番外編 わさびを食べよう!
1542年、府中城下。
府中の市は少しずつ賑わいを取り戻し始めていた。
米や野菜、薪、炭、布、農具が並び、商人の声と百姓達の笑い声が混じっている。
だが、府中を本当に豊かにするには米だけでは足りない。
山の物、川の物、湖の物を集め、売れる形にしていく必要がある。
そんなことを考えながら、俺は氏治様、葵、勘助殿と共に市を歩いていた。
「政貞、今日は人が多いのう」
「市の日ですからね。山の村からも品が来ています」
「山の者か。薪や炭、茸、山菜などか?」
「はい。山の村にとっては大事な収入です」
氏治様は興味深そうに市を見回した。
この人は書状の前では眠そうだが、民の中に入ると目が生き生きとする。
「政貞、あれ何?」
葵が指差した先に、小さな筵を広げた老人がいた。
そこには、緑の葉を付けた細い根のようなものが並んでいる。
俺は思わず足を止めた。
「……山葵か?」
「わさび?」
「食べられます。ただし、かなり辛いですよ」
「辛いのか!」
氏治様の目が輝いた。嫌な予感がする。
老人によれば、沢の近くで採れ、村では辛菜と呼ばれているらしい。
魚の臭み消しに使う者もいるが、あまり好まれず、値も安いという。
だが、これは使える。
魚や肉の臭みを抑えられる。味噌と合わせてもいい。
薬味にもなるし、何より珍しさがある。
府中の名物として育てられるかもしれない。
「政貞、また商いの顔してる」
葵が呆れたように笑った。
近くの茶屋で、俺達は山葵を試すことにした。
根を少しすり潰すと、鮮やかな緑と、鼻に抜ける独特の香りが広がる。
「ほんの少しで効きます。小太郎様、本当に少しですよ」
「分かっておる!」
氏治様は元気よく頷き、焼いた川魚の上に山葵をこんもり乗せた。
「多いです」
「このくらいあった方が味が分かるのではないか?」
「後悔しますよ」
「山の草ごときに小田の若君が負けると思うか?」
それは草ではなく山葵です。そして敵は容赦ないです。
止める間もなく、氏治様は魚を口へ運んだ。
次の瞬間、動きが止まった。目が見開かれ、顔が赤くなり、涙が浮かぶ。
「こ、これは……鼻が城から飛び出したかと思ったぞ……!」
「飛び出してはいません」
「目の奥に槍が来た! 辛い! だが魚が美味い! どういうことじゃ!?」
忙しい人だ。
葵も挑戦し、やはり乗せすぎて涙目になった。
「……これは感動」
「何に?」
「山の恵みに」
「辛いなら辛いって言いなさいな」
それでも葵はもう一口食べる。
「でも美味しい。魚の臭みが消えるし、口の中がすっきりする」
勘助殿も少量を口にし、静かに頷いた。
「兵糧には向きませぬが、魚や肉、客をもてなす席にはよいでしょう。ただし、採り尽くせば終わりですな」
「ええ。だから生えている場所を見たいと思います」
山葵は綺麗な水と日陰を好む。沢で育てられるなら、山村の収入になる。
「山へ行くならワシも行くぞ。この鼻を攻める山葵、面白い!」
「覚え方がおかしいですが、明日行きましょう」
翌日、老人の案内で山の沢へ向かった。同行は俺、氏治様、葵、勘助殿、護衛の霧丸とちよだ。
清らかな水が岩の間を流れ、木陰が水面に揺れている。その沢沿いに、山葵がいくつも生えていた。
「思ったより地味じゃな」
「食べると派手ですけどね」
氏治様は昨日を思い出したのか、鼻を押さえた。
水は澄み、冷たい。日陰も多い。石を組み、水の流れを整えれば増やせるかもしれない。
だが水が濁れば傷む。
日が当たりすぎても弱る。
山葵を育てるには、沢そのものを守る必要があった。
「上流に炭焼き場や畑は?」
老人が答える。
「少し上に炭焼き小屋がございます」
「灰や土が流れ込まないようにしたい。沢を守れば山葵も育ち、下流の村も助かります」
「なるほど。山葵を育てることが、水場の管理にも繋がるわけですな」
勘助殿が頷いた。
その時、霧丸が短く声を発した。
「政貞」
沢の上で二人の男が山葵を荒く掘っていた。根を残さず、周囲の株まで抜いている。
老人の顔色が変わった。隣村の者らしい。山の境は曖昧で、価値が出れば争いになるのは目に見えていた。
俺は男達を責めず、採り方を決めることにした。
「この沢の山葵は近くの村々で共同で守りましょう。根こそぎ採るのは禁止。小さい株は残す。増やす場所も決める。売る時は府中の市を通し、値を揃える」
「争わずに、皆で守って、皆で売るということじゃな」
氏治様が目を輝かせる。
「よいではないか! 山の民が争わずに済み、銭も得られる。小田として助けるべきじゃ!」
老人達は深く頭を下げた。
「ただし、ワシにも少し分けてくれ。昨日の魚が美味かったからのう」
やはり食べたいだけではないか。
だが、それでいい。美味いと思うから、人は広めたいと思うのだ。
夕方、城の台所で山葵を試した。
焼き魚に添え、刻んだ茎を味噌に混ぜ、葉を湯に通して塩で和える。どれも改良の余地はあるが、十分面白い味だった。
「山葵味噌、美味しいね。飯に合いそう」
葵が目を輝かせる。
「辛いけど美味しい!」
ちよは涙目になりながら笑い、霧丸は無表情で食べた。
「辛くないの?」
「辛い」
「顔に出てないよ!」
「出す必要がない」
数日後、府中の市に小さな山葵売り場ができた。
最初は珍しがる者ばかりだったが、焼き魚に少し添えて試食させると、皆が顔を赤くしながらも興味を示した。
「辛い! だが魚が美味い!」
「鼻に来るぞ!」
「少しでよい、少しで!」
商人達も目を付け始めた。
すぐ大きな商いになるわけではない。量も少なく、扱いも難しい。だが、山の村にとっては新しい収入の種になり、府中にとっては新しい名物の種になる。
それだけで十分だった。
「政貞。草一本でも人を動かすのじゃな」
「山葵です。ですが、その通りです。採る者、運ぶ者、売る者、食べる者が生まれます」
「その流れを大きくするのが、政か」
「はい」
氏治様は静かに頷いた。
「ワシは、こういう政なら好きじゃ」
「机の上の書状よりですか?」
「うむ!」
即答だった。
その後、山葵は少しずつ府中の市に並ぶようになった。
採る量を決め、沢を守り、小さい株は残す。
村同士で揉めぬよう大掾家の役人にも話を通し、売り場も整えた。
勘助殿は沢の管理を山道と水場の見回りに繋げ、葵は山葵味噌を気に入り、ちよは「鼻が目覚める味」と言った。
霧丸は何も言わず食べるが、焼き魚の量が少し増えたので気に入っているのだろう。
そして氏治様は今日も山葵を前に勝ち誇っていた。
「政貞! 今日は山葵を少しだけにしたぞ!」
「それは良いことです」
「昨日は鼻が痛くならなかった!」
「成長しましたね」
「うむ! ワシは山葵に勝ったのじゃ!」
「ほう、じゃあ今度は大軍と戦ってみますか?」
「そ、それは勘弁じゃ……」
府中の市に山葵の香りが漂う。誰かが辛さに涙を浮かべ、誰かが笑う。
戦で勝つことだけが、国を強くする道ではない。
山の沢に生える小さな山葵を見つけ、守り、育て、売る。それだけでも、民の暮らしは少し変わる。
市には人が集まり、村には銭が入り、山を守る理由が生まれる。
この辛みも、いつか常陸の豊かさの一つになるかもしれない。
俺はそう思いながら、涙目で山葵を食べる氏治様達を眺めていた。
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