番外編 石鹸を作ろう!
これは、1542年。
俺が府中にいた時の話である。
「政貞! 今帰ったぞ!」
「おや、小太郎様。今日は泥まみれじゃなく、ずぶ濡れですね」
政務が終わり、城を出ようとしていたその時、ずぶ濡れになった氏治様が姿を現した。
「うむ、先ほど港の方に行っておってな。そこで民達の手伝いをしておったのじゃ」
「またですか」
「またとは何じゃ、またとは」
氏治様は胸を張った。
いや、胸を張っているが、髪から水が滴っている。
袖も濡れ、袴には魚の鱗らしきものまで付いていた。
「今日は何をされたのですか」
「魚の荷上げじゃ!」
満面の笑みで言う。
「朝に大きな舟が戻ってきてな。魚が多くて、人手が足りぬと言うから、ワシも手伝ったのじゃ」
「それで、その姿に」
「うむ!」
氏治様は楽しそうに笑う。
「魚は重いな! それに、滑る! ぬめる! 臭い!」
「楽しそうに言うことじゃないですよ」
「だが、民達は毎日あれをしておるのだぞ」
氏治様は、そこで少しだけ真面目な顔になった。
「それでな、政貞」
「はい」
「漁師達が困っておったのじゃ」
「困っていた?」
「うむ。魚のぬめりと油が、手や桶や板からなかなか落ちぬらしい」
氏治様は、自分の手を見せた。
何度か洗ったのだろう。
それでも、指の間に魚の匂いが残っているらしい。
「灰を使って擦ったり、砂で洗ったり、湯で流したりしておったが、それでもなかなか落ちぬ」
「なるほど」
「それに、ぬめった手で包丁を使えば危ない。桶も臭いが残れば、次の魚が傷みやすくなると言っておった」
それを聞いて俺は流石だと思った。
氏治様は、ただ遊びに行っていたわけではない。
実際に民の仕事へ混ざり、そこで困っていることを、自分の目で見てきたのだ。
「そこでじゃ」
氏治様は、ぐっと身を乗り出した。
「政貞なら、何か良い物を知っておるのではないかと思ってな!」
「俺ですか」
「うむ!」
「魚のぬめりや油を落とす物……」
俺は少し考えた。
この時代でも灰汁や米ぬか、砂、湯などで汚れを落とすことはできる。
だが、油汚れとなるとやはり限界がある。
魚を扱う港なら、衛生のためにも洗浄力のある物は欲しい。
「あります」
「おお!」
氏治様の顔が、ぱっと明るくなった。
「やはりあるのか!」
「石鹸、という物です」
「せっけん?」
氏治様が首を傾げる。
「石の剣か?」
「違います」
「では、石で作った剣ではないのか」
「違いますって」
「では何じゃ」
「油汚れを落としやすくする物です」
「おお!」
氏治様は手を叩いた。
「まさにそれじゃ! 漁師達に必要なのは、それじゃ!」
あまりにも反応が早い。
嫌な予感がする。
「政貞」
「はい」
「作り方を教えてくれ」
「……今すぐですか」
「今すぐじゃ!」
氏治様は、濡れた袖を振りながら言った。
「漁師達は今日も困っておった。なら、明日には少しでも試せるようにしたい」
「氏治様」
「何じゃ」
「石鹸作りは危ない作業もあります」
「危ない?」
「灰汁を使います。濃いものは肌を傷めます」
「ふむ」
氏治様は真剣に頷いた。
「なら、子供には触らせぬ。大人でも素手では触らぬ。政貞が危ないと言うなら、決まりを作ればよい」
「……」
「政貞?」
「いえ」
俺は少し笑った。
「小太郎様も、随分と考えるようになりましたね」
「当然じゃ!」
氏治様は胸を張る。
「ワシは小田家の跡取りじゃぞ!」
「その割には、ずぶ濡れですがねぇ」
「それは今は関係ない!」
石鹸作りに必要なのは。
灰汁。
油。
火。
水。
混ぜるための桶や鍋。
そして、乾かすための型。
もちろん、現代のような精製された薬品などない。
だから作れるのは、かなり粗い石鹸になる。
匂いも強いだろう。
泡立ちも安定しない。
それでも、魚の油とぬめりを落とす助けにはなるはずだ。
「まずは試しに少量作ります」
俺は説明した。
「港用です。顔や身体を洗うためではなく、魚を扱った後の手、桶、板を洗うための物です」
「なるほど」
氏治様は、真剣な顔で頷く。
「食べてはいかぬのだな」
「当たり前です」
「いや、民の中には知らずに口へ入れる者がいるかもしれぬ」
「……それは確かに」
そこに気付くのは偉い。
やはり氏治様は、民と近い目線で物を考える。
軍事は壊滅的だが、こういう部分は本当に優れている。
「では、使い方も一緒に広めましょう」
「うむ!」
「灰汁は危ないので、扱う者を決める。子供は近づけない。作る場所は港の外れ。井戸や水路の近くで、何かあればすぐ水で流せる場所」
「分かった!」
氏治様は、もう走り出しそうな顔をしている。
「では、人を集めてくる!」
「待ってください」
「何じゃ」
「小規模な試作ですから、人手は少しでいいです」
「そうか。では少しだけ集める!」
そう言って、氏治様は駆け出した。
その背中を見送りながら。
俺は、嫌な予感が確信に変わるのを感じていた。
翌朝。
港の外れに設けた作業場へ行くと。
俺は思わず足を止めた。
「……多くないか?」
そこには。
漁師達。
桶職人。
陶工。
木工職人。
町の女達。
年寄り達。
さらに、菅谷隊の面々まで集まっていた。
「政貞!」
氏治様が、満面の笑みで手を振っている。
「人手を集めたぞ!」
「いや集めすぎですよ!?」
「そうか?」
「そうですって!」
「でも、皆が手伝いたいと言ったのじゃ」
氏治様は、少し照れたように笑う。
「漁師達がな、ワシが魚を落として転んだ話をしたら、皆笑っておった」
「何をしているんですか」
「その後で、魚のぬめりを落とす物を作ると言ったら、皆が来たのじゃ」
氏治様が胸を張る。
「民が困っているなら、皆で作ればよい!」
そこへ、葵がやってきた。
「小太郎様って、ほんと人を集めるの上手いですよね」
「そうか?」
「はい。どこかの誰かさんが言ったら、皆もっと真面目に構えちゃうけど、小太郎様が言うと祭りみたいになりますもの」
「おい、俺の方を見て言うんじゃない」
「祭りではないぞ!」
「でも楽しそうですよ?」
「楽しい方が、皆よく働く!」
「それはそうですね、ふふっ」
葵は笑った。
すると、由兵衛が大きな桶を担いで歩いてきた。
「大将、これはどこへ置けばいい?」
「由兵衛まで来たのか」
「小太郎様が、港の衆を助けるって言うからな」
由兵衛は、にやりと笑う。
「魚臭ぇのを落とせるなら、兵にも役立つだろ。戦の後なんざ、血と油で手がひどいことになるしな」
「ははっ、確かにな」
「で、何をすればいい?」
「まずは桶をあそこへ。灰汁を扱う場所とは離してくれ」
「分かった」
由兵衛が桶を運ぶ。
その横を、ちよが勢いよく走り抜けた。
「政貞様! 灰、持ってきたよ!」
「走るな!」
霧丸の低い声が飛ぶ。
「灰をこぼす」
「こぼしてないもん!」
「さっき少し舞った」
「あれは風!」
「風のせいにするな」
ちよは頬を膨らませながらも、きちんと灰を置いた。
霧丸は周囲を見回し、作業場の出入口、水場、火の位置を確認している。
「霧丸」
「何だ、政貞」
「助かる。危ない作業だから、人の出入りを見てほしい」
「分かった」
「子供は灰汁に近づけないでくれ」
「任せろ」
霧丸は短く頷いた。
口数は少ない。
だが、こういう時は本当に頼りになる。
「それで、政貞」
氏治様が、わくわくした顔で俺を見た。
「石鹸とは、どう作るのじゃ?」
「簡単に言えば、灰から取った強い汁と、油を合わせて作ります」
「灰と油?」
「はい」
「そんな物で、ぬめりが落ちるのか?」
「落ちます」
俺は、桶に入れられた魚油を指した。
「魚の油でも作れますが、匂いが強いです。今回は魚を扱う港用なので構いません。ただ、もし町で使う品にするなら、植物油や獣脂も試した方がいいですね」
「なるほど」
氏治様は真剣に聞いている。
勉学もこれぐらい真面目に取り組んでくれればいいんだけどなぁ。
「灰汁は危ない。油と合わせる時も、熱を使う。だから手順は、決められた者だけが行います」
「うむ」
「小太郎様も、むやみに手を出さないでください」
「ワシが主導するのだぞ?」
「だからこそです」
俺は言った。
「上に立つ者が危ないことを適当にすれば、下の者も真似します」
「……なるほど」
氏治様は、素直に頷いた。
「では、ワシは何をすればよい」
「皆へ説明してください」
「説明?」
「何のために作るのか、どう使うのか、何が危ないのか、それを、小太郎様の言葉で話してください」
氏治様は、一瞬だけ驚いた顔をした。
だが、すぐに大きく頷く。
「分かった!」
そして氏治様は、集まった者達の前へ立った。
「皆、聞いてくれ!」
ざわついていた作業場が、静かになる。
「今日作る石鹸という物は、魚のぬめりや油を落とすための物じゃ! 昨日、ワシも港で手伝った!」
漁師達から笑い声が上がる。
「そうじゃ、笑うがよい! ワシは魚を持って滑って転んだ!」
さらに笑いが広がる。
氏治様も笑っている。
だが、すぐに真面目な顔になった。
「だが、あれを毎日しておる者達がいる。魚を運び、桶を洗い、板を洗い、手のぬめりと臭いに困っておる者達がいる。なら、少しでも楽にしたい。そのために、今日は皆の力を借りたいのじゃ」
氏治様は、まっすぐに民達を見た。
「ただし、危ない作業もある。灰から取る汁は、肌を傷めることがあるそうじゃ。だから、決められた者以外は触ってはならぬ。子供は近づかぬ。使う時も、口へ入れてはならぬ。魚や桶を洗うための物じゃ。分かったな!」
「おお!」
漁師達が声を上げた。
女達も。
職人達も。
菅谷隊の者達も。
皆、氏治様を見て頷いていた。
俺は、その姿を見ながら思う。
氏治様は、軍を指揮すればきっと大変なことになる。
陣形も崩すだろうし、勢いで突っ込むだろうし、こちらの胃が痛くなる未来しか見えない。
だが、人を動かす力はある。
しかも、命令ではなく、一緒にやろうと笑って巻き込む力だ。
これは小田家にとって、きっと大きな財産になる。
作業は、まず灰汁を取ることから始まった。
これは俺と勘助殿、霧丸、それから慎重な職人達が見る。
ちよは遠ざけた。
「何で私だけ遠いのー!」
「危ないからだ」
霧丸が即答する。
「私、強いよ!」
「強いことと、落ち着いていることは別だ」
「ひどい!」
すると葵が笑いながら、ちよの肩を叩いた。
「ちよちゃんは、こっち手伝おうよ」
「何するの?」
「石鹸を固める型を並べるの」
「それならできる!」
「うん。走らずにね」
「……できる!」
「あははっ。今、少し迷ったねぇ」
葵とちよが、木枠を並べ始める。
一方で、慶幹は木工職人と共に、型の強度を確かめていた。
「これは継ぎ目が甘い、固まる前に漏れる。こちらは良い。だが、底板を外せるようにした方が取り出しやすい」
言うことは厳しいが、指摘は的確だ。
職人達は汗を流しながら頷いている。
俺が声をかけると、慶幹殿は振り返った。
「初めてやることなのに、的確ですな」
「政貞殿、民の使うものである以上、的確でなくてはなりません」
久幹殿は静かに答えた。
「民が使う物なら、最初に形を整える必要があります」
「石鹸が上手くいけば、港だけではなく、城下でも使われるでしょう。その時に、粗い仕事を広げれば、府中の、ひいては大掾家の名が落ちる」
慶幹殿は、ほんの僅かに笑った。
「俺は、いずれ菅谷殿を越えねばなりませんから」
その笑顔を見て、この人も変わったのだと、俺はそう思うのだった。
灰汁と油を合わせる作業が始まると、作業場の空気は一気に真剣になった。
強い灰汁は、扱いを間違えれば危ない。
俺は何度も注意を伝え、勘助殿が手順を確認し、霧丸が不用意に近づく者を止める。
「そこから先は近づくな」
「え、見たい!」
「駄目だ」
「でも」
「駄目だ」
霧丸に止められた子供達は、渋々下がる。
その代わり、氏治様が子供達の前へしゃがみ込んだ。
「これは危ない作業じゃ」
「だから、遠くから見るのじゃぞ」
「終わったら、出来た物を一緒に見よう」
「本当?」
「うむ!」
子供達は、氏治様の周りへ集まる。
氏治様は濡れた髪も乾かぬまま、楽しそうに説明を続けていた。
やがて、灰汁と油を合わせたものは、ゆっくりと重くなり始めた。
「おお……」
氏治様が目を輝かせる。
「泥みたいじゃな!」
「表現が悪いですよ、小太郎様」
「では、粥!」
「まだ微妙ですね」
「政貞の蓮歌の腕よりマシじゃ」
「うぐっ……!?」
胸に氏治様の言葉がグサリと突き刺さりながらも、俺は手を動かし続ける。
混ぜたものを木枠へ流し込み、しばらく置く。
すぐに使えるわけではない。
乾かし、固め、様子を見る必要がある。
「今日はここまでです」
俺が言うと、氏治様は少し残念そうな顔をした。
「すぐに使えぬのか」
「使えません」
「むう」
「でも、少しだけ試し洗い用に柔らかいものを分けておきます」
「おお!」
「ただし、手ではなく板と桶です」
「分かっておる!」
夕方。
港の一角で、試し洗いが行われた。
魚を捌いた板。
油でぬめった桶。
漁師の手拭い。
そこへ、試しに作った石鹸を少量使い、湯と一緒に擦る。
最初は皆、半信半疑だった。
だが。
「……おい」
一人の漁師が、板を触って目を見開いた。
「ぬめりが落ちてるぞ」
「本当か?」
「匂いも、少し薄くなってる」
「灰だけで擦るより楽だ」
漁師達の声が、次々に上がる。
桶職人も、洗った桶を嗅いで頷いた。
「これは良いかもしれませぬ」
「港で使えば、桶の持ちも変わるやもしれません」
「ほ、本当か!」
氏治様が、嬉しそうに声を上げた。
「政貞! 聞いたか!」
「ええ、聞きましたよ」
「石鹸は使えるぞ!」
「まだ試作です」
「だが使える!」
「はい」
俺は笑って頷いた。
「使えますね」
小太郎様は、飛び跳ねんばかりに喜んでいた。
「よし! もっと作ろう!」
「だから、まずは試作を乾かして、壊れやすいか、肌が荒れないか、匂いが強すぎないかを見ます」
「むう。政貞は慎重じゃな」
「小太郎様が勢いで突っ走るので、俺が慎重になるしかないんです」
「そんなことはないぞ!」
葵が、隣でくすくす笑う。
「あると思うなぁ」
「葵まで!」
「でも、小太郎様のおかげで人が集まったのは本当ですよ」
葵は港を見渡した。
漁師。
職人。
女達。
菅谷隊。
皆が、自分達の手で新しい物を作ったことに、少し誇らしげな顔をしている。
「政貞が知ってる物を、小太郎様が皆で作る」
葵は言った。
「こういうの、いいよねぇ」
「そうだな」
俺も頷いた。
俺一人が知っていても、広がらない。
職人だけが作っても、民に届くとは限らない。
だが、氏治様が関われば、民は笑いながら集まり、自分達のものとして受け入れていく。
それは、俺には真似しにくい才能だった。
その夜。
氏治様は、魚臭さの残る手を見ながら満足げに笑っていた。
「政貞」
「はい」
「ワシは、今日分かったぞ」
「何をですか」
「港は面白い!」
「そこですか」
「いや、それだけではない」
氏治様は、真剣な顔で言った。
「民の仕事を手伝うと、困っていることが見える。困っていることが見えれば、どうにかしたいと思う。そして、どうにかするために皆で動くと、町が少し良くなる」
それは、小太郎様らしい素直な答えだった。
「なら、また港へ行くのですか」
「うむ!」
「次は泥まみれですか、ずぶ濡れですか」
「両方かもしれぬ!」
「えぇ、やめてくださいよぉ……」
俺がため息を吐くと、小太郎様は楽しそうに笑った。
こうして、小田氏治様主導の石鹸作りは、思っていた以上の人数を巻き込みながら始まった。
最初は、魚のぬめりと油を落とすため。
だが、この小さな石鹸はやがて港だけでなく、町の暮らしと、商いと、衛生を変えていく。
その最初の一歩は、ずぶ濡れで魚臭い小太郎様の一言から始まったのだった。
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