第122話 歩く挑発と、背伸びの一着
駅ビルの水着売り場で、心花は三桜先輩の見立てた白い水着に袖を通し、自分の手で試着室のカーテンを開けた。
固まった三人のなかから、一花先輩が「あたしも着る!」と飛び出していったのが、ついさっきのことだ。
心花が試着室を出ると、売り場はすでに慌ただしくなっていた。
一花先輩は入り口近くのラックへ一直線に向かい、迷いのない手つきで一着を引き抜いた。
真紅の布地が照明の下でつやりと光る。
「これ。決まり」
「早っ!? 一花先輩、まだ十秒も経ってませんよ!?」
「入ってきたときから目つけてたもん。目が合ったの、この子と」
「前髪は朝から六回も迷ったのに、水着は一度も迷わないのね」
「前髪は毎日変わるけど、水着で見せるとこは決まってるから」
「見せるとこが決まってるって、その言い方がもう大人すぎますよ……」
一花先輩は真紅のハンガーを指先でくるりと回すと、片目をつむってみせた。
「私は迷わないの。迷うのは、これ見た誠のほう」
二葉先輩はというと、別のラックの前で二着のハンガーを見比べていた。
片方はプールで着ていたのとよく似た紺のワンピース。
もう片方は片側の肩にだけ布がかかる、黒のビキニだった。
しばらく黙って見比べてから、二葉先輩は紺のほうをそっとラックへ戻した。
「二葉先輩、そっちにするんですか!?」
「片側の肩で吊る形は、波を受けても肩紐が落ちないわ。合理的よ」
「で、本音は?」
「いまのが本音よ」
「二葉ちゃん、黒いの手に取ったとき、口の端っこがちょっとだけ上がってたよ」
三桜先輩のなにげないひと言に、二葉先輩はハンガーを持ったまま、石像みたいに固まった。
耳の先に、また色がのぼっていく。
今日だけで三回目だ。
それから無言ですたすたと試着室へ歩いていった。
返事の代わりにカーテンがしゃっと閉まる音がした。
残された三桜先輩はラックの前を行ったり来たりしていた。
手に取るのは、フリルのついた小花柄や、パステルカラーのふんわりしたものばかりだ。
プールで着ていたのと同じ系統。
何着か胸にあてては、首をかしげて戻している。
「三桜先輩、迷ってます?」
「うん……。いつもの感じのは、たぶん似合うの。でもプールのとき、私だけタオル巻いてたでしょ」
「巻いてましたね。ほぼミノムシでした」
「ミノムシって言わないで……。だから、今度は……」
三桜先輩の手が隣のラックの一着の上で止まった。
淡いミントグリーンの、肩の出るデザインだった。
胸もとをふちどるフリルは可愛らしいのに、肩紐がどこにもない。
ハンガーを裏返すと、背中側はほとんど紐だけだった。
「これ……お姉ちゃんたちのみたいに、ちょっと大人っぽいの」
「わ、三桜先輩にしては攻めましたね!?」
「攻めてないの。……ちょっと、背伸びしただけ」
ミントグリーンを胸に抱えて、三桜先輩はそそくさと試着室へ消えていった。
四つ並んだ個室のうち三つが立て続けに埋まる。
心花は空いた奥の個室の前で、丸椅子に腰を下ろした。
「今度は私が見る番ですね。ふふん、厳しくいきますよ!」
膝の上に両手をそろえて、心花は審査員の顔をつくった。
最初にカーテンが開いたのは、案の定、一花先輩の個室だった。
「はい、どうよ!」
真紅のビキニだった。
胸もとで二本の紐が交差して、首の後ろへと伸びている。
その交差がちょうど谷間の真上で重なっていて、ただでさえメリハリのある体の線を、さらにくっきりと際立たせていた。
一花先輩は片手を腰に当て、もう片方の手で髪をかき上げると、鏡ではなく心花のほうへ体をひねってみせた。
見せ方を知っている人の立ち方だった。
「一花先輩、それもう歩く挑発じゃないですか!」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてますけど、半分は苦情です! プールのときの青いのより、明らかに布が減ってますよね!?」
「プールは予行演習。海が本番っしょ」
悪びれもせずに言い切ると、一花先輩は隣の個室へくるりと向き直った。
カーテンの向こうからは、さっきから衣擦れの音ばかりが続いている。
「二葉ー、まだー?」
「まだよ。紐の長さを調整しているの」
「その水着、紐って片っぽしかなくない?」
「……その片方を、念入りに調整しているの」
「はい、三秒待ったから開けまーす」
「一秒も待っていないわ!」
問答無用でカーテンが引き開けられた。
黒い布が右の肩から斜めに体を横切っていた。
むき出しになった左の肩は、日傘に守られてきたせいか、驚くほど白い。
その白さと黒の境目が鋭い斜めの線を描いている。
そして、その線の下だった。
喉もとまでボタンを留めていたシャツワンピースからは想像もつかない豊かな丸みが、黒い布地をはっきりと押し上げていた。
カフェで紙ナプキンを差し出されたとき、ボタンとボタンのあいだに見えた、かすかな引きつれ。
あれは気のせいではなかったのだと、心花は今さら思い知った。
「…………二葉先輩」
「なに」
「ずるくないですか!? なんでそれを、毎日ボタンで閉じ込めてるんですか!?」
「閉じ込めていないわ。シャツの縫製がそういう作りなだけよ」
「縫製のせいにするのは無理あるって」
隣の個室のカーテンが細く開いた。
首もとで布を握りしめたまま、三桜先輩が顔だけを出して二葉先輩を見上げる。
「二葉ちゃん、やっぱり、またおっきく……」
「三桜。やっぱりも、またも、要らないわ」
「だって、ずっと思ってたんだもん」
「……普通よ。一花と大差ないわ」
「大差あるって! あたし、姉としてずっと納得いってないんだから!」
「二葉先輩の普通って、どこの物差しで測ってるんですか……」
二葉先輩は答えずに、自分の手でカーテンを閉めた。
閉めた布の向こうから少しだけ早口の声が返ってくる。
「見せ物ではないわ。……でも、これにするわ」
「三桜も、ほら出ておいで!」
「む、むり……」
顔だけ出していた三桜先輩が亀みたいにカーテンの内側へ引っ込んだ。
布の下から裸足のつま先だけがのぞいている。
一花先輩がカーテンの端に手をかけると、内側からも同じだけの力で引き戻された。
「だめー! まだ心の準備が……!」
「準備は着る前にするもんでしょ!」
「一花、手を離しなさい。破れたら買い取りよ」
閉じたカーテンの奥から飛んできた二葉先輩の声に、一花先輩はぱっと手を離した。
あまりの反応の早さに、心花は思わず笑ってしまう。
それから丸椅子を立って、三桜先輩の個室の前に立った。
「三桜先輩。私だけ、入ってもいいですか?」
しばらく返事はなかった。
やがてカーテンが手のひら一枚ぶんだけ開いた。
「……心花ちゃんだけなら」
するりと中へ入ると、三桜先輩は鏡に背中を向けて立っていた。
両腕を胸の前でぎゅっと交差させて、肩を内側へ丸めている。
淡いミントグリーンのフリルが、むき出しになった肩のすぐ下をふちどっていた。
鏡に映った背中を、首の付け根から腰のくびれまで、細い紐のほかに何も覆っていない。
浮き出た肩甲骨が呼吸に合わせて小さく上下していた。
「心花ちゃん……背中、ぜんぶ出てるの。こんなの、私じゃないみたい」
「わかります。私もさっき、鏡の前で同じこと思いましたもん」
「心花ちゃんも?」
「はい。腕だけTシャツの形に焼けてて、そこから先が、ぜんぶ知らない人でした」
三桜先輩が心花の二の腕にちらりと目をやった。
袖口からのぞいたくっきりとした境目に、小さく吹き出す。
「ほんとだ。脱いでも半袖着てるみたい」
「笑わないでくださいよ。ふつうに出歩いてるだけなのに、なんでこんなにくっきり焼けるんでしょうね」
「ふふっ……ごめんね」
「でも、カーテン開けたとき、先輩たち三人とも息止めてましたよ。三桜先輩なんて、袖で口ふさいでたじゃないですか」
「……うん。だって、すっごくかわいかったから」
「だから今度は、私が息止める番です。ほら、腕、下ろしてみてください」
三桜先輩はしばらく視線を泳がせてから、そっと腕をほどいた。
フリルの下で華奢な体の線があらわになる。
控えめなふくらみをフリルがふんわりと包み込んで、いつもより少しだけ大人びた輪郭をつくっていた。
細い首からなだらかな肩へ。
ふだんはカーディガンの袖に隠れている線が、ぜんぶ鏡の中にあった。
「……どう、かな?」
「三桜先輩。いま、ちゃんと息止まりました」
言い終わるより早く、三桜先輩が勢いよく抱きついてきた。
むき出しの腕が首にまわり、すべすべした頬が心花の頬に押しつけられる。
胸もとのフリルが、Tシャツ越しにくすぐったく触れた。
背伸びをした水着の中身は、抱きしめてみると、やっぱりいつもの三桜先輩だった。
柔らかくて、ふにゃりとしていて、ぴったりくっついたところから、とくとくと温かい。
「心花ちゃんの手、あったかいね」
背中にまわした心花の手のひらに、三桜先輩が気づいたように言った。
カフェのテーブルの下でつめたいねと言われた手だった。
「……三桜先輩が、さっきずっとあっためてくれてたからですよ」
二人で個室を出ると、一花先輩と二葉先輩が並んで待ち構えていた。
二人とも、もう元の服に戻っている。
三桜先輩は心花のTシャツの裾をつまんだまま、半歩うしろに隠れようとして、隠れる場所が足りずに思いきりはみ出した。
開いたままのカーテンの奥で、全身の鏡が三桜先輩の背中を映していた。
一花先輩がぽかんと口を開けた。
「うっそ、三桜。いつのまにそんな背中になってたの」
「似合っているわ。肩を丸めないで、胸を張りなさい」
「張ったら、もっといろいろ出ちゃうよ……!」
三桜先輩は真っ赤になりながらも、まんざらでもなさそうに鏡のほうを振り返った。
それから、はっと何かを思いついた顔をして、カーテンの内側の棚に置いたスマホへ手を伸ばした。
「そうだ。これ、誠くんに一枚だけ……」
「だめ」
「だめよ」
「だめですよ!? ひとりだけ先に見せるの、ずるいです!」
三方向からほとんど同時に声が飛んだ。
一花先輩が三桜先輩の手からひょいとスマホを取り上げて、くるりと背を向けながら頭の上へ高く掲げる。
「返して、一花お姉ちゃん! 送らないから! たぶん!」
「たぶんって言った時点でアウトでしょ」
「届かないよぉ! 一花お姉ちゃん、背伸びしてるでしょ!」
「してませーん。同じ日に生まれたのに、不思議だねぇ?」
「それ絶対わざと言ってる!」
三桜先輩が爪先立ちで何度も手を伸ばす。
そのたびに胸もとのフリルがふるりと震えて、むき出しの背中で、ミントグリーンの紐の端が揺れた。
「当日まで、マコトには見せないこと。写真も、一枚もよ」
二葉先輩が静かに言い渡した。
それから少しだけ声をやわらげて付け足す。
「先に見せたら、海で驚いてもらえないでしょう」
「……あ、そうだった。それはもったいないね」
三桜先輩が踵を下ろして、こくりと頷いた。
一花先輩がスマホを返しながら、にやりと笑う。
「そういうこと。誠には、砂浜でいきなり一発目を食らってもらうんだから」
「一発目って……センパイ、ノックアウトされちゃいません?」
「されたら介抱したげる。水着のまんまで」
「不純な動機、混ざってます!」
◇
会計の列に並ぶころには、四人の腕にそれぞれ一枚ずつ、新しい水着が掛かっていた。
真紅と、黒と、ミントグリーンと、白。
レジの店員さんが一枚ずつ丁寧に畳んで、薄紙に包み、それぞれの白い紙袋へ入れていく。
その途中で三桜先輩が心花の袖をくいくいと引いた。
「心花ちゃん、結果発表。『見るだけ』が五回で、『一回だけ』が一回でした」
「なんで二種類も集計してるんですか……」
「で、篠崎ちゃん。買った枚数は?」
「……一枚です」
「効いたでしょう」
二葉先輩がほんのわずかに口の端を上げた。
心花は言い返す言葉が見つからずに、受け取った紙袋の持ち手をぎゅっと握った。
会計を済ませて入り口のほうへ戻ると、さっきのラッシュガードの壁が見えた。
紺に、灰色に、黒。
上まできっちり閉まる、長い袖の列。
心花はほんの少しだけ足をゆるめた。
「寄ってく?」
一花先輩が何でもないことみたいに訊いた。
「……今日はいいです」
心花は紙袋を胸の前に抱え直した。
薄紙越しに畳まれた布のかすかな手ざわりが伝わってくる。
「なんか、これ抱えてたら、ちょっとだけ……センパイに見せるの、楽しみになっちゃいました」
口にしてから、頬がかっと熱くなった。
けれど言ったことを取り消す気にはならなかった。
「当日、センパイがびっくりして固まるとこ、ぜったい見ますからね。……綾瀬先輩たちにも、負けませんから!」
「言ったね? こっちだって、そのために買ったんだけど」
「受けて立つわ。マコトの目は、そう簡単に譲らないもの」
「わ、私も負けないもん! ……たぶん!」
「三桜、そこは言い切りなって」
四つの紙袋がエスカレーターの手前でがさがさと揺れた。
心花は自分のぶんを、もう一度ぎゅっと胸に抱きしめた。




