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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第5章 夏休み!海と水着と、夏祭りの告白

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第117話 鉛筆の『海』と、空欄の時間

八月最初の週の平日、朝九時に綾瀬家へ呼び出された俺を待っていたのは、二葉さんが模造紙に書き上げた、俺の夏休みの工程表だった。

 起床は七時、課題は七本の矢印のとおり。

 空欄は俺が埋めるところだそうだ。

 壁に貼られたその表の下で、四人の勉強会は朝から続いていた。


 十一時を回ったころ、英語の長文から顔を上げると、壁の工程表が目に入った。

 窓の横に貼られた模造紙は、遠くから見ると、色とりどりの細かい字でほとんど隙間がない。


 その中を、縦に一本だけ、白い帯が走っていた。

 今週末の、二日ぶんの列。

 七本の矢印はどれもその手前で途切れ、二日を飛び越えた先から、また右へ続いている。

 ページの割り振りも赤い枠も、その二列にだけはひとつもない。


 引いているあいだは二の腕の上の重みにばかり気を取られていて、まるで気づかなかった。

 白い帯のまんなかに、黒ではない、薄い鉛筆の字が一文字だけあった。


 海。


「二葉さん。週末のところだけ、真っ白なんだけど」


 隣でシャープペンの音が止まった。


「……仮置きよ」


「海!? え、今週末? 決まったの!?」


 一花さんがローテーブルに勢いよく身を乗り出した。

 ゆるい襟ぐりが前へ垂れて、カットソーの奥の影がひと息ぶん深くなる。


「決まっていないから、鉛筆なの」


「一日崩したら戻すのに三日かかるって、朝言ってなかったか」


「海は崩すのとは違うわ」


 二葉さんは前を向いたまま、きっぱりと言った。


「出た。海だけ例外」


「例外ではないわ。……特例よ」


「二葉ちゃん、それ、ほとんど同じだよ」


 三桜さんは原稿用紙を放り出して、両手でスマホを掲げてみせた。


「天気予報、週末ずーっと晴れマークだったよ! さっき台所で見たの」


「台風もないわ。お盆の前のほうが、浜も電車も空いている」


「ずいぶん詳しいな」


「調べてはいないわ。目に入っただけよ」


「目に入っただけで、浜の混み具合までわかるのか」


「記憶力がいいのよ」


 二葉さんは涼しい顔でそう言ってから、少しだけ間を置いた。


「……あとは、みんなの都合を聞くだけよ」


 黒いペンで書けば決まってしまう。

 だから鉛筆なのだと、遅れて気づいた。

 終業式の帰り道、二葉さんは白紙のほうがあとから好きに書けると言っていた。

 その白紙に一文字だけそっと書きこんであったのだ。


「俺は空いてる。立花には今夜聞いとくよ」


「タチバナくん、絶対『行く』しか返ってこないよ。しかも感嘆符十個くらいつけて」


「心花ちゃんには私が聞く! 心花ちゃんも、ぜったい行くって言うよ」


「なら」


 二葉さんが立ち上がって、壁の前でペンのキャップを外した。

 鉛筆の一文字の上を、黒いインクがゆっくりなぞっていく。

 一画ずつ、確かめるみたいに。


「今週末。決まりね」


「返事、まだひとつも来てないけどな」


「来るわ」


 三桜さんが両手を挙げてばんざいをし、一花さんは「海だ海だ」と言いながらローテーブルをぺちぺち叩いた。

 二葉さんはインクが乾くのを待つみたいに、しばらく壁の前から動かなかった。


「じゃあ持ち物! 持ち物決めよ!」


 三桜さんがメモ帳を引き寄せて、さっそく丸っこい字を書きつけた。


「スイカ!」


「いきなり一番重いのを書くな」


「だって私、スイカ割り係なの。係がスイカ持ってなかったら、何も割れないよ」


「現地で買いなさい。丸ごと一玉を抱えて電車に乗るのは、ただの修行よ」


「誠くんなら運べるよね?」


「俺を修行させるな」


 一花さんは指を折りながら、自分の持ち物を数えはじめた。


「あたしは水着でしょ、サングラスでしょ、日焼け止めでしょ。それから誠」


「俺は持ち物じゃない」


「じゃあ付属品。あたし本体に、誠がついてくる感じ」


「余計に格が下がったぞ」


 二葉さんは何も言わずに、工程表の隅の余白へ小さな字で書き足していった。

 タオル、着替え、日焼け止め、水筒、絆創膏、濡れたものを入れる袋。

 スイカの文字はどこにもなかった。


「二葉ちゃん、スイカは!?」


「現地で買うと言ったでしょう」


「あ、そうだ。沖のブイまで競争の件、忘れてないからね、誠」


 一花さんがにやりと笑った。

 その斜め向かいで、三桜さんの鉛筆の芯がぱきりと折れた。

 ほんの一瞬だけ、三桜さんの視線がこちらをかすめる。

 俺は誰にも気づかれない程度に、小さくうなずいた。


 リュックの底に、浮き輪をひとつ。

 頭の中の持ち物リストに、誰にも見えない字で一行足しておいた。


 一花さんが、思い出したように指を一本立てた。


「それと、水着ね」


「プールのときのがあるだろ」


「は? プールで一回見せたのを、海でもう一回とかありえないっしょ」


「……一花の言い分にも一理あるわ」


「二葉ちゃんが一花お姉ちゃんに賛成した!」


「水着についてだけよ」


 一花さんがぱちんと指を鳴らして、話を前へ進めた。


「じゃ、明日の午後、三人で買いに行こ。駅前のとこ」


「マコトも来なさい。荷物持ちが要るわ」


「だーめ」


 一花さんが人差し指で、俺と二葉さんのあいだに見えない線を一本引いた。


「水着は当日までのお楽しみ。先に見せちゃったら、海で見せる意味なくなるじゃん」


「荷物はどうするの?」


「水着三着でしょ。紙袋三つ。軽い軽い」


「私も、誠くんには海で、いっせーので見てほしいな」


 三桜さんまでこくこくとうなずいた。

 二葉さんの視線が俺と一花さんのあいだを一往復する。


「……荷物持ちは、荷物を持つためにいるのよ」


「ほんとに? 二葉、誠に選んでほしかっただけなんじゃないの? どっちが似合う、とか言わせたくて」


 二葉さんの親指がまたペンのキャップを押しこんだ。


「……荷物の話をしているの」


「耳、赤いよ。ほら、こっち側も」


「冷房が強いのよ」


「二十七度なんだろ」


 俺が言うと、二葉さんはぴたりと黙った。

 黙ったまま、俺の脇腹をペンの尻で一回だけ突いた。


 浴衣のときに続いて、俺はまた当日までのお楽しみ枠らしい。

 明日の午後は留守番に決まった。


 十二時。

 工程表のとおりに、二葉さんが台所に立った。

 手伝うと言ってついていった俺は、コンロの前で鍋の中から目が離せなくなった。


 鍋には朝から水に浸けておいたという昆布が沈んでいる。

 火にかけて、煮立つ手前で昆布を引き上げる。

 そこへ削り節をひとつかみ。

 薄い花びらみたいな削り節が湯の上で広がって、ゆっくり色を変えながら、一枚、また一枚と底へ沈んでいった。


「全部沈むまで待つのか」


「待つの。急いで絞ると、えぐみが出るわ」


「家だと、つゆは瓶から注ぐだけだからな」


「マコト。手が空いているなら、ネギを」


「何ミリで切ればいい?」


「好きに切っていいわ」


 二葉さんは鍋から目を離さずに言った。


「……工程表の人が、それでいいのか」


「ネギは工程表に載っていないもの」


 並んで立つと、広いはずの台所が急に狭く感じた。

 包丁を動かすたびに、右の肘が二葉さんの腕にかすかに触れる。

 触れるたび、二葉さんのお玉の動きがほんの一拍だけ遅れた。


 その奥では三桜さんが薄焼き卵を細く細く刻んでいた。

 細すぎて、もはや糸というより髪の毛に近い。


「三桜、もう十分細いわ」


「まだ。素麺より細くしたいの」


「卵が麺に勝ってどうするんだ」


「勝ちたいの! 今日は錦糸卵係だから」


 一花さんはというと、カウンターの端に頬杖をついて、茹で上がった素麺をひと筋ずつつまんでいた。


「一花さんは何係なんだ?」


「味見係。いちばん大事な仕事だよ」


「さっきから三回は味見してるよな」


「念入りなの」


 ダイニングの大きなテーブルは六人掛けで、四人で座っても、椅子がまだ二つ余った。

 ガラスの大鉢に盛られた素麺が、氷の上で白く光っている。

 その白の中に薄桃色の麺が何本か混じっていた。


「あっ、ピンクの!」


「三本よ。茹でる前に数えたわ」


「なんで数えるんだ?」


「四人で分けるものは、数えるわ」


「ピンクのは当たりなんだよ。食べたら、いいことあるの」


「どんないいことだ?」


 三桜さんは箸を持ったまま、真剣に考えこんだ。


「……いいこと」


「具体性がないわ」


 三本のうちの一本を一花さんの箸がひょいとさらった。

 一本を三桜さんの箸が大事そうにすくった。

 最後の一本を二葉さんが静かにつまみ上げて、そのまま俺のつゆの器に落とした。


「お客さまの分よ」


「二葉、それ自分の分でしょ。あたし見てたからね」


「最初からマコトの分として数えていたの」


「……じゃあ、あたしのもあげる」


 一花さんが箸でつまみかけていた一本を俺の器へ移した。


「わ、私のも!」


 三桜さんも慌てて続く。

 俺のつゆの中で薄桃色の麺が三本になった。


「当たりが三倍だね、誠くん!」


「三倍のいいことって、何が起きるんだ?」


「……すごくいいこと!」


 ひと口すすって、箸が止まった。

 家で飲むつゆとはまるで別物だった。

 甘さは控えめなのに、飲みこんだあとから、昆布と鰹の香りが喉の奥まで追いかけてくる。


「……うまい。つゆって、家で作れるんだな」


「作れるわ。時間をかければ」


 二葉さんはそれだけ言って、自分の器に目を落とした。

 うつむいたこめかみのあたりが薄く色づいている。


 片づけを終えると、時計は十三時半を指していた。

 工程表のその段はまだ白い。


「はい、空欄の時間でーす」


 一花さんがソファの端に座り直して、自分の太ももをぽんと叩いた。


「二葉が言ったんだよ? トランプは空欄の時間にやれって」


「トランプとは言ったけれど、膝枕とは言っていないわ」


「空欄は誠が埋めるところ、とも言ったよね」


 二葉さんの口が何か言いかけた形のまま止まった。

 自分の言葉で自分の退路を塞いだ顔だった。


「……マコトが決めることよ」


 三人ぶんの視線が俺に集まった。

 素麺で満ちたお腹と、冷房のほどよい涼しさと、窓から差しこむ昼過ぎの光。

 正直に言えば、まぶたはもうかなり重かった。


「……三十分だけな」


 一花さんの太ももは、頭を乗せた最初の一瞬だけ冷房の冷たさを残していて、すぐに内側から体温がにじんできた。

 頬の下でたわむ感触の奥に、しなやかな張りがある。

 見上げると、一花さんが俺の顔を覗きこんでいた。

 ゆるい襟ぐりが重力に負けて垂れ下がり、天井の明かりをさえぎる。

 その隙間の奥で、カットソーに収まりきらない丸みが、一花さんの呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。


「どこ見てんの、誠」


「……天井」


「天井、あたしで見えないでしょ」


 くすくす笑う息が前髪をくすぐった。

 細い指が髪の中に差しこまれて、ゆっくりと梳いていく。

 頭の下も、目の前も、指の通り道も、全部一花さんだった。

 逃げ場がない。


「……あと二十六分」


 ローテーブルのほうから二葉さんの声が飛んできた。


「二葉、カウントダウンやめてよ。雰囲気台無しなんだけど」


「時刻を読み上げているだけよ」


「三桜もこっちおいで。誠の手、空いてるよ」


「えっ、いいの!?」


 三桜さんがソファの前の床にぺたんと座って、だらりと垂れていた俺の右手を両手で包んだ。

 カーディガンの袖に半分隠れた指先は冷房ですっかり冷えている。


「誠くんの手、あったかい……湯たんぽみたい」


「八月に湯たんぽ扱いされるとは思わなかった」


「冷房の部屋だと、八月でも湯たんぽは要るんだよ」


 頭は一花さんの膝の上、右手は三桜さんの両手の中。

 空いているのは、胸の上で置き場をなくした左手だけ。

 ローテーブルのほうでは、二葉さんが肘をついて、壁の時計をじっと見上げていた。

 背筋だけがやけにまっすぐだった。


「……あと十一分」


 読み上げる声を最後まで聞いた覚えはない。

 髪を梳く指と、手のひらの小さな冷たさのあいだで、意識がとろりと溶けていった。


「十四時よ」


 まぶたを開けるより先に、左腕がぐいと引かれた。

 二葉さんが俺の腕を両腕で抱えこむようにして、ソファから引き起こしている。

 抱えこまれた腕ごと引き寄せられて、肘から先がブラウスの胸もとへまるごと埋まった。

 寝起きの頭に布越しの弾力と重さだけがやけに鮮明に届く。


「ちょっと二葉、延長は?」


「工程表に延長の欄はないわ」


「誠くんの手、まだ返したくない……」


「数学は手を使うの」


「片手でも解けるよ!」


「消しゴムを使うでしょう。マコトは特に」


 起き抜けの一撃としては、なかなか効いた。


 十四時から十六時。

 数学の問題集を開くと、二葉さんは当然のように俺の左に座った。

 問題集を二人のあいだに置くせいで、肩と肩が自然にくっつく。

 崩した膝が俺の腿の横にぴたりと沿っていた。

 スカート越しなのに、そこだけ妙に体温が高い。


「そこ。符号」


「あ」


「三問前にも言ったわ」


「……聞いてたつもりだった」


「つもりは、答案には残らないのよ」


 二葉さんの向こう隣では、一花さんが観念して問題集に向かっていた。

 逃げ出さないように、二葉さんにぴったりと横を固められている。

 俺と一花さんのちょうどあいだ。

 そこが午後の二葉さんの定位置になった。


「ねえ二葉。あたしが六ページまで行ったら、今度は誠があたしに膝枕ね」


「俺の膝に勝手に値段をつけるな」


「六ページは安すぎるわ」


「反対するの、そこなのか」


「十ページよ」


「高っ!」


 原稿用紙の上から三桜さんががばっと顔を上げた。


「私は? 私は何ページで?」


「三桜は、書き出しが決まってから」


「それじゃ一生無理だよぉ……十三回目も、いま消したとこなのに」


「増えてんじゃん」


 問題集から目を上げないまま、一花さんが言った。


 それからの一花さんのシャープペンは、この日いちばんの速さで動いた。

 三ページ目、四ページ目。

 五ページ目に入ったところで一度だけ天井を仰いで、六ページ目の最後の問題で、ばったりとテーブルに突っ伏した。


「……むり。あと四ページとか、人間に出せる数字じゃない」


「二時間で四ページ。十日ぶんの倍ね」


「倍って言われると、ちょっとうれしいのがくやしい……」


 十六時。

 工程表の理系の段が終わったところで、俺は空になったグラスを四つ持って台所へ立った。

 冷蔵庫を開けて、二段目の奥から麦茶のポットを取り出す。

 四つのグラスに注いで、ポットを同じ場所に戻して、扉を閉める。

 閉めたところで手が止まった。


 ……俺、なんで二段目だって知ってるんだ。


 閉じた扉の表にはマグネットで一枚の紙が留めてあった。

 ゴミの日、風呂掃除、買い出し。

 定規で引いた枠の中に、三人の名前が週ごとに入れ替わりながら並んでいる。

 見間違えようのない几帳面な字だった。


 うちの冷蔵庫には、母さんの字のメモがいつも二、三枚は貼ってある。

 この家の扉にあるのはこの一枚だけだ。

 工程表をあんなにすらすら書ける理由が、少しだけわかった気がした。


 リビングに戻ると、三桜さんがグラスを受け取りながら目を丸くした。


「誠くん、麦茶の場所、もう覚えてるの?」


「二段目の奥だろ」


「私、教えてないよ?」


「俺も教わった覚えはないな」


「もう住んじゃえば? 部屋なら余ってるし」


「物置よ」


 二葉さんが問題集から顔も上げずに言った。


「段ボールどかしたら住めるよ? 私、お片づけ手伝う!」


「物置でいいなら、あたしの部屋の隣がちょうど」


「物置よ」


 同じ言葉を同じ温度で二回。

 ただ言いながら、ペンを持つ二葉さんの手はしばらく止まっていた。


「あっ!」


 三桜さんが原稿用紙の上で鉛筆を握りしめた。


「決まった! 書き出し、決まったよ!」


「何回目だ?」


「二十八回目!」


 三桜さんは誇らしげに原稿用紙を掲げた。

 一行目には丸っこい字で、「この本を読んで、私は泣きました」と書いてある。


「……それ、一回目に書いてたやつだよね」


 一花さんが、呆れたように消しゴムのかすの山を指さした。


「そうだよ。二十八回書いてみて、やっぱりこれがいちばんだってわかったの」


「二十七回ぶん遠回りしただけじゃないか」


「遠回りしたから、わかったんだもん」


 二葉さんがふっと短く息を吐いた。


「……無駄ではないわね。比べたものがあるほうが、選んだ理由がはっきりするもの」


「でしょ!? 二葉ちゃんならわかってくれると思った! じゃあ書き出し決まったから、私も何ページか決めて!」


「原稿用紙五枚よ」


「本文ぜんぶだよぉ……!」


 三桜さんは原稿用紙を胸に抱えて、ちらりと俺の膝を見た。


「……五枚書いたら、誠くんのお膝?」


「五枚書いたら、提出できるわ」


「お膝は!?」


「ないわ」


 十七時を過ぎても、窓の外は昼の名残みたいに明るかった。

 課題を鞄に戻しながら、俺は壁の工程表を見上げた。


「二葉さん。これ、持って帰っていいか」


 問題集を閉じかけていた二葉さんの手が止まった。


「……持って帰って、どうするの?」


「部屋に貼る。貼っとかないと、明日の朝にはもう七時を忘れてる」


「忘れないように、毎朝……」


 二葉さんはそこで口を閉じた。

 何を言いかけたのかは聞かないでおいた。


「……貼るの?」


「貼る。せっかく書いてもらったんだし」


 二葉さんはしばらく壁の模造紙と俺の顔を見比べていた。

 それからスマホを取り出して、工程表を一枚撮った。

 少し角度を変えて、もう一枚。

 自分の影が紙に落ちないよう、すっと身を引いて、息を止めるようにして画面を覗きこんでいる。


「写真、撮るのか」


「記録よ。原本を手放すんだもの」


「それ、待ち受けにする気でしょ」


「しないわ」


 一花さんの茶々に即答しながら、二葉さんの親指は、撮ったばかりの写真をしばらく画面から消さなかった。


 テープを一枚ずつ丁寧にはがして、模造紙を内側へ巻いていく。

 どこから出てきたのか、細いリボンで端を結んでから、二葉さんは紙の筒を俺の両手に載せた。


「折らないで。電車では立てて持つこと」


「わかった」


「それと」


 二葉さんは筒の端を指先でとんと叩いた。


「……七時よ」


「七時な」


 答えると、二葉さんは小さくうなずいた。

 うなずいたあとで、口もとがほんのわずかにほどける。

 朝、ペンのキャップを押しこんでいた親指は、もうどこにも力が入っていなかった。


 玄関で靴を履いていると、見送りに立った二葉さんの後ろから、三桜さんがぱたぱたと駆けてきた。


「誠くん、週末ね! 晴れるからね!」


「天気まで三桜さんが決めるのか」


「決めるの! 工程表に書いてあるんだから」


「書いてあるのは海よ。天気は書いていないわ」


「海って書いてあったら、晴れなんだよ。海は晴れてるものなの」


 一花さんは壁にもたれて、ひらひらと手を振った。


「じゃね、誠。明日の留守番、ちゃんと寂しがっといてよ」


「寂しがる予定まで入れるな」


「入れとかないと、誠すぐ忘れるし。空欄、あたしが埋めといたげる」


 エレベーターの扉が閉まると、急に耳のまわりが静かになった。

 さっきまで四方から飛んできていた声が、扉一枚でぷつりと途切れる。

 駅までの道は夕方の光で白っぽく、抱えた紙の筒は、見た目よりずっと軽かった。


 帰りの電車は空いていた。

 座席に座って、言いつけどおり筒を膝の上に立てる。

 揺れのたびにリボンの結び目が少しずつゆるんで、巻いた端がわずかにほどけた。

 隙間から黒いインクの一文字がのぞいている。


 海。


 あの帰り道ではまだ誰も日付を口にしなかった。

 それが今日、鉛筆からインクに変わって、俺の膝の上にある。


 週末は、海だ。


 浮き輪はたしか押し入れの奥にしまったはずだ。

 気づけばそんなことを考えていて、俺は窓に映った自分の顔に、ひとりで苦笑した。

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