第121話 試着室の番狂わせ、規格外の水着事情
駅ビルのガラスの扉が左右に開いた瞬間、冷房の風が額の汗をさらっていった。
外の白い熱が背中のほうへ置き去りにされていく。
心花は三桜先輩の手を引いたまま、上りのエスカレーターへ一直線に駆け込んだ。
「篠崎さん。エスカレーターは歩かないの」
すぐ下の段から二葉先輩の声が追いかけてきた。
畳んだ日傘の先でステップの縁の黄色い線をとんと指している。
「はぁい。……あれ、三桜先輩、息切れてません?」
「心花ちゃんが速いんだよぉ……五分の道、三分で来ちゃった……」
「三桜が遅いんだって。あたし、まだ全然いけるし」
いちばん下の段では一花先輩が手すりにもたれて笑っている。
そう言うわりに、汗で張りついた前髪の分け目を指先でこっそり直していた。
「一花。前髪、今日で五回目よ」
「数えないでってば!?」
「あ、カフェで直したのも入れたら、ほんとは六回だよ?」
「修正申告を受理するわ」
「税務署かよ!?」
三階でエスカレーターを降りると、婦人服の売り場の奥が、そこだけ夏の色に塗り替えられていた。
毎年この季節になると、フロアの半分を水着が占領するらしい。
ハンガーラックが何列も並び、赤も青も黄色も、柄という柄が壁一面にひしめいている。
通路の角では、頭のないトルソーがビキニ姿で堂々と胸を張っていた。
「わぁ……」
三桜先輩がつないでいた手をほどいて、小さく歓声を上げた。
「顔がないと、どの子がいちばん可愛いのか、わかんないね」
「三桜。マネキンに順位をつけに来たわけではないわ」
「ていうか、顔があったって、あたしのほうが可愛いに決まってんじゃん」
「張り合う相手を人間になさい」
「マネキンに対抗意識燃やさないでくださいよ……」
心花は売り場をぐるりと見渡して、目当ての一角を見つけた。
入り口に近い壁際に、長袖のラッシュガードが色違いでずらりと吊るされている。
紺に、灰色に、黒。
まっすぐそちらへ歩き出したところで、両肩を後ろからがしっと掴まれた。
「はい、回れ右ー」
「わっ、ちょ、一花先輩!?」
くるりと百八十度回されて、目の前が紺色の袖の列から、色とりどりのビキニの洪水に切り替わる。
肩をつかむ手のひらは薄いTシャツ越しにもじんわりと温かかった。
「見るだけって約束ですよね!? だったら、まずはあっちを見たっていいじゃないですか!」
「心花ちゃん、いまの『見るだけ』で四回目だよ」
三桜先輩が指を四本立ててみせた。
「カフェから数えてたんですか!? いつのまに!?」
「正確ね。三桜、その調子で続けて」
「うん、まかせて!」
「なんでそこで分業ができてるんですか……」
逃げ道をふさがれた心花は、手近なビキニの値札をつまんでひっくり返した。
そして目を剥いた。
「うわ。これ一着で、お米が十キロ買えちゃいますよ」
「待って、米で換算すんのやめて。急に罪悪感わいてくるから」
「十キロなら、銘柄を選べば少しおつりが出るわね」
「二葉ちゃん、乗っからないで……」
「うち、買い物係が私なんで、値札見るとつい計算しちゃうんです。キャベツだったら、えーっと……」
「キャベツもやめて!?」
一花先輩が両手で耳をふさいだ。
二葉先輩はというと、隣のラックから一枚取って、内側の洗濯表示を真剣な顔で読んでいる。
値札より先にそこを見るあたりが、いかにも二葉先輩らしかった。
「よし。篠崎ちゃんに似合うやつ、各自一着ずつ持ってくること。制限時間は三分ね」
「勝手に競技にしないでくださいってば!」
心花の抗議は三方向へ散っていく背中のどれにも届かなかった。
置いていかれた心花はしかたなく、近くのラックのハンガーを一本ずつ右から左へ送ってみる。
どれもこれも布が少なかった。
一番に戻ってきたのは、やっぱり一花先輩だった。
「じゃーん。篠崎ちゃんにはこれ!」
突き出されたハンガーには黒い紐が何本も絡まっていた。
よく見ると紐と紐のあいだに、手のひらより小さな三角形の布が二枚ぶら下がっている。
「それ、どこからどこまでが水着なんですか!? 着るっていうより、結ぶやつじゃないですか!」
「紐のあいだに、申しわけ程度に布があるわね」
いつのまにか戻っていた二葉先輩が横から冷ややかに評した。
「その申しわけなさがいいんじゃん」
「よくないです! 波が来たら、その申しわけごと流されちゃいますよ!」
「一花のは元の場所に戻してきなさい。篠崎さんには、こっち」
二葉先輩が差し出したのは深い紺色のホルターネックだった。
首の後ろで結ぶ紐が太く、胸もとはしっかりと布で覆われている。
「首の後ろで吊る形よ。内側に支えも入っているから、泳いでもずれないわ」
「二葉ー、それ自分が着るやつ選んでない? 色が完全に二葉なんだけど」
「あ、そういえばプールのとき、二葉先輩も紺のワンピースでしたもんね!」
「……紺は汚れが目立たないのよ」
「理由が主婦なんだよなぁ」
そこへ三桜先輩がぱたぱたと戻ってきた。
ほかの二人よりずっと遠くの売り場まで行っていたらしく、少し息が上がっている。
胸の前に一着のハンガーを大事そうに抱えていた。
「心花ちゃん、これ……どうかな?」
白地の布をレモンイエローの細いラインがふちどっている。
肩紐の付け根と、腰で結ぶ紐の先にも、同じ黄色が小さく差してあった。
派手すぎないのに、ぱっと目を引く。
夏の朝の光をそのまま布にしたような一着だった。
「わ……これ、かわいいです。ほんとにかわいい……」
「でしょ!? 心花ちゃん、いつもぱって明るいから黄色。それで、白いのは……」
三桜先輩は言葉を探すように、ハンガーを持つ指をもじもじと動かした。
「心花ちゃん、ほんとはすっごく可愛いから。隠しちゃうの、もったいないなって」
まっすぐすぎる言葉が正面から飛んできた。
心花は受け止めきれずに、思わず一歩後ずさる。
「み、三桜先輩、そういうのはもうちょっと前置きしてから言ってください……!」
「三桜は前置きができないのよ。思ったことが先に口から出るの」
「で、毎回それで自爆してるもんね」
「自爆してないもん!」
ぷうっと頬をふくらませる三桜先輩の手から、心花はおそるおそるハンガーを受け取った。
つるりとした布地は思っていたよりずっと薄い。
「でも白って、日焼け止めで黄ばむんですよ。落とすの、ほんとに大変なんですから」
「そこは平気! 差し色が黄色だから、ちょっとくらい黄色くなっても目立たないよ」
「三桜。差し色は縁だけよ。染みは真ん中にもつくわ」
「……あっ」
「三桜先輩、プールで着てた白い水着、あれ帰ってからどうやって洗いました?」
「……洗濯機に、ほかのといっしょに……」
心花は額に手を当てた。
白地に咲いていた小花柄の行く末が目に浮かぶようだった。
「今度、洗い方教えますね。ネットに入れて、おしゃれ着用の洗剤で押し洗いです。脱水は十秒だけ」
「心花ちゃん、なんか先生みたい……。それより、ちょっとあててみるね。サイズ見たいから」
三桜先輩は白い水着を取り返すと、心花の胸もとへそっとあてがった。
Tシャツの上から両手のひらで布を押さえて、形を確かめる。
押されたぶかぶかの生地が胸に沿ってへこみ、その下にあるものの丸みを、くっきりとなぞった。
三桜先輩はきょとんとした顔のまま、確かめるようにもう一度だけ、手のひらでそっと布を押した。
ふにゅ、と押し返した弾力に、三桜先輩の指がぴくりと跳ねた。
「……あれ?」
「三桜先輩、いま何に気づいたんですか。目、泳いでますよ」
「な、なんでもない! えっと、その……これ、サイズ合ってるかなって……」
三桜先輩の頬がじわじわと赤くなっていく。
その横で一花先輩の目がすっと細くなった。
カフェで見たのと同じ目だった。
「よろしければ、サイズをお測りしましょうか?」
通りかかった女の店員さんがにこやかに声をかけてきた。
首には使い込まれたメジャーを下げている。
「だ、大丈夫です! 自分でわかってますんで!」
「へえ。わかってるんだ」
「わかってますけど、言いませんからね!?」
「篠崎さん。現実から目を背けてはだめよ」
「背けてません! 隠してるだけです!」
店員さんは何かを察したように微笑んで、隣のラックの整頓へ戻っていった。
一花先輩の口もとが楽しそうに吊り上がる。
心花は白い水着を胸の前でぎゅっと抱え込んで、三方向からの視線をまとめて睨み返した。
「……見るだけのつもりだったんですからね。試着だけですよ。一回だけですからね」
「いまの『見るだけ』で五回目。あと、『一回だけ』は新しいのだね。それも数えていい?」
「数えておきなさい。そういうのは、あとで効くわ」
「効かせないでくださいよぉ!」
◇
試着室は売り場のいちばん奥に四つ並んでいた。
それぞれの入り口に淡いベージュのカーテンが下がっている。
手前のひとつに入ろうとした心花の背中を、二葉先輩の指がとんと押した。
「奥にしなさい。あそこなら、通路から誰も前を通らないわ」
それだけ言うと、二葉先輩はカーテンの前の丸椅子に腰を下ろした。
畳んだ日傘を膝の前に立てて、まるで門番みたいな座り方だった。
カフェで決めた段取りの続きなのだと、心花は少し遅れて気がついた。
カーテンを閉めると、三人の声が布一枚ぶん遠のいた。
狭い個室には全身が映る鏡と、小さな棚と、フックが二つ。
心花はTシャツの裾に手をかけて、一度だけ深く息を吸った。
頭から抜いた拍子に、汗で湿った前髪がくしゃりと乱れる。
首の後ろで紐を結び、背中の紐は手探りで蝶々にした。
慣れない結び目に指が何度もつまずく。
ようやく形になったところで、心花はおそるおそる顔を上げた。
鏡の中に白い水着の女の子が立っていた。
二の腕の途中で肌の色がくっきりと切り替わっている。
Tシャツの袖の形に焼けた跡だ。
その線から先の日に焼けた腕だけが、見慣れたいつもの自分だった。
線から内側は、ほとんど見たことのない自分だった。
小さな肩と、細い腰。
そのあいだで、白い布が思っていたよりずっと大きなふくらみを、けなげに包んで支えている。
レモンイエローの縁取りが、その丸みに沿ってやわらかな弧を描いていた。
毎日メンズのLに任せていた仕事を、今は薄い布が一枚きりで背負っている。
両腕が勝手に動いて、胸の前で交差しかけた。
いつもなら真っ先に隠すところだ。
知らない誰かの目がこちらへ向く場面を、頭のどこかが勝手に思い浮かべかけた。
「ねえ二葉、この紐のやつ、ほんとに戻さなきゃだめ?」
「だめよ。お店の人の手間を増やさないで」
「心花ちゃん、まだかな。……あっ、急かしてないよ!? 待ってるだけだからね!」
カーテンの向こうに三人ぶんの気配があった。
丸椅子が小さく軋む音。
ハンガーがかちゃりと鳴る音。
落ち着きなく行ったり来たりする、軽い足音。
――あたしたち、隣にいるからさ。
カフェで聞いた一花先輩の声が、耳の奥でもう一度鳴った。
交差しかけた腕が途中で止まる。
心花はそれをゆっくりと下ろした。
鏡の中の女の子も同じように腕を下ろした。
ここにいるのは、三人だけだ。
「……わりと似合ってるじゃないですか、これ」
誰に言うでもなく呟いてから、心花は自分で小さく吹き出した。
鏡の中の自分にまで敬語を使っているのが、なんだかおかしかった。
カーテンの端を握る。
もう一度だけ息を吸って、心花は自分の手でそれを引き開けた。
「お、お待たせしましたっ! ……じゃーん、とか言ったほうがいいですか?」
返事はなかった。
丸椅子から腰を浮かせかけた姿勢のまま、二葉先輩が止まっていた。
一花先輩の指からハンガーが一本滑り落ちて、床でかしゃんと鳴った。
三桜先輩はカーディガンの余った袖で口もとを覆い、目だけをまんまるにしている。
「……え、なんで黙るんですか!? なにか言ってくださいよ! 変なら変って、はっきり……!」
「……かわいい」
最初に声をこぼしたのは三桜先輩だった。
袖の陰からため息みたいな声が続く。
「心花ちゃん、かわいい。ほんとに、すっごくかわいい……」
「……ちょっと待って。情報量が多い」
一花先輩がこめかみを押さえながら、床のハンガーを拾い上げた。
拾い上げたその目が心花の顔からゆっくりと下へ降りていく。
そして、ある一点でぴたりと止まった。
「てかさ。……F?」
「えっ、ちょっ、いきなりそこですか!?」
「いや、Fはあるでしょ、それ。絶対ある」
「私、Gかもって思った……」
「三桜、口に出さないの」
二葉先輩は短くたしなめてから、腕を組んで心花を見た。
さっき洗濯表示を読んでいたときと、同じ真剣な目つきだった。
「……メンズのLを選んだのは、正しい判断だったわね。あれでなければ、とても隠しきれないもの」
「二葉先輩まで分析しないでください!」
「で、篠崎ちゃん。正解は?」
「答えません! ノーコメントです! 黙秘しますっ!」
心花はカーテンを掴んで、しゃっと勢いよく閉めた。
閉めた布の内側で顔から湯気が出そうだった。
「あ、逃げた」
「逃げてません! ちょっと休憩してるだけです! ……ていうか一花先輩、最初の感想がなんでアルファベットなんですか!? かわいいとか似合うとか、先に言うことありますよね!?」
「ごめんごめん。感想が先にアルファベットの形で出てきちゃったの」
「目が、言葉を追い越したのね。無理もないわ」
「二葉先輩、知的なフォローで追い打ちかけないでください!」
カーテンの隙間から明るい茶髪がひょいとのぞいた。
断りもなく一花先輩が個室の中へするりと入り込んでくる。
「ちょ、一花先輩!? ここ、一人用ですよ!?」
「知ってる。でも背中の紐、縦結びになってたから。直したげる」
狭い個室に二人ぶんの体が収まると、鏡の前はたちまちぎゅうぎゅうになった。
背中にまわった一花先輩の指が結び目をほどいていく。
爪の先が背骨のくぼみをつうっとかすめて、心花は思わず肩をすくめた。
「ひゃっ……く、くすぐったいです!」
「動かないの。ちゃんと蝶々にしとかないと、波でほどけるよ?」
「そういう縁起でもないこと、さらっと言わないでください……!」
結び直すあいだ、一花先輩の体は心花の背中にぴたりと寄り添っていた。
あいだを隔てているのは一花先輩の薄いキャミソールだけだ。
紐をきゅっと引かれるたびに、むき出しの背中へやわらかなふくらみが押し当てられ、弾むように押し返してくる。
鏡越しに見える一花先輩の顔は、それを分かっていてやっている顔だった。
「はい、できた」
一花先輩は満足げに言うと、少しかがんで心花の肩にあごをのせた。
鏡の中で二人の顔が頬の触れそうな近さで並ぶ。
「……ねえ、篠崎ちゃん」
「なんですか。あご、重いです」
「こうやって並ぶとさ。あたしの立場、なくない?」
「一花先輩、いったい何と並んで比べてるんですか……」
「鏡の中の現実と」
くだらないやりとりのあとで、一花先輩はあごをどけた。
それから鏡越しに心花の目をまっすぐ見た。
「ん。出てきてくれて、ありがとね」
その声はほんの一瞬だけ低かった。
けれど次の瞬間にはもう、一花先輩はぱんっと両手を打ち合わせていた。
「よし、決めた。あたしも着る! 篠崎ちゃんにだけ頑張らせとくとか、ありえないし」
カーテンをはね上げて飛び出していく背中に、外から二葉先輩の声がかかった。
「一花、どこへ行くの?」
「自分の選んでくる! 二葉も三桜も、ぼさっとしてないで選んで! 篠崎ちゃんに全部持ってかれるよ!」
「何を持っていかれるのか、説明しなさい」
そう言いながら、二葉先輩の声はもう丸椅子から離れていく。
「ま、待って一花お姉ちゃん! みんな着るなら私も着る! 私だけ置いてかないで!」
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、心花は鏡の中の自分と顔を見合わせた。
それから大急ぎでTシャツを頭からかぶり直した。




