92話 足利学校その2
僧に案内され、俺達は足利学校の奥へと進んでいった。
廊下の先、開け放たれた部屋では、若い者達が書を読み、年嵩の男達が、何やら難しそうな話をしている。
「それにしてもここには色んな人がいるねぇ」
「ああ」
葵が小声で呟いた言葉に、俺は頷く。
「学ぶ場所に身分はあまり関係ないんだろうな」
「へぇ、でもそれっていいことじゃん」
葵は書を抱えた若者達を眺めながら、少しだけ笑っていた。
「まあ入学するのに銭は必要そうだがな」
「何だぁ、結局世の中銭ってことだね」
まあそれは未来も今も変わらない真理ってところだな。
そして歩き続けていると、やがて僧は一つの部屋の前で足を止めた。
「こちらに算術と文書に通じた者がおります。元は下野の小領主に仕えていた者ですが、主家が争いに巻き込まれ、今は仕える先を失っております」
「失職した者、ということですか」
「はい。ですが」
僧は穏やかに続けた。
「帳面の扱いと銭勘定にかけては、なかなかの者でございます」
俺は、思わず前のめりになった。
今、俺が最も欲しい人材の一人だからである。
町を作るにも、港を整えるにも、市場を開くにも、銭の出入りを正しく管理する者が必要になる。
これは是非とも迎え入れたい人材だ。
「会わせてください」
「承知いたしました」
僧が襖を開ける。
部屋の中には、一人の男が座っていた。
年は三十ほど。
痩せ型で目の前には、何枚もの紙と算木が並べられている。
男は俺達を見るなり、ゆっくりと顔を上げた。
「……どちら様ですかな?」
「小田家家臣、府中副城主、菅谷政貞と申します」
俺は頭を下げる。
「牛堀にて、新たな町を作ろうとしております。湊を整え、市を開き、商人や職人が安心して集まれる場所を作りたい。そのために、帳面と銭を任せられる者を探しております」
男は俺の言葉を聞きながら、算木を弄っていた手を止めた。
「……牛堀。霞ヶ浦の東にある、あの漁村ですかな」
「はい。今はまだ小さな町場ですが、いずれは常陸各地の物が集まり、そこから各地へ運ばれる湊にしたいと思っています」
男は少しだけ眉を上げた。
「随分と大きな話ですな」
「そうですな。ですが、それが私の使命でございますゆえ」
俺がそう答えると、男は目の前の帳面を閉じた。
「失礼ながら、菅谷殿は銭勘定をどのように考えておられる?」
「……というと?」
俺が問い返すと、彼は静かに言った。
「町を作ると言う者は多い。湊を整えると言う者も多い。だが、その多くは商人から銭を搾り取るための口実です」
男の声は、静かだった。
だがそこには長年、帳面と向き合ってきた者だけが持つ鋭さがあった。
「市を開けば市の銭を取る。船が着けば運上を取る。蔵を使えば蔵の銭を取る。そうして最初は人を集めると言いながら、町が少し栄えた途端に税を増やして潰してしまう。……それでは、誰も残りませぬ」
なるほど、尤もな言葉だ。
だからこそ、俺はこの人を雇いたい気持ちがより強くなった。
欲しい人材だ。
ただ帳面を付けられるだけではない。
町が栄えるために、何が必要かを考えられる。
彼はまさに、小田に必要な人材だ。
「その通りです」
俺は真っ直ぐに答えた。
「牛堀では、最初から民や商人を苦しめるような取り立てはしません。市の銭も、船の運上も、最初に決めた取り決めを、勝手に増やさない」
俺はさらに続ける。
「帳面も出来る限り明らかにする。何に銭を使い、何を整えるのか、町の者達にも分かるようにしたい。公正であることを、私は目指したい」
男の目が僅かに細くなった。
「……綺麗事ですな」
「確かにそうですな。ですが———」
俺は男から目を離さずに、言った。
「綺麗事を現実にする。それが俺の使命だと思っています」
彼の言葉に、俺は真っ直ぐにそう言い放った。
彼はすぐには何も言わなかった。
しかしやがて男は、小さく息を吐いた。
「……面白い。綺麗事を口にする領主は多い。だがそれを現実にするとまで言い切る者は、そう多くありませぬ」
男は算木を一つ手に取り、指先でゆっくりと転がした。
「ではもう一つ、お尋ねしたい」
「何でしょう?」
「菅谷殿の近しい家臣か、あるいは菅谷殿の親族が帳面に載らぬ銭を使わせろと命じたなら、どうなさる?」
その場の空気が少しだけ張り詰めた。
由兵衛がちらりと俺を見る。
勘助殿は面白そうに目を細めていた。
試されている。
そう感じた。
だが、答えは最初から決まっている。
「断ってください」
俺は即答した。
「俺の家臣でも、親族でも、帳面にない銭は使わせない。必要な銭なら何に使うのかを話し納得させ、帳面に載せればいい。それが出来ぬなら、俺が止めます」
男の目が僅かに揺れた。
「菅谷殿自身が帳面にない銭を使えと言ったなら?」
「その時も同じです」
俺は真っ直ぐに答える。
「俺が間違っているなら、止めてください。城主であろうと、自分の銭ではなく城の銭を使うのなら、公平であるべきだ」
「……なるほど」
男はしばらく黙っていた。
そして初めて、はっきりと笑った。
「その言葉、忘れぬでくだされよ」
「ええ、約束します」
男は、座っていた場所から立ち上がる。
痩せた身体。
だがその目には、長く行き場を失っていた者とは思えぬ強い意志が宿っていた。
「私は蔵田宗兵衛。かつては下野の小領主に仕え、勘定と年貢、兵糧の出納を任されておりました。主家を失ってからは、この足利で書と算術を学び直していたのです」
宗兵衛殿は深く頭を下げた。
「牛堀という町。そして菅谷殿の言う未来、この目で見届けとうございます。菅谷家へ仕えさせてくだされ」
「……本当ですか!」
思わず俺は声を上げてしまった。
「はい。ただし」
宗兵衛殿は、静かに続ける。
「不正を見つければ止めます。相手がどれほどの重臣であろうと、菅谷殿ご自身であろうとです」
手厳しい。
だが、構わない。
「構いませぬ。むしろ、そういう人材に来て欲しかったのです。牛堀の銭と帳面を、任せます。俺達の町を、一緒に作ってください」
「ははっ!」
宗兵衛殿は深く頭を下げた。
「この蔵田宗兵衛、菅谷殿の期待に背かぬよう必ずや働いてみせましょう!」
こうして足利学校へ来て最初の人材を.俺達は得ることが出来た。
「いやぁ」
由兵衛が頭を掻く。
「銭の話ってのは難しいな。俺にはさっぱり分からねえ」
「由兵衛殿」
宗兵衛殿は、穏やかに笑った。
「銭の流れを知らぬ者はいつか銭に足をすくわれます。だからこそ、少しは学んでおくべきですな」
「うげぇ……」
由兵衛が露骨に嫌そうな顔をした。
その様子に、葵がくすくすと笑う。
「由兵衛も勉強するんだね」
「しねえよ! 絶対にしねえ!」
「いや、お前一応元武士だったろ? 少しは勉強しなさいよ」
「俺は戦闘専門なんだよ!」
「まあまあ」
まったくわ由兵衛らしいっちゃらしいがな。
俺は笑いながら、僧へ向き直った。
「ありがとうございます。これほど早く、良い人材と出会えるとは思いませんでした」
「菅谷殿のお考えが、彼の心を動かしたのでしょう」
僧は穏やかに頷いた。
「さて、次は土木と治水に通じた者へ会われますか?」
「それとも」
僧は僅かに意味深な表情を浮かべた。
「先ほど申した。故郷を失い、再び立ち上がる時を待つ者へ会われますかな?」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の胸が僅かに騒いだ。
故郷を失った者。
再び立ち上がる時を待つ者。
その人物が誰なのか。
まだ名を聞いたわけでもないのに俺には、何となく分かっている気がした。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ブックマークや評価をしていただけると励みになります!!




