第116話 夏休みの朝、綾瀬家の作戦本部
夏休みに入って十日もたつと、起きる時刻はきれいに後ろへずれていく。
初日は八時に目が覚めた。
三日目には九時になり、一週間を過ぎたあたりで、俺にとっての朝は十時半のことになった。
机の上の課題は、終業式の日に積んだ高さから少しも減っていない。
減るどころか上に漫画が二冊載って、地層が一段ぶん厚くなっていた。
その地層に最初のスコップが入ったのは、おとといの夜だ。
一花さんから『誠、宿題どんな感じー?』とメッセージが来て、俺は寝転んだまま『机の上で寝てる』と返した。
俺も一緒に寝てる、とまでは書かなかった。
その五分後に届いたのは、なぜか二葉さんからのメッセージだった。
『あさっての九時。うちへ来て。課題は全部持ってくること。昼食はこちらで用意するわ』
間を置かずにもう一通。
『寝坊しないこと』
ついでに言えば、終業式の帰り道であれだけ膨らんだ海の話も、そのあと誰ひとり日付を口にしないまま、ふわふわと宙に浮いていた。
夏休みというのは何もかもを先送りにできる季節らしい。
少なくとも俺はそう思いこんでいた。
そういうわけで、八月最初の週の平日。
八時五十九分にインターホンを鳴らした俺の前で、綾瀬家のドアはチャイムの余韻が消えるより早く開いた。
「おはよう。……一分早いわ」
「早いぶんには問題ないだろ」
「予定より早いのも、予定どおりではないのよ」
二葉さんは真顔で言って、それから俺の顔をじっと見た。
白いブラウスは第一ボタンまできっちり留められ、紺のロングスカートには皺ひとつない。
自分の家の玄関に立っているのに、そのまま校門をくぐれそうな格好だった。
「右の頬。枕の跡がついているわ」
慌てて頬をこすった。
二葉さんは何も言わずに背を向けて、廊下を歩きだす。
途中の姿見に映った俺の頬には、跡なんてどこにもなかった。
リビングは相変わらず広かった。
白い壁と磨かれた床、大きな窓の向こうには、まだ朝の青さが残る空。
家具はどれも上等そうなのに、生活の気配がどこにも染みついていない。
何度来ても、少しだけ声が響きすぎる部屋だった。
「あ、誠きた。おはよー……」
ソファの上から溶けかけた声が降ってきた。
一花さんがソファをひとりで占領して仰向けに寝そべり、片方の足首を肘掛けの上へ投げ出している。
部屋着らしい薄手のカットソーは襟ぐりがゆるく、寝返りのせいか片方の肩から半分ずり落ちていた。
下は太ももがほとんど出る丈のショートパンツだ。
「おはよう。……おとといのメッセージ、二葉さんに見せただろ」
「見せた。だって『机の上で寝てる』とか、面白すぎたんだもん。二葉、画面見たまま二秒くらい固まってたよ」
「固まっていないわ。それに、見せられなくても、いずれ聞き出していたもの」
「聞き出すな」
二葉さんは返事のかわりに、壁のエアコンのリモコンを手に取って温度を確かめた。
「二葉ぁ、やっぱ冷房下げよ? 二十七度とか、人間が暮らす数字じゃないって」
「人間のための数字よ。一度下げるごとに、電気代はおよそ一割増えるの」
「じゃあ五度下げて、五割増しでいいから」
「一割ずつ積み上がるのよ。五度なら六割増し」
「計算で涼しくなんないんだけど!」
台所のほうからぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。
「誠くん、いらっしゃい! 私はいまの温度でも、ちょっと寒いくらい」
三桜さんが薄いカーディガンの袖を指先まで引っぱりながら顔を出した。
袖口から覗いているのは爪の先だけだ。
同じ部屋の中に、真夏の人と、真冬の人と、そのあいだでリモコンの数字を守る人がいる。
「麦茶いれてくるね! 昨日の夜から仕込んでおいたの!」
三桜さんはそれだけ言うと、また小走りに台所へ戻っていった。
そして、ローテーブルの上。
そこに見慣れないものが陣取っていた。
模造紙だった。
それも二枚を横につないで、裏からテープで留めてある。
定規で引いたとしか思えない罫線が縦横に走り、いちばん上の段には日付が、左端の列には朝から夜までの時刻が並んでいた。
日付は今日から八月三十一日まで。
左上の余白には、見覚えのある几帳面な字で三文字が書かれている。
工程表。
「……これ、もしかして」
「あなたの夏休みよ」
二葉さんは当たり前のように言って、俺を模造紙の正面に座らせた。
自分はその右隣に膝を揃えて座る。
肩と肩のあいだに指一本入るかどうかの距離だった。
「中身は、いまから書くわ」
ペンのキャップが外される音がした。
「七時、起床」
二葉さんが俺の腕ごしに身を乗り出して、いちばん左の今日の欄に、定規で測ったような字を書きこんだ。
ブラウスに包まれた胸が俺の二の腕の上にそのまま乗ってくる。
襟元のボタンはひとつも外れていないのに、その真下だけが布越しにずっしりと重くて温かい。
二葉さんはそのままの姿勢で、今日の欄から八月の終わりへ向かって、まっすぐな矢印を一本引いた。
引き終えると、何事もなかったように元の位置へ戻る。
「七時半、朝食」
二本目。
また腕の上に重みが乗り、矢印が右へ走り、重みが離れていく。
「九時から十一時半までが、文系の科目」
三本目。
「十二時、昼食」
四本目。
矢印が一本増えるたびに、腕に残る温度が少しずつ抜けなくなっていく。
「十四時から十六時は、理系の科目」
五本目は長かった。
二葉さんは矢印を引きながら、途中で何度か手を止めて、日付をひとつずつ確かめていく。
そのぶん身を乗り出している時間が延びて、腕に預けられた重みが少しずつ前へ滑った。
張りつめたブラウスのボタンとボタンのあいだで、白い生地がかすかに引っぱられる。
二の腕の外側が柔らかいものの中へゆっくりと沈みこんでいった。
――これはまずい。
「十九時、夕食。就寝は二十三時半」
六本目と七本目が引かれた。
これで終わりかと思ったら、二葉さんは筆箱から色ペンをまとめて取り出した。
午前の段には、英語の長文の番号、古典の訳、日本史のプリント。
午後の段には、数学の問題集のページと、化学のワーク。
教科ごとに色を変えて、日替わりで。
読書感想文まで、『読む』日と『書く』日に分けて割り振ってある。
二十日あまりぶんのマスが、左から順に細かい字で埋まっていく。
左の端へ書きこむたびに、あの重みがまた二の腕の上に戻ってきた。
ところどころのマスを赤い枠で囲んで、『予備日』『確認テスト』。
二葉さんはそこでようやくペンを置いた。
「ねえ二葉。さっきから、毎回それ当たってるよね」
寝転んだままの一花さんが、片肘をついてこっちを眺めていた。
口の端だけがやけに楽しそうに持ち上がっている。
「左端に届かないのよ」
「立って向こう側から書けば届くでしょ。紙、テーブルの真ん中にあるんだから」
「……座ったまま書くほうが、字がぶれないの」
「へー。それで、矢印一本ごとに誠の腕の上を通過するんだ」
二葉さんは返事をしなかった。
かわりにペンのキャップを静かにはめ直す。
黒髪の陰で耳の縁だけが見る見るうちに色を変えていった。
出来上がった表を改めて眺めた。
七本の矢印が左から右へ、八月の終わりまで流れている。
勉強の段は、どのマスにも二葉さんの字がびっしり詰まっていた。
「……軍隊の訓練スケジュールか、これ」
「軍隊なら、起床は六時よ」
「七時は温情なのか」
「温情よ」
ただ、全部が埋まっているわけではなかった。
十三時の段。
数学のあとから夕食までの段。
夕食から就寝までは、まるごと。
「……空いてる段は、とことん空いてるんだな」
「空欄は、あなたが埋めるところよ」
「俺が勝手に埋めていいのか」
「私が埋めたら、あなたの夏休みじゃなくなるもの」
さらりと言ったわりに、二葉さんの指先はしばらく空欄の上をさまよって、結局どこにも降りなかった。
「理系が昼のあとなのは、何か理由があるのか?」
「食べたあとは眠くなるでしょう。読むだけの科目を置いたら、あなたは寝るわ。手を動かす科目なら、寝ている暇がないもの」
「なるほど」
「それに」
二葉さんは表から目を離さないまま、ほんの少しだけ声を落とした。
「期末の前に、あなたが言っていたわ。数学は昼過ぎのほうが、まだ頭に入るって」
「……俺、そんなこと言ったか?」
「言ったわ。四時間目のあと、購買の列で」
まるで覚えていなかった。
俺がいつ口にしたのかも思い出せない一言が、八月の終わりまで、十四時の段にきっちり並んでいる。
「……マコト」
返事をするより先に、続きが来た。
「多すぎたかしら」
声はさっきまでより半音低かった。
二葉さんはペンを握ったまま、親指でキャップをぐっと押しこんでいる。
見ているのは俺の顔ではなく、自分の引いた矢印のほうだった。
この顔は前にも一度見たことがある。
俺のためだけのノートを差し出して、重くないかと聞いてきたときの顔だ。
「多いかどうかで言うなら、七時起きがいちばん多い」
「七時は譲れないわ」
「七時半」
「七時よ。三十分の後ろ倒しは、一週間で三時間半の後ろ倒しになるの」
「利子みたいに言うなよ」
「利子よ。寝坊は放っておくと勝手に増えるもの。一日崩したら、戻すのに三日かかるわ」
八時が九時になり、九時が十時半になった十日間を思い出して、俺は思わず吹き出した。
身に覚えしかない。
「……わかった。七時な」
二葉さんの親指の下でペンのキャップがかちりと鳴った。
押しこんでいたキャップがようやく奥まではまった音だった。
「なら、工程表は壁に貼るわ。テーブルは四人で使うもの」
二葉さんは模造紙を慎重に持ち上げて、窓の横の白い壁にテープで留めた。
それからソファのほうを振り返る。
「一花。降りてきなさい」
「えー、あたしはパス。誠、こっちおいでよ。宿題とかいいから、膝枕したげる」
一花さんがソファの上で、自分の太ももをぽんぽんと叩いた。
ショートパンツの裾から伸びた脚が、窓からの光を受けて白く光っている。
「朝の九時に膝枕はおかしいだろ」
「じゃあトランプ。負けたほうが、勝ったほうの宿題を一ページやるの」
「俺が負けたら一花さんの宿題をやって、俺が勝ったら一花さんが俺のをやるのか」
「そ。公平っしょ」
「どっちに転んでも、一花さんは自分の宿題をやらないな」
一花さんが、あ、という口の形のまま固まった。
「トランプは、空欄の時間にやりなさい」
二葉さんが壁の工程表の白いところを、指先でとんと叩いた。
一花さんの目がその指先の下にすっと吸い寄せられる。
何かを覚えておくような目つきだった。
そこへ台所から、三桜さんがお盆を両手で捧げ持って戻ってきた。
水出しの麦茶を満たしたグラスが四つ、一歩ごとに氷を鳴らしている。
「お待たせ! ひと晩じっくり出したから、色がすっごく濃いの!」
二葉さんがちらりとお盆に目をやった。
「三桜、前を見て」
「見てるよ、ちゃんと前……わっ」
ソファの端からはみ出していた一花さんの足首に、三桜さんのスリッパが引っかかった。
お盆が傾く。
小さな体が前のめりにこちらへ倒れこんでくる。
考えるより先に腰が浮いていた。
片腕で三桜さんの肩を受け止め、反対の手でお盆の縁をつかむ。
グラスの中で麦茶が大きく波打って、ふちから二、三滴だけ跳ねた。
跳ねた先はローテーブルの上だった。
ついさっきまで、工程表が広げてあった場所だ。
「壁に移しておいて正解だったわ。……三桜、足は?」
「だ、だいじょうぶ……」
腕の中で三桜さんがもぞもぞと顔を上げた。
カーディガン越しでもわかるくらい、肩も背中も細い。
受け止めた勢いのまま胸に寄りかかってきた体は驚くほど軽くて、そのくせ触れているところはどこもかしこもふにゃりと柔らかかった。
冷房で冷えた袖口の向こうから、体温だけがじわりと伝わってくる。
「誠くん、ありがと……麦茶も、ぜんぶ助かったね」
「ぜんぶではないわ。三滴こぼれた」
「二葉ちゃん、数えてたの!?」
「見えたのよ」
三桜さんは俺の胸に頬をくっつけたまま、なかなか離れようとしなかった。
離れないまま、ソファのほうをじとっと見上げる。
「一花お姉ちゃんの足、そこにあった……」
「あたしの足は悪くないよ。そこにあっただけ」
「そこにあるのが悪いのよ」
二葉さんのひと言で、一花さんの足はしぶしぶソファの上へ引っこんだ。
ついでに二葉さんに手首をつかまれ、体ごと引っぱり下ろされて、一花さんはようやくローテーブルの一辺に収まった。
「三桜。足が無事なら、そろそろ離れなさい」
「……もうちょっとだけ」
「冷房で冷えた体を、他人の体温で温めないの」
「誠くんは他人じゃないもん」
「……三桜」
「はーい……」
低く名前を呼ばれて、三桜さんはようやく俺の胸から離れた。
「一花。進み具合は?」
「……二ページ」
一花さんがしぶしぶ数学の問題集を開いた。
最初の見開きだけが埋まっていて、その先は真っ白だ。
「十日で二ページなら、一日あたり〇・二ページね」
「小数点にすると、なんかがんばってる感じしない?」
「しない。むしろ余計に少なく見える」
「〇・二ページって、何行くらいなのかな?」
「三行ね」
三桜さんが自分の指を折って数え、それから気の毒そうに姉を見た。
「一日三行……一花お姉ちゃん、それ日記より短いよ」
「三行でも毎日やってたら偉くない?」
「毎日やっていたならね」
二葉さんは問題集を一花さんの手から抜き取って、二つのページを指でなぞった。
「字の傾きが二ページとも同じだわ。十日かけて書いた字じゃないわね」
「……なんでわかんの?」
「昨日の夜でしょう」
「おとといの夜……」
答えてから、一花さんは自分の口を押さえた。
かまをかけられて自分から白状する人を、初めて生で見た気がする。
「おとといって……俺に宿題どうって聞いてきた夜か?」
「そ。あたしだけ二ページじゃ寂しいから、仲間探してたの。誠がゼロでほっとしたのに」
「ほっとしたあとで、二葉さんに見せたのか」
「見せたら、こうなった」
一花さんは壁の工程表と、自分の問題集と、俺の顔を順番に見て、ローテーブルに突っ伏した。
「あたしの工程表なんか、もう二週間も部屋のドアに貼られっぱなしなのに」
「十日よ」
三桜さんは三桜さんで、さっきから原稿用紙を前に、鉛筆を握ったまま動かない。
脇には消しゴムのかすが小さな山を作っていた。
「三桜さん、それは?」
「読書感想文の書き出し。……いま十一回目」
「十一回も、何を書き直してるんだ?」
「一行目で、先生の心をつかみたいの。一行目がかわいくないと、二行目から読んでもらえないでしょ?」
「感想文に、かわいさって要る?」
突っ伏したままの一花さんが、腕の隙間から聞いた。
「要るよ! 先生だって人間だもん」
「先生の心より先に、まず本文を書きなさい」
「本文は、書き出しが決まったら勝手に出てくるの」
三桜さんはそう言って、また消しゴムをかけた。




