77話 佐竹戦その15
「まずいな……」
本陣にて、佐竹義篤は戦況を見ながらそうこぼした。
中央左では備大将が討たれ、前へ出過ぎた兵達の隊列が乱れている。
後方では兵糧車や荷駄が燃え、黒い煙が空へと立ち上っていた。
さらに、伝令の姿も少ない。
法螺貝の音も、太鼓の音も、先程までより明らかに減っている。
「小田め……」
義篤は歯を噛み締めた。
背水の陣。
ただ兵を死兵に変えるだけの策ではない。
中央では退いたように見せ、こちらの兵を恋瀬川の近くまで引きずり込む。
左右では地形を使い、隊列が広がるのを防ぐ。
林では伏兵が伝令を狙い、後方では別働隊が火を放つ。
そして菅谷政貞の弓が、戦場の急所を次々と射抜いた。
小田は初めから、佐竹の大軍を分断し、混乱させるつもりだったのだ。
「殿!」
家臣の一人が、焦った声を上げる。
「このままでは中央左の兵が持ちませぬ!」
「後方の混乱も、徐々に前へ伝わっております!」
「分かっておる」
義篤は低く答えた。
だが、兵達はまだ崩れてはいない。
崩れかけているからこそ。
ここで大将が姿を見せれば、まだ立て直せる。
義篤はゆっくりと立ち上がった。
「馬を引け」
「殿!?」
「わしが出る」
重臣達の顔色が変わる。
「なりませぬ!」
「今の殿のお身体で前線へ出られれば、万が一のことが……!」
「ならば、ここで佐竹が崩れるのを見ておれと言うのか」
義篤の声が、本陣の空気を切り裂いた。
家臣達が言葉を失う。
義篤は胸元を押さえ、苦しげに息を吐いた。
だが、その目だけは真っ直ぐに戦場を見据えている。
「兵は大将の姿を求めておる。乱れた兵を立て直すには、わしが前に出るしかない。義昭に残す常陸を、このような場所で失うわけにはいかぬ」
「……殿」
「旗本を集めよ」
義篤は馬へ手を伸ばす。
「重臣達も連れて参れ。中央左を立て直す。小田を押し潰すぞ」
「「「ははっ!!」」」
やがて。
佐竹本陣の大旗が、ゆっくりと動き始めた。
その周囲を、旗本の精鋭と重臣達が固める。
病に蝕まれた当主を守るため。
そして、小田を討つために。
佐竹義篤自らが、戦場へ姿を現した。
一方、小田軍中央。
「佐竹の大旗が動いております!」
見張りの兵が叫ぶ。
朝霧の向こう。
黒塗りの具足に身を包んだ騎馬武者達が、佐竹の大旗を囲むように前へ出てくる。
その中心にいる男は———佐竹義篤。
「義篤が出てきたか」
勘助殿の表情が厳しくなった。
「あの男が姿を見せれば、佐竹の兵は立ち直ります。乱れた兵も、再び前へ出てくるでしょう」
その言葉通りだった。
「殿が出られたぞ!」
「義篤様がおられる!」
「まだ佐竹は終わっておらぬ!」
「押し込めぇぇぇ!!」
乱れかけていた佐竹兵達の声に、再び力が戻る。
後方の火を気にしていた者達も。
隊列の乱れに戸惑っていた者達も。
義篤の旗を見て、再び槍を前へ向けた。
「来るぞ!」
「中央を守れ!」
佐竹の精鋭が前へ出る。
槍衾が押し寄せ、先程まで止まっていた圧力が、再びこちらへと襲い掛かってくる。
「ぐっ……!」
小田の兵が押される。
槍と槍がぶつかり合い、兵達の怒号が恋瀬川の川音をかき消していく。
その最前面で、親父が大槍を振るった。
「ぬうんッ!!」
佐竹兵の槍をまとめて弾き、踏み込んできた敵を盾ごと押し返す。
「土浦衆、ここが踏ん張りどころぞ! 佐竹の大将が出たからといって、腰を引くな! わしの横に並べ! ここを抜かれれば、氏治様と政貞へ届くと思え!」
「「おおおおおっ!!」」
親父の声に、土浦衆が再び槍を揃える。
だが、佐竹の圧は先程までとは違っていた。
義篤が前へ出たことで、敵兵の目の色が変わっている。
押せば勝てる。
小田を川へ叩き落とせる。
そう信じた兵達が、こちらの中央へ雪崩のように押し寄せてきた。
「父上!」
俺は思わず声を上げた。
「政貞!」
親父は振り返らずに叫ぶ。
「こっちはまだ持つ! お前は戦場を見ろ! ワシ一人を見ておる暇などないぞ!」
その言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。
親父は正しい。
俺が見るべきは、親父だけではない。
全軍だ。
「政貞様!」
葵が刀を抜き、俺の隣に立った。
頬には土と血が付いている。
だが、その瞳に迷いはない。
「このままじゃ、また中央が押し込まれる!」
「ああ」
俺は迫る佐竹軍を睨んだ。
義篤が前へ出た。
佐竹の兵は、あの男のために再び戦う。
ならば、この戦を終わらせるには、佐竹義篤自身を止めるしかない。
「勘助」
「何です」
「義篤を討つ」
勘助殿が息を呑む。
「……政貞様」
「討てなくてもいい」
俺は続けた。
「だが、義篤自身に分からせる。このまま戦えば、佐竹は壊れ、義昭に何も残せなくなると」
勘助殿は戦場の奥を見た。
佐竹の大旗。
その周囲を守る旗本。
そして、前線へ出た義篤。
「本陣の守りは薄くなっております」
勘助殿は静かに言った。
「義篤が兵を立て直すため、重臣も旗本も前へ出た。今なら、本陣へ通じる道があります。ですが、政貞様」
勘助殿の声が低くなる。
「そこへ踏み込めば、生きて帰れる保証はありませぬ」
「分かってる」
俺は腰の刀へ手を掛けた。
隣で葵も、迷いなく刀を抜く。
「私も行く」
「葵」
「政貞を一人で行かせるわけないでしょ」
葵は一度だけ笑った。
「海に連れて行ってもらう約束、まだ果たしてもらってないんだから」
「……絶対に離れるな」
「そっちこそ」
俺達は一瞬だけ視線を交わす。
それだけで十分だった。
「待つのじゃ!」
その時、氏治様が声を上げた。
見ると、氏治様は震える手で槍を握りながらも、こちらへ歩み寄ってきていた。
「ワシも行く!」
「なりません」
俺は即座に答えた。
「小太郎様は中央に残ってください」
「何故じゃ!」
「小太郎様がここを離れれば、小田の旗が揺らぎます。兵達は、氏治様の姿を見て踏み止まっているんです」
氏治様は言葉に詰まった。
「で、でも……」
「小太郎様」
勘助殿も静かに言う。
「今、中央には勝貞殿がおられます。ですが、勝貞殿は前を支える槍、小太郎様は、兵の心を支える旗です。旗が消えれば、兵は自分達が見捨てられたと思います」
氏治様の顔が強張る。
だが、逃げるような目ではなかった。
悔しさと、責任を知った者の目だった。
「……ワシは、ここに残るべきなのか」
「はい」
俺は頷いた。
「俺が義篤の方へ向かいます。その間、中央をお願いします。父上と共に、兵達を支えてください」
氏治様は唇を噛んだ。
そして、次の瞬間。
自分の頬を両手で叩いた。
ぱん、と乾いた音が響く。
「分かった!」
氏治様は顔を上げた。
「ワシはここに残る! 小田の旗は退かぬ! 政貞、お主は義篤の元へ行け! その代わり、必ず戻れ! 政貞が戻るまで、ワシがここを守る!」
その声は、震えていた。
だが、はっきりと戦場に響いた。
近くにいた兵達が、氏治様を見る。
「小太郎様が残られるぞ!」
「小田の旗はここだ!」
「まだ退かぬぞ!」
兵達の声が戻る。
氏治様は槍を掲げた。
「皆、聞け! 政貞は佐竹義篤を止めに行く! その間、我らが中央を守る! 怖い者はワシを見よ! ワシも怖い!」
兵達が一瞬、ぽかんとした顔をした。
だが、氏治様は構わず続ける。
「じゃが逃げぬ! 怖くとも逃げぬ! ならば皆も逃げるな! 勝貞と共に、ここで佐竹を止めるのじゃ!!」
「「おおおおおっ!!」」
笑いと雄叫びが混ざった声が上がった。
氏治様らしい。
格好良く言い切るだけではない。
怖いと正直に言いながら、それでも逃げない。
その姿が、兵達の心を掴んでいた。
親父が前方で豪快に笑った。
「よく申されました、小太郎様! ならばこの勝貞、氏治様の前で倒れるわけにはいきませぬな!」
親父は大槍を構え直す。
「土浦衆小田の旗を守るぞ! 政貞が戻るまで、佐竹を一歩も通すな!」
「「おおおおおっ!!」」
親父と氏治様。
前を支える槍と、兵の心を支える旗。
その二人が中央に残る。
ならば、俺は行ける。
「勘助」
「はい」
「道を作ってくれ」
勘助殿は頷いた。
「承知」
そして周囲の兵達へ声を張り上げた。
「予備兵を集めよ! 中央は氏治様、勝貞殿、慶幹様に預ける! 政貞様、葵様の突撃隊は、佐竹義篤の元へ向かう!」
兵達の目が変わる。
「義篤を討つ! それが叶わずとも、奴に撤退を決意させる! 佐竹の当主を、この戦場から退かせるのだ!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
俺は刀を抜いた。
隣には葵。
後ろには勘助殿と、決死の兵達。
その先には、佐竹義篤の旗が揺れている。
「政貞!」
氏治様が叫ぶ。
振り返る。
氏治様は、涙を堪えるような顔で、それでも笑っていた。
「行ってこい! 小田の未来を、掴んでこい!」
「はい!」
俺は深く頷いた。
さらに、親父の声が戦場を貫く。
「政貞!」
「父上!」
「背中は任せよ! お前は前だけ見て走れ! 佐竹義篤へ、小田の覚悟を叩きつけてこい!」
「承知!」
胸の奥にあった迷いが消えた。
中央は任せられる。
親父がいる。
氏治様がいる。
皆がいる。
ならば俺は、俺の役目を果たすだけだ。
「行くぞ!」
恋瀬川を背にした小田軍の中から佐竹の心臓を狙う一隊が、戦場を駆け出した。
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