた。
いつからだろう。
乗りこんだときには、こぶしひとつぶんの隙間があった気がする。
「……揺れるからよ。ぶつかるより、最初からくっついていたほうが安全でしょう」
「なるほど……最初からくっついとけば、ぶつかりようがないですもんね。二葉先輩、天才ですか?」
心花が本気で感心した声を出した。
二葉さんは何も言わずに、ブラウスの襟もとを指で整える。
耳の先だけが窓から差しこむ朝日より少し赤かった。
二つ目のトンネルを抜けたときだった。
窓の外が、いきなり青くなった。
屋根と電柱の切れ目の向こうに、平らな青がどこまでも広がっている。
朝の光が細かく砕けて、水平線のあたりが白くまぶしかった。
「うおっ、海! 海だ! 相沢、海!」
通路の向こうで立花が腰を浮かせ、こっちの窓をのぞきこもうと身を乗り出した。
隣の一花さんの肩を押しのけかけて、手のひらでぐいと押し戻される。
「近い。重い。座ってて」
「だって見えねえんだよ! そっち側ずりい!」
「車内よ、立花くん」
二葉さんのひと言で、立花はぴしっと背筋を伸ばして座り直した。
釣り竿のおじいさんに向かって、律儀に「すんません」と頭を下げている。
声の大きさのわりに、こういうところは素直な奴だった。
その二葉さんはというと、俺の膝の上に身を乗り出して窓の外を見ていた。
「……思っていたより、青いわ」
窓のほうへ伸ばした体が、俺の左腕にもたれかかってくる。
喉もとまで留めたブラウスからは想像のつかない重みが、二の腕の上にやわらかく乗った。
服越しなのに形がわかる。
電車が揺れるたびにその重みがゆっくりと押しつけられ、また少しだけ離れていく。
「二葉ー。誠の腕、肘掛けじゃないよー」
通路の向こうから一花さんの声が刺さった。
「……景色を見ているの」
「うん、見てるのは知ってる。乗っかってるほうの話」
「二葉ちゃん、私と席かわる? ここ、いちばんよく見えるよ」
「……結構よ」
三桜さんの親切を、二葉さんは窓から目を離さずに即座に断った。
心花が「あ、断った」と呟きかけて、慌ててまた口を押さえる。
二葉さんは身を引かなかった。
引かないまま、耳の先から首筋のほうへ、ゆっくりと赤みが降りていった。
俺はというと、腕を動かせばどこかに当たり、動かさなくても当たっているので、海を見ているふりを続けるしかなかった。
窓の外の青はたしかに思っていたより青かった。
◇
駅を出ると、風にはもう潮の匂いが混じっていた。
浜の入り口の小屋でパラソルを一本借りる。
受け取るなり、立花がそれを肩に担いで、旗手みたいに先頭を歩きだした。
「よっしゃ、陣取るぞ! 真ん中、真ん中!」
「端よ」
日傘の下からの声が、立花の足をぴたりと止めた。
「え、端? 真ん中のほうが楽しそうなのに」
「端のほうが、人が少ないわ」
「端っこのほうが、ボールで遊んでも誰にもぶつからないよ!」
「あ、それはでかい。端にしよう」
三桜さんのひと言で、立花はあっさりと進路を変えた。
ボール遊びの話をされると、たいていのことはどうでもよくなるらしい。
「タチバナくんの操縦、三桜がいちばん上手じゃん」
「え、そう? 私、ほんとのこと言っただけだよ?」
「それが一番効くのよ」
二葉さんが日傘の下で、静かに頷いた。
浜の砂はもう足の裏が焼けそうなほど熱かった。
パラソルの長い柄の先が砂を擦りそうなので、後ろ側は俺が支えた。
そのすぐ後ろを、二葉さんが日傘を差してついてくる。
振り返るたびに、心花は一花さんと三桜さんのあいだにいた。
両側から代わる代わる話しかけられて、忙しそうに笑っている。
仲がいいな、と思った。
「あつっ、あつい! 砂、サンダルの中に入ってくるー!」
「三桜先輩、足の指で砂をすくいながら歩いてません!?」
「すくってないもん! 勝手に入ってくるの!」
「つま先から砂に刺さっているからよ。かかとから下ろしなさい」
言われたとおりにかかとから歩きだした三桜さんは、三歩目でつんのめって、心花の腕にしがみついた。
心花が「わわっ」と声を上げながら、小さな体でしっかりと受け止める。
そこへ一花さんが後ろから二人まとめて抱えこんで、三人ぶんの笑い声が砂の上を転がっていった。
浜のいちばん端は岩場のすぐ手前で、確かに人がまばらだった。
立花が砂を掘り、俺がパラソルの柄を突き立てる。
そのあいだに二葉さんがバッグから大きなレジャーシートを二枚取り出して、端をきっちり重ねて広げた。
四隅に荷物を置いて、風でめくれないように押さえていく。
「荷物は全部、パラソルの下に入れて。日が動いたら、パラソルも動かすわ」
言われたとおり、俺もリュックをパラソルの影の奥へ押しこんだ。
底のほうで畳んだビニールがかさりと小さく鳴る。
誰にも言っていない荷物だった。
言う機会がないまま今日が終わるなら、それがいちばんいい。
「立花くん。パラソル、もう少し左に傾けて」
「左? こう?」
「行き過ぎよ。戻して。……もう少し。そこ」
「次女さん、細けえ!」
立花が悲鳴を上げると、一花さんがシートの上でけらけらと笑った。
「二葉はね、パラソルの影に誠がちゃんと入るか見てんの」
「……荷物のためよ」
「荷物、誠の形してないけど」
二葉さんは聞こえなかったふりをした。
黙って自分のバッグから大判のタオルを出すと、シートのいちばん影の濃いところへ広げた。
そこが俺の席だということらしい。
「……座りなさい。荷物の重しよ」
「俺は重しなのか」
「動いたら影から出るわ。じっとしていなさい」
言われるままに腰を下ろすと、二葉さんは満足そうに小さく頷いた。
「じゃ、着替えてくるね。四人で行ってくるから、誠たちは荷物番よろしく」
「急がなくていいからな」
「急ぐよ! 早く見せ……あっ」
「三桜、口」
四人はひとかたまりのまま、浜の入り口の更衣室のほうへ歩いていった。
心花は今度も一花さんと三桜さんのあいだにいた。
荷物番は交代にして、先に俺が更衣室で着替えてきた。
立花の着替えのほうは、拍子抜けするほど早く終わった。
ハーフパンツを脱いで柄シャツを放り投げた時点で、その場で完成していたのだ。
「ほらな、もう完成。時短の勝利」
「帰りのこと、忘れてないか」
「それはもう、未来の俺に任せた」
未来の立花が少し気の毒になった。
俺は海パンの上から紺のラッシュガードを着こんで、首もとまでファスナーを引き上げた。
「相沢、なんで長袖なんだよ。海だぞ?」
「プールで右腕を焼いたんだ。二葉さんに、着てこなかったら浜に入れないって言われてる」
「あの人なら、ほんとに入れてくんねえな……」
立花はシートの端にあぐらをかいて、ビーチボールをふくらませはじめた。
頬をぱんぱんにして息を吹きこむたびに、顔が少しずつ赤くなっていく。
「なあ相沢。女子の着替えって、なんであんなに時間かかんの?」
「知らない」
「日焼け止めとか塗ってんのかな。俺、あれ塗ったことねえや」
「塗っとけよ。今日、相当焼けるぞ」
「男は焼けてなんぼなんだって」
胸を張って言い切ると、立花はまたボールに息を吹きこんだ。
真っ赤な顔でふんぞり返っているので、ボールより先に本人が破裂しそうだった。
俺は更衣室の方角から、なかなか目を離せなかった。
新しい水着を買ったとだけ聞いている。
色も形も知らない。
知らないぶんだけ、柱の陰で交わされていた目配せが、何度も頭の中で巻き戻された。




