第118話 夏イベント開幕、ルナが黙った夜
夜八時。
夕食と風呂を済ませて自室に戻った俺は、少しだけ急ぐように机のパソコンを立ち上げた。
昼間あれほど喧しかった蝉の大合唱はさすがに鳴りを潜め、開け放した網戸越しに、夜の虫の声が細く届いている。
けれど、部屋の中にはまだ夏の熱気がじんわりと居座っていた。
夕方まで綾瀬家の宿題会に付き合い、昼食までご馳走になった余韻が、胸の奥に心地よく残っている。
相変わらず騒がしい時間だった。
俺の夏休みの予定を分単位で管理しようとする二葉さんの、有無を言わせない真剣な眼差し。
工程表を指し示そうと身を乗り出すたび、腕に押し付けられていた、見た目からは想像もつかない柔らかさ。
ソファでだらけながら文句を言う一花さんの、薄手のカットソーから覗く危ういライン。
膝枕だのゲームだのと、俺をだらけさせる方向へ誘い込もうとする、からかい混じりの甘い声。
麦茶を運んできて派手に転びそうになった三桜さんの、小動物のように華奢な身体。
抱きとめた時に感じた、腕の中の頼りない軽さと、無防備な笑顔。
明日の午後は、その三姉妹が海へ行くための水着を買い出しに行くらしい。
二葉さんは俺を荷物持ちとして連行しようとしたが、水着は当日までのお楽しみだと言い張る一花さんの強権で、俺はあっさりと留守番に決まった。
おかげで少しだけほっとしたような、残念なような、複雑な気分だ。
だが、週末の海行き自体は、もう確定している。
あの騒がしさにすっかり馴染んでしまった身体は、静かな自室に戻ると、かえって物足りなさを覚えるらしい。
我ながら、ずいぶん飼い慣らされたものだと思う。
そんな現実の夏の予定も楽しみだが、今夜はゲームの世界でも、大きなイベントが幕を開ける。
『エデン・オンライン』の夏季限定イベント、『幻の海賊島』の開幕だ。
モニターが明るくなり、ログイン画面が表示される。
そこには、青い海と朽ちた海賊船のイラストが大きく掲げられていた。
はやる気持ちのまま、俺は重騎士【リオン】としてエデンの世界へログインした。
読み込みが明けて拠点街の広場に降り立つと、真っ先にフレンドリストを開く。
一番上の名前。
【ルナ】 オンライン。
緑色に点灯しているその文字を見るだけで、自然と口角が上がった。
あの二週間、ずっと灰色に沈んで動かなかった彼女の名前。
それが今はこうして、当たり前のように光を放っている。
『リオン、待ってたよっ! 夏イベント、ついに開幕だよーっ!』
ログインするなり、画面の端からチャットが飛んできた。
直後、銀色の髪を揺らして、白いローブの魔導神官が俺の目の前へと駆け寄ってくる。
その足取りの軽さから、ディスプレイの向こう側で満面の笑みを浮かべているのが手に取るようにわかる。
『待たせたな。ルナのほうがログイン早かったのか?』
『うんっ! 楽しみすぎて、夕ご飯急いで食べてきちゃった!』
『お前なぁ……ちゃんと噛んで食べろよ。まあ、俺も似たようなもんか』
『あはは、リオンも急いで食べてきた口だね!』
図星を突かれて、俺は思わず苦笑した。
『早く行こ、海賊島! 新しいマップ、すっごく楽しみ!』
『慌てるな。ポーションの補充はしたか?』
『ばっちりだよ! HP回復もMP回復も上限まで持った!』
『よし。じゃあ行くか』
誇らしげに胸を張るエモートを返すルナに、俺はパーティの招待を送った。
『去年の夏イベみたいに、またみんなでボス倒せるといいな』
『そうだね! 去年の海みたいなマップ、すっごく良かったじゃん。あの南国風のBGMとか』
『ああ、ボス戦の途中で急にテンポ上がるやつな。クロウがノリノリで突っ込んで壊滅しかけたのが懐かしい』
『そうそう! あの時ノエルが「次にやったら斥候の資格を剥奪する」って、すっごい冷たい声で言ってたよね。クロウ、しょんぼりしてたなぁ……』
画面の中でクスクスと笑うスタンプが跳ねる。
『あれで懲りないのがアイツのすごいところだけどな』
『あはは。でもアリアがね、あの時「せめてバフだけでも」って小さく打ってたの、リオンは気づいてた?』
『いや、気づいてなかった。戦闘中はログが流れるの速いからな。よく覚えてるな、ルナ』
彼女の記憶力の良さに、俺は素直に感心してキーボードを叩いた。
『えへへ。あの子の優しいところ、好きなんだ。目立たないけど、いつもちゃんと見てくれてるの』
『違いない。とりあえず、今日は二人で下見に行こうぜ』
『うんっ! 出発しんこーっ!』
イベント専用の転送陣を抜けると、そこはエメラルドグリーンの海に囲まれた南国の島だった。
夜のマップなのだろう、空には満天の星が輝き、白い砂浜が月光を反射して青白く光っている。
遠くの岩礁には巨大な海賊船が座礁しており、BGMも普段の厳かなものから、スティールパンが鳴り響く軽快なトロピカル調に変わっていた。
『わぁ……すっごい綺麗! 砂浜がキラキラしてるよ!』
『本当だな。運営もグラフィックにかなり気合いを入れてるみたいだ。波の音までリアルに聞こえる』
『あ、見て見て! ヤドカリのモンスターがいる! 可愛いっ!』
『可愛いとか言ってる場合か。こっちに気づいて向かってきてるぞ』
『えっ!? ほんとだ、目が赤く光ってる!』
慌てて杖を構えるルナを背にかばい、俺は素早く盾を前に突き出した。
三体の巨大なヤドカリが、鋏を振り上げながら迫ってくる。
『任せろ。ヘイトは俺が集める』
スキル【ウォークライ】を発動する。
赤いエフェクトと共に、モンスターたちの敵意が俺一人へと集中した。
硬い鋏が盾に叩きつけられ、鈍い衝撃音がヘッドホンに響く。
『えいっ!』
ルナの杖から放たれた光の魔法が、ヤドカリの硬い殻を的確に撃ち抜いていく。
俺のHPが少しでも減れば、間髪入れずに回復魔法が飛んできた。
攻守のトレードオフが激しい魔導神官という職業を、彼女は完璧に使いこなしている。
『リオン、右からも来てるよ!』
『わかってる。挑発入れるから、ルナは下がってろ』
『はーいっ! 後方支援はお任せ!』
ルナが素早く距離を取り、俺の背後から追撃の魔法を放つ。
見事な連携で、残りのモンスターも次々と光の粒子へと変わっていった。
『ふふっ、リオンの盾、今日もすごく安定してるね! これなら深部まで一気に行けそう!』
『あんまり調子に乗るなよ。ここはまだ入り口だ』
『大丈夫だよ! リオンが守ってくれるもん!』
その甘えるようなチャットを見つめながら、俺はふと違和感を覚えた。
さっきの戦闘で見せた、敵の攻撃パターンを完全に把握した無駄のない立ち回り。
そして、合流直後のチャットでもそうだった。
去年の夏イベントのBGM、しょげ返ったクロウの様子、ノエルの怒り方のパターン。
そして、アリアの地味な気遣いまで、彼女は完璧に記憶から引き出してみせた。
それなのに、時には初心者のように無防備な甘え方をしてきたり、さっきのように熟練のゲーマー顔負けの立ち回りをしたりする。
……一人にしては、広すぎる。
パーティメンバーの些細な言動を驚くほど鮮明に記憶しているかと思えば、こうして突然、戦闘の解像度が跳ね上がったりする。
『リオン、また増援来てるよ!』
『わかった、引きつける!』
砂浜の奥から湧いた新たなモンスターの群れに向けて、俺は再び盾を構えた。
頭の片隅で、例の観察エンジンがまた唸りを上げかけたが、俺は無理やり電源を落とした。
今はいい。
彼女がログインできなかったあの二週間。
灰色のオフライン表示を見つめるしかなかった日々の喪失感を思えば、こうして彼女と並んで笑い合えるだけで、十分すぎるほどだった。
純粋に楽しむ気持ちと、冷静な観察眼の同居。
それが、彼女が戻ってきてからの俺の、新しい平常になっていた。
◇
一時間ほど狩りを続け、俺たちは朽ちた海賊船の甲板で安全地帯を見つけて座り込んだ。
周囲には焚き火のオブジェクトが置かれ、パチパチと薪が爆ぜる環境音が流れている。
『ふぅ、けっこう強い敵もいたね。でも新しい素材、いっぱいドロップしたよ!』
『ああ。これを集めれば、限定武器と交換できるみたいだな』
『うんっ! あとね、水着アバターの交換所も見つけちゃった!』
画面の中で、ルナが両手を上げて喜ぶエモートを繰り返している。
『リオン、この前の約束、覚えてる?』
『約束?』
『水着アバターが実装されたら、リオンも着てみるって約束!』
『……善処する、と言っただけだ。重騎士が水着に盾なんて、不審者すぎるだろ』
『えー、絶対似合うと思うのになぁ。私も新しいの交換するから、お揃いにしよ?』
不満げなスタンプが飛んできて、俺は苦笑した。
『却下だ。そんな格好でクロウやノエルに会ったら、絶対いじられる』
『あはは、ノエルには呆れられそうだね。でも、二人だけの時ならいいでしょ?』
『……ルナは、どんな水着にするんだ?』
『えへへ、秘密! でも、リオンがびっくりするようなのにしようかなーって思ってるよ!』
自信満々な文字が踊る。
『あまり奇抜なのはやめとけよ』
『奇抜じゃないよ! ちょっとだけ、大人っぽいのに挑戦してみようかなって』
その言葉に、俺は思わず現実の三姉妹の水着姿を想像してしまい、慌てて頭を振った。
ゲームの話をしていたはずなのに、心臓に悪い。
『……考えとくよ』
打てば返ってくるやり取りが心地よくて、つい頬が緩む。
けれど、ディスプレイを見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
画面の中の海と、週末に行く海。
ふたつの夏が、俺の中でゆるやかに重なっていく。
明日の午後には、彼女たちが海のための新しい水着を選びに行く。
そして週末には、あの騒がしい三姉妹と一緒に、現実の砂浜を歩くことがもう決まっている。
『あのさ、ルナ』
キーボードの上に指を置き、俺は少しだけ躊躇ってから、文字を打ち込んだ。
『今度、海に行くんだ』
送信ボタンを押す。
以前、クラスの奴らと行く計画があると伝えていた、あの話の続報だった。
彼女には、ちゃんと言っておきたかった。
——もし決まったら、お土産話聞かせてね。
それが、俺とルナが交わした小さな約束だったから。
しかし。
いつもなら即座に返ってくるはずのチャットが、なぜかぴたりと止まった。
画面の中の銀髪の少女は、静かにこちらを見つめたまま動かない。
数秒。
沈黙というには長すぎる、不自然な空白。
俺は、返事までの空白を、ただじっと見つめていた。
やがて戻ってきたルナのチャットは、俺が送った一行には触れないまま、明日の狩り時間だけを短く決めて、いつものように『また明日ねっ!』で締めくくられていた。
結局、海の話への返事は、ないまま。
その夜のゲームは、そこで解散となった。




