第115話 ふたつの海と、夏の約束
夏休み初日。
朝から容赦なく降りしきる蝉の声が、今日が特別な日であることを告げていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しは白く、エアコンの微かな駆動音が室内を適温に保っている。
机の上には、とりあえず広げてみたものの、全く手をつけていない夏休みの課題が積み重なっていた。
母親は買い物に出かけており、家の中は俺一人だけだ。
ベッドに身を投げ出したまま天井を見上げていると、昨日の帰り道の余韻がじんわりと胸の奥に戻ってくる。
一花さん、二葉さん、三桜さん、それに心花。
五人で歩いた駅前のアーケードは、いつのまにか海と夏祭りの話題で持ちきりになっていた。
「……海と夏祭り、か」
まだ行き先も日程も決まっていないのに、その言葉の響きだけが、俺の中で静かに熱を帯びてくすぶり続けている。
◇
昼下がり。
静かな自室で、俺は机の上のパソコンを立ち上げた。
ログイン画面には、大きく新しいバナーが掲示されている。
八月開催の夏季限定大型イベント『幻の海賊島』の告知だ。
南国の海と朽ちた海賊船のシルエットが、少しだけ気分を高揚させる。
いつものように『エデン・オンライン』のアイコンをクリックし、重騎士【リオン】としてログインする。
フレンドリストを開くと、緑色のオンライン表示がひとつ、光っていた。
【ルナ】。
『リオン、おはよっ! 夏休みだよ~!』
ログインした途端、画面の隅にチャットウィンドウがポップアップした。
白のローブを纏った銀髪の魔導神官が、ちょこんとお辞儀のエモートをしてくる。
『おはよう。相変わらず元気だな』
『だって! 夏休みは好きなだけ一緒にいられるんだよ? こんなに嬉しいことないっ』
『そうだな。でも、ちゃんと宿題もやれよ?』
『もう、リオンはお母さんみたい! そういうリオンは終わってるの?』
『……とりあえず、机の上に広げてはみた』
『あはは、全然やってないね!』
図星を突かれて、返す言葉が一瞬詰まった。
『うるさい。これからやる予定だ』
『じゃあ、宿題が終わるまでゲームはお預け?』
『いや……今日はとりあえずレベル上げを優先する』
『やったぁ! さすがリオン、わかってるっ』
嬉しそうな文字の向こう側に、満面の笑みが透けて見えるようだった。
ディスプレイに並ぶ文字と、その打鍵の呼吸だけで、俺たちは確かに繋がっている。
その事実が、たまらなく愛おしかった。
俺たちは連れ立って、フィールドへと足を向けた。
八月から始まる『幻の海賊島』に備えて、レベルを上げておきたいというルナの提案だった。
エメラルドグリーンの海面が広がる、沿岸地帯のフィールド。
隣を歩く銀髪のアバターを見つめながら、俺はふと、少し前の会話を思い出す。
あの地下水脈の話だ。
青白い発光苔が群生する狭い通路。
一年以上前、俺が隠しトラップに引っかかって悲鳴スタンプを三連打したという恥ずかしい記憶。
彼女は、それを知っていた。
けれど、あの時のルナの反応には、どこか違和感があった。
……一人にしては、広すぎる。
どれだけ観察の解像度を上げても、確信には至らない。
頭の片隅で、ルナ観察エンジンが低く駆動音を立てる。
『リオン、前! 敵、来てるよ!』
慌てたようなルナのチャットで、俺は我に返った。
前方の岩陰から、巨大な鋏を振り上げた甲殻の魔物が二体、飛び出してくる。
『悪い、ぼーっとしてた。挑発いれる』
瞬時にキーボードを叩き、スキル【ウォークライ】を発動する。
リオンが咆哮を上げ、敵のヘイトをこちらに集める。
その直後、ルナの杖から放たれた光の弾が、モンスターを的確に撃ち抜いた。
無駄のない連携。
何年も一緒に戦ってきたからこそできる、阿吽の呼吸だ。
『ふふっ、リオンがぼんやりしてるなんて珍しいね』
『ちょっと考え事してたんだ。すまん』
『ううん、大丈夫だよ。……もしかして現実のほうで、何か楽しい予定でもあるの?』
少しだけ、探るような言葉。
その打鍵の間合いに、ほんのわずかな熱を感じる。
『まあ、な。クラスの奴らと、海に行こうって話が出てる』
『海! いいなぁ。……リオンって海、好き?』
『嫌いじゃない。今年は行ければと思ってる』
『じゃあ、思いっきり楽しんでこないとね!』
『ああ。でもまだ友達が言い出しただけで、計画の段階だからな』
『もし決まったら、お土産話聞かせてね。約束だよ?』
画面の中で、ルナが小指を立てるエモートをしてみせる。
『わかった。ルナのほうは海に行かないのか?』
『私はリオンと行ければどこでもいいかな。あ、現実のほうじゃなくて、ゲームの海賊島の話ね』
『なんだ、紛らわしいな』
『でもでも、リオンが現実の海で泳いでるの想像するとなんだか面白い。重騎士が海で浮くのかな?』
『盾は置いていくよ。さすがに』
『えー、持っていかないの? 浮き輪代わりになりそうなのに』
半分くらい本気で言っていそうなのが、ルナらしかった。
『ならないだろ。鉄の塊だぞ』
『じゃあ私が浮き輪代わりになってあげる!』
『お前、水着の前に浮き輪アバターでも買うつもりか?』
『もうっ、そういう意味じゃないのに!』
『冗談だ』
ルナが笑いのスタンプを返してくる。
ゲームの中の海と、現実の海。
どちらも夏の風物詩だけれど、ここには現実の蒸し暑さとは無関係な、涼やかな静けさがあった。
『でもリオン、八月からの海賊島イベント、楽しみだねっ』
『ああ。今回は新しい限定武器がもらえるらしいし』
『水着アバターも実装されるみたいだよ。リオンの水着、楽しみにしてるね』
『だから、俺の重騎士が水着で盾持ってたら、さすがに絵面がおかしいだろ』
『えー、いいと思うけどなぁ。海パンにフルプレートの盾、斬新でカッコいいよ?』
その絵面を想像して、思わず眉間に皺が寄った。
『どこがだよ。ただの不審者扱いされるだけだろ』
『じゃあ、私がお揃いの海パン履いてあげる!』
『ルナは女の子のアバターだろ。せめて水着にしろよ』
『あはは、冗談だよー。でも、本当に実装されたら着てみようね?』
『……善処する』
テンポの良いやり取りに、思わず口角が上がる。
『去年の夏イベも、みんなでボス倒して楽しかったしな』
『うん! リオンが敵を抑えてるのに、クロウが先走ってノエルに怒られたの、覚えてる?』
『覚えてるよ。ルナがはしゃぎすぎてスタンプ連打してたのまで、しっかり覚えてる』
『あれは嬉しすぎたの! あの時のノエルの怒り方、怖かったよね』
『ノエルは怒鳴らないぶん、声が冷たくなるからな。あの時はアリアもオロオロしてたし』
あの夜の賑やかな画面が、昨日のことのように蘇ってくる。
『あはは、そうだったね! でも最後はノエルも笑ってくれたし、結果オーライだよ』
『ああ。今年もあんな風に、みんなでクリアできたらいいな』
『うんっ! ……ふふっ、今年も頑張ろうね、リオン』
文字の羅列から、パーティメンバーとの確かな絆が伝わってくる。
クロウの無鉄砲さ、アリアの丁寧なサポート、ノエルの冷静なツッコミ。
その中心でいつも笑っているルナ。
ゲームの中の日常が、俺にとってどれほど大切なものか。
それを再確認するたびに、胸の奥が温かくなる。
俺にとって、現実の五人で過ごす時間も、ゲームでルナと過ごす時間も、どちらもかけがえのないものになっていた。
◇
数時間の狩りを終え、俺たちはゲームの世界で別れを告げた。
パソコンをスリープにし、ベッドに身を投げる。
窓の外からは、相変わらず途切れない蝉の声が押し寄せてくる。
暗い天井を見上げていると、現実とゲーム、ふたつの世界がゆるやかに交差していくのを感じる。
一花さんが俺の腕を引いて笑って、二葉さんが澄まし顔のまま袖口を掴んで、三桜さんと心花が楽しそうにはしゃいでいた、あの帰り道。
その先にあるはずの、青い空と白い砂浜。
そして、画面の向こうで待っている、八月の南国の海。
ふたつの海が、俺の夏を鮮やかに彩ろうとしている。
ずっとこのまま変わらないと思っていた関係が、静かに熱を帯び始めている。
この夏、何かが動く予感がした。




