第120話 静かな告白、最後のさくらんぼ
水着を買いに行く前に、駅前のカフェでひと休み——三姉妹と心花だけの初めての女子会は、名物のパフェが届いたところでいちばん賑やかになっていた。
一花先輩の「あーん」と、二葉先輩の無意識のお世話。
笑いすぎて伸びをしたら、ゆるいTシャツの胸のあたりまで、一花先輩に目をつけられた。
特大のパフェは、四本のスプーンでみるみる削られていった。
もっとも、削っている量のほとんどは一花先輩だったけれど。
ブラウニーの層まで掘り進んだところで、一花先輩がスプーンをマイクのように心花へ向けた。
「で! 本題ね。篠崎ちゃん、今日なに買うか決めてる?」
「決めてますよ! ラッシュガードです。プールのとき、ファスナーが下がっちゃったじゃないですか。だから今度は、上まできっちり閉まるやつにしようと思って」
「またそれ? もったいなー」
一花先輩は大げさに天井を仰いだ。
「篠崎ちゃん、顔めちゃくちゃ可愛いんだからさ。もっと攻めたの着て砂浜歩いたら、声かけてくる男の列できるっしょ。選び放題じゃん」
その瞬間だった。
心花の笑顔が、一拍だけ止まった。
口角は上がったまま、目だけがどこにも焦点を結ばずに静止する。
ブラックコーヒーの中で氷が崩れる小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「あはは! 列って、そんな、行列のできるお店じゃないんですから!」
声は出た。
いつもより半音高くて、明るすぎる声だった。
「いやいや、ほんとに。篠崎ちゃんなら、一日で十人は――」
「ないですないです、そういうのは全然! 私、そういうの、その……」
続きの言葉が喉の奥で引っかかった。
笑っているはずの頬が、うまく動かない。
テーブルの下で、指が勝手にTシャツの裾を探してつまむ。
さっきまであんなに賑やかだったボックス席に、窓越しの蝉の声だけが流れ込んできた。
最初に笑うのをやめたのは、斜め向かいの一花先輩だった。
心花へ向けていたスプーンが、宙で止まっている。
その目が、笑ったまま固まった心花の口もとを、まっすぐに見ていた。
正面で、二葉先輩がコーヒーのグラスをコースターへ戻した。
こつん、という小さな音。
「一花」
短く呼ばれたときには、一花先輩はもう口を閉じていた。
二葉先輩は心花から目を離さないまま、静かに続けた。
「篠崎さん。さっきパフェが運ばれてきたとき、少しだけ背もたれのほうへ下がったわね」
「え……」
「知らない男の人に近くへ来られるのは、あまり得意ではないのね」
責める響きはどこにもなかった。
見ていたことを、見ていたとおりにテーブルへ置いただけの声だった。
心花は目を伏せた。
裾をつまんだ指先に力がこもる。
それから小さく頷いた。
「……はい」
一度頷いてしまうと、その先は思っていたよりもすんなりと言葉になった。
「中学のころから、なんか、誤解されやすくて。私はふつうに喋ってるだけなのに、男の子にそういうふうに取られちゃったり。それで、女の子たちとも、なんかうまくいかなくなっちゃったり」
テーブルの木目を見つめたまま、心花は笑ってみせようとして、やめた。
「あと、人がぎゅうぎゅうのところとか、混んでる電車とか、あんまり得意じゃないんです。男の人がすぐ近くにいると、その……ちょっと」
言ってしまってから、膝の上で指を握り直す。
「今日、一本早い電車に乗ってきたのも……楽しみだったのはほんとなんですけど。空いてるからっていうのも、ちょっとだけあって」
三人ともすぐには何も言わなかった。
斜め向かいで一花先輩がスプーンをそっと置いた。
さっきまでマイクのように振り回していたそれを、音を立てないように紙ナプキンの上へ。
「……ごめん」
跳ねる語尾がどこにもない、低い声だった。
「今の、私、最悪なこと言った」
「ち、違います! 一花先輩は全然悪くなくて、私がこう、勝手に……!」
一花先輩は首を横に振っただけで、いつもの軽口はひとつも返ってこなかった。
その静けさがかえって胸に響いた。
正面の二葉先輩は、いつもの涼しい顔のまま窓の外へ視線を流していた。
その目の奥がすっと温度を失っている。
冷たさが自分に向いたものでないことは、心花にもすぐにわかった。
ブラインドの向こうを行き交う、顔も知らない誰か。
まだ会ってもいない誰かに向けて、それは音もなく研がれていた。
テーブルの下で何かが心花の手に触れた。
三桜先輩の手だった。
余ったカーディガンの袖ごと、裾をつまんだままの心花の指に、そっと重なる。
握りしめるのではなく、ただそこに置いておくみたいに。
「心花ちゃんの手、つめたいね」
「……アイスコーヒーのグラス、ずっと持ってたからですよ」
「そっか。じゃあ、あったまるまでこうしてる」
三桜先輩はそれだけ言うと、空いているほうの手でクリームソーダのさくらんぼを軸ごとつまみ上げた。
そして何も言わずに、それを心花のコースターの上へ置いた。
最後に食べる派だと、さっき胸を張っていたさくらんぼだった。
テーブルの下の手は離れなかった。
喉の奥がきゅっと狭くなる。
笑って、うるさくして、平気な顔をしていれば、誰にも気づかれずに済むと思っていた。
気づかれたら最後、面倒な子だと思われるに決まっている。
なのに三人とも、面倒そうな顔なんてひとつもしていなかった。
「あ、あの! でも、そんなに深刻な話じゃないですからね!? ふだんは全然平気ですし、学校も楽しいですし、今日だってほんとにすっごく楽しみにしてて――」
一花先輩がテーブル越しに身を乗り出して、手を伸ばしてきた。
指先が心花の頬をむにっとつまむ。
さっきまでパフェのグラスを支えていた指は、ひんやりと冷たかった。
「知ってる。店に入ったときから、顔に書いてあったもん」
「当日の段取りを決めるわ」
二葉先輩が、ずれてもいないコースターの位置をまっすぐに直した。
それが合図だったみたいに、止まっていたテーブルの空気がゆっくりと動き出す。
「パラソルは人の少ない端に立てる。着替えも移動も、なるべく四人で固まって動くこと。……それでも寄ってくる人がいたら」
そこで二葉先輩は、ほんの少しだけ言葉を切った。
「私が相手をするわ。二度と近寄る気が起きないように、丁寧に」
声色は穏やかなのに、なぜか店の冷房が一段強くなった気がした。
「うわ。二葉の『丁寧に』出た」
「心花ちゃん、二葉ちゃんの丁寧ってね、いちばん冷たいやつなんだよ」
「じゃ、あたしは前に立つ係ね。ああいうのあしらうの、慣れてるし」
「私は、心花ちゃんの手をずっとつないでる係!」
三桜先輩が、テーブルの下でつないだままの手をわざわざ持ち上げて見せた。
小さく揺れる二人ぶんの指先を見て、心花の胸の奥で何かがほどけかける。
けれどほどけきる前に、別の心配が口からこぼれた。
「……あの。海って、立花先輩も来るんですよね。それは、わかってるんですけど」
「タチバナくん? あー、あれは平気。声がでかいだけで、中身はたぶん大型犬だから」
「立花くんには、事情を話さなくても距離は取らせられるわ。席の配置で済むことよ」
「立花くんはね、たぶん大丈夫な人。でも、心花ちゃんがやだなって思ったら、私があいだに入るね」
「それでも変な真似したら、あたしが沖まで投げとくし」
終業式の日、センパイの隣で笑っていた立花先輩の顔が、頭の中で三人ぶんの太鼓判に押しつぶされていく。
最後のひとつだけは物騒すぎて、心花は思わず笑ってしまった。
「……それに、せっかくの海なのに、先輩たちが私の見張り番みたいになっちゃうの、やですよ。センパイと遊ぶ時間、減っちゃうじゃないですか。先輩たち、そのために水着を買いに来てるのに」
「減らないって。誠のことは誠のことで、ちゃんと全力で取りにいくし。両方やるの。あたし、欲張りだから」
「見張りではないわ。段取りに一行足すだけよ。工程表を書くのは慣れているもの」
「私はね、心花ちゃんと遊びたいから隣にいるんだよ。見張りじゃなくて、いっしょにいるだけ」
言い方はばらばらなのに、三つとも同じ場所へ落ちてきた。
一花先輩がパフェの底から最後のブラウニーをすくい上げ、長いスプーンをテーブル越しに伸ばして、心花の口の前でぴたりと止める。
「それにさ、篠崎ちゃんはもう、うちの妹分みたいなもんじゃん。妹を守るのは姉の仕事っしょ」
ブラウニーが口の前で揺れる。
心花はそれを食べることも言い返すこともできずに固まった。
「……一花が姉らしいことを言ったわ」
「今日、珍しいこといっぱいだね」
「……妹分って、私がですか? 一花先輩の?」
「あたしのっていうか、うちの。三人ぶん。嫌?」
「嫌じゃないです! 嫌じゃないですけど……えへへ。なんか、すっごくいいですね、それ」
ブラウニーをぱくりと口に入れると、チョコレートの甘さの奥で、目の端がじわりと熱くなりかけた。
心花は慌てて瞬きを繰り返して、それを押し戻す。
泣くのは違う。
今は笑う場面だ。
「あ、あとっ。このこと、センパイには内緒でお願いします」
涙の気配を振り払うように、心花はぴんと人差し指を立てた。
「センパイの前では、ただの元気でうるさい後輩でいたいんです」
「うるさい自覚あったんだ」
「ありますよぉ! 自覚したうえで、全力でうるさくしてるんです」
「言わないわ。約束する」
二葉先輩の約束は短いぶんだけ重かった。
「私も、ぜったい言わない。……私、隠しごと下手だけど、これだけはがんばるから」
「三桜のそれがいちばん信用ならないんだって」
「一花お姉ちゃん、ひどい!」
三桜先輩の抗議でテーブルにまた笑いが戻る。
その笑いが引いたところで、一花先輩が頬杖をついた。
「ねえ、篠崎ちゃん」
一花先輩の声が少しだけ柔らかくなった。
「ラッシュガード、着たいなら着ればいいよ。誰も文句言わないし、言わせない。……でも、一回だけ、ほかのも見てみない? あたしたち、隣にいるからさ」
心花はテーブルの下でつながったままの手を見下ろした。
三桜先輩の指が、返事を急かすでもなくそこにある。
コースターの上では、さっきのさくらんぼが小さく光っていた。
「……見るだけですよ? ほんとに見るだけですからね?」
「見るだけ見るだけ」
「心花ちゃん、あのね。一花お姉ちゃんの『見るだけ』は……」
「『買うまで帰さない』という意味よ」
「ええっ!? それ先に言ってくださいよぉ!」
空になった特大グラスの底を、一花先輩が名残惜しそうにスプーンでつついている。
「結局、半分以上は一花が食べたわね」
「篠崎ちゃんに最初のひと口あげたし」
「最初のひと口だけね」
三桜先輩の通訳どおりの結末に、心花はまた吹き出した。
さくらんぼは最後に食べた。
甘くて、少しだけ酸っぱかった。
会計を済ませて扉を押し開けると、真夏の熱気が壁のように押し寄せてきた。
店の中で半分になっていた蝉の声が、元どおりの音量で頭の上から降ってくる。
駅ビルまでは、大通りをまっすぐ歩いて五分ほどだ。
歩きはじめてすぐに、心花はあることに気がついた。
一花先輩が半歩前を歩いている。
車道側にはいつのまにか二葉先輩が日傘を差して並んでいて、左手は三桜先輩とつながったままだった。
「……あの。これ、もう始まってません?」
「予行演習よ」
「本番は週末だからね!」
三桜先輩がつないだ手を前後に大きく振る。
その様子を振り返って見ていた一花先輩が、くるりと身を翻して戻ってきて、心花の後ろへ回り込んだ。
「はいはい、妹分は真ん中ー」
言うなり、一花先輩の腕が後ろから心花の首に回された。
ぎゅっと引き寄せられて、肩甲骨のあたりに薄いキャミソール越しのたっぷりとした柔らかさが押しつけられる。
汗ばんだ素肌の熱まで、そのまま背中に伝わってきた。
「い、一花先輩! 当たってます、思いっきり当たってます!」
「当ててんの。姉の特権」
「一花。歩道で絡まないで。暑苦しいわ」
「二葉ちゃんもくっつきたいなら、言えばいいのに」
「……言わないわ」
日傘の陰で二葉先輩の耳の先がまた赤くなる。
今日だけで二回目だ。
首に回された腕と、つないだ手と、隣で揺れる日傘の影。
右も左も後ろも、ぎゅうぎゅうに囲まれている。
それなのに、不思議なくらい息が苦しくなかった。
心花は一花先輩の腕の中からするりと抜け出して、三桜先輩の手を握り直した。
「行きましょ、綾瀬先輩! 水着、ほんとに見るだけですからね!」
「はいはい、見るだけねー」
一花先輩の返事はまるで信用ならなかった。
二葉先輩は何も言わずに日傘を傾け、三桜先輩はくすくすと肩を揺らしている。
心花は三桜先輩の手を引いたまま、笑いながら駆け出した。
通りの先で、駅ビルのガラス扉が午後の日差しを白く跳ね返していた。




