75話 佐竹戦その13
1543年 佐竹本陣
「ほう……まさかこのような手でくるとはな」
佐竹義篤は驚嘆していた。
彼の視線の先。
そこにいるのは、川を背に陣を敷いた小田の軍勢の姿だった。
橋は全て壊され、既に退路はない。
それを見て、義篤は小田家が取った最後の策が何かを理解した。
背水の陣。
それこそが、小田家の最後の策であった。
「愚策……いや、この状況に至っては最良の策と言えるか」
義篤は低く呟いた。
「なるほど。最後まで戦い抜くつもりであるか」
普段の義篤であれば、敵ながらあっぱれだと褒め称えていたことだろう。
しかし、今の義篤にはそのような余裕はなかった。
今も義篤の身体は病に蝕まれている。
臓腑は痛み、気を抜けば咳が込み上げてくる。
だが、そんなことは今の義篤にはどうでもよかった。
小田をここで討てるか。
常陸を一つに出来るか。
義昭へ、争いのない未来を残せるか。
大事なのは、それだけだった。
「殿」
傍らの重臣が、慎重に口を開く。
「敵は退路を断っております。もはや逃げることは叶いますまい。我らが正面から押し込めば、小田は川へ追い詰められるのみかと」
「……そうだな」
義篤は小田軍を見つめたまま答えた。
川を背に、整然と並ぶ小田の兵。
数では圧倒している。
兵の疲労も、損害も、こちらの方が少ない。
普通に考えれば、勝敗は既に決しているようなものだった。
だが。
「油断するな」
義篤は低く言った。
「小田は、ただ死に場所を求めているのではない」
重臣達の表情が変わる。
「橋を落とし、退路を断った。それは兵を死兵に変えるためだけではあるまい。敵は我らに、勝ったと思わせようとしている」
義篤は鋭い目で戦場を見渡す。
川沿いの狭い平地。
左右に広がる林。
その先にある小高い丘。
地形は決して佐竹に優しくない。
七千の兵を持っていても、一度に全軍で押し込めるわけではないのだ。
「敵は、我らが数を頼みに前へ出るのを待っている。そして兵が伸び、乱れたところを狙うつもりであろう」
「では、総攻めは危険では……」
「危険だ」
義篤は即答した。
「だが、攻めぬ方が危険だ」
佐竹軍の将達が息を呑む。
「小田はもう後がない。ならば、あの者達は必ず全てを賭けてくる。ここで奴らを逃せば、再び兵を集め、常陸の諸勢力をまとめ上げてくるだろう。かといって時間をかければ、政治達と合流してくる。ここで決着をつけなければならぬのだ」
菅谷政貞。
あの男が小田へ現れてから、全てが変わった。
小田家を変えた。
大掾を従えた。
かつては反目していた者達すら、一つにまとめてみせた。
あの男を、そして小田を、決して生かしてはならぬ。
義篤は拳を握り締めた。
その時、重臣の一人が小田軍中央を指差した。
「殿、中央前面をご覧ください」
「む」
義篤は目を細めた。
朝霧の中。
小田軍の中央前面に、一際大柄な武者が立っている。
大槍を担ぎ、周囲の兵よりも一段前へ出ている。
その姿は、遠目にも異様な存在感を放っていた。
「あれは……菅谷勝貞か」
義篤の声が、僅かに低くなった。
「土浦の猛将、小田家中で武勇第一とも言われる男です」
重臣が答える。
「宇都宮、結城方面にいたはずでは」
「戻ってきたのであろう」
義篤は静かに言った。
「それも、この決戦に間に合うように」
菅谷勝貞。
小田家の猛将。
政貞の父。
あの男が中央前面に立っているということは、小田は中央を簡単には崩すつもりがない。
いや、崩れそうに見せながら、あの男を芯として耐えるつもりなのだろう。
「厄介な男を置いたものよ」
義篤は呟いた。
「政貞は策を動かし、小太郎は旗となり、そして勝貞が壁となる。小田は、役者をよく分かって配置している」
義篤の目に、警戒の色が濃くなる。
「小田は今日、ここで終わらせる。だが、敵の思う通りには進ませぬ」
義篤は家臣へ向き直った。
「先鋒は中央から進め。ただし、深追いはするな。敵が退くように見えても、隊列を崩すな」
義篤はさらに続ける。
「特に菅谷勝貞に釣られるな。あの男は猛将だ。討てると見えても、容易に食いつくな。勝貞を討つことより、陣を乱さぬことを優先せよ」
「はっ!」
「左右の隊は林へ注意を払え。伏兵がいるものと思え。伝令は多く出し、太鼓と法螺貝だけに頼るな」
「ははっ!」
家臣達が一斉に頭を下げる。
義篤はさらに続けた。
「そして本陣の守りを固めよ。小田の狙いは、恐らくわしの首だ」
「殿自らが戦場へ出られるのですか!?」
「出る」
義篤は迷いなく答えた。
「戦が乱れれば、兵は大将の姿を求める。ならば、わしが立つ。佐竹の兵に見せてやらねばならぬ。常陸を統一するのは、我ら佐竹であるとな」
「ですが、お身体が……!」
「くどい」
義篤の声が、本陣の空気を切り裂いた。
家臣達が言葉を失う。
義篤は一度、深く息を吐いた。
「すまぬ」
そして、少しだけ声音を和らげる。
「だが、わしにはもう時間がないのだ」
病に蝕まれた身体。
自分の命が長くないことを、義篤自身が一番理解していた。
だからこそ、この戦に勝たなければならない。
「義昭が大人になる頃には常陸に、戦の火種など残してはならぬ」
義篤は拳を握り締める。
「小田も、大掾も、鹿島も、全てを佐竹の下に収める。義昭には、戦ではなく国を治めることだけを考えられる常陸を残す」
その言葉には、佐竹家当主としてだけではなく、一人の子の父としての強い思いが込められていた。
義篤は馬へ手を伸ばした。
「行くぞ。小田が命を賭けると言うのなら、佐竹もまた、全てを賭けて応えるまでだ」
やがて佐竹本陣から、低く重い太鼓の音が響き始めた。
ドン。
ドン。
ドン。
朝霧の向こうで、佐竹の大軍が動き出す。
七千の兵が、川を背にして立つ三千二百の小田軍へ向け、ゆっくりと、だが確実に迫っていった。
一方、小田家本陣。
「……来たか」
どうやら、あちらも動き出したようだ。
俺の視線の先には、朝霧を押し分けながら進み始めた佐竹の軍勢の姿があった。
先頭に立つ兵達は、槍を揃えている。
その後ろには、途切れることなく続く幾重もの隊列。
七千。
数だけで見れば、こちらを押し潰すには十分過ぎる兵力だ。
「妙ですな」
勘助殿が静かに呟いた。
「な、何がだ?」
氏治様が問う。
「敵が、慎重過ぎます」
勘助殿は目を細めた。
「本来であれば、我らが川を背にしたと見れば、勢いに乗じて押し込んでくるはず。されど佐竹は、隊列を崩しておりませぬ。左右の林にも兵を向け、伝令も多く出しております」
「……こちらの狙いを読んだということか」
俺は低く呟いた。
「おそらく」
勘助殿は頷いた。
「佐竹義篤は、ただ数を頼みに攻めるだけの将ではありませぬ。我らが敵を誘い込み、陣形を乱そうとしていることを警戒しているのでしょう」
佐竹義篤。
病を押して戦場に出ている男。
己の命を削ってでも、息子に統一された常陸を残そうとしている。
そんな男が、簡単にこちらの思い通り動くはずがない。
「ならば、どうする?」
慶幹が問う。
「このままでは、由兵衛達が後方へ回っても、敵は簡単には崩れぬぞ」
「ええ」
勘助殿は地図ではなく、戦場を見据えた。
「だからこそ、敵に勝てると思わせる必要があります。故に中央を、少しずつ下げます」
「なに?」
鹿島殿が眉をひそめる。
「佐竹に、我らが押されているように見せるのです。敵が慎重ならば、こちらから餌を見せる。中央が崩れかけているように見えれば、奴らも押し込まずにはいられますまい」
なるほど。
佐竹が警戒しているなら、警戒を越えるほどの好機を見せる。
俺達が無理やり動かすのではない。
佐竹自身に、前へ出る決断をさせるのだ。
「殿」
勘助殿が俺を見る。
「中央は、最も苦しい役目になります。敵の猛攻を受けながら、崩れぬ程度に退いて頂く。間違えれば、本当に崩れますぞ」
「ああ」
俺は頷いた。
「やる」
「いや」
その時、親父が低い声で言った。
「最初に受けるのはワシだ」
皆の視線が親父へ向く。
菅谷勝貞。
土浦の猛将。
小田家中一の武勇を誇る親父は、大槍を肩へ担いだまま、佐竹の先鋒を見据えていた。
「佐竹が慎重ならば、まずはその慎重さを揺さぶらねばならん。ワシが前で受ける。押される……だが、折れぬ」
親父は、にやりと笑った。
「佐竹には、あと少しで中央が抜けると思わせてやろう」
「勝貞殿」
勘助殿が静かに頭を下げた。
「お願いします」
「うむ」
親父は俺を見る。
「政貞」
「はい」
「ワシが前で踏ん張る。お前は後ろで兵を見ろ。本当に崩れそうになった時だけ支えよ」
「分かりました」
「それと」
親父は、少しだけ声を低くした。
「ワシが敵を引き付けるからといって、助けようと前へ出過ぎるな。お前の役目は、ワシを守ることではない。全軍を勝たせることだ」
「……はい」
胸に重いものが落ちる。
だが、親父の言う通りだ。
ここでは父と子である前に、将と将でなければならない。
「小太郎様」
勘助殿が氏治様へ向き直る。
「政貞様と共に中央を」
「任せよ」
氏治様は槍を握り、口元を上げる。
だが、本人は笑って見せているつもりだろうが、こちらから見れば引き攣りまくっていた。
「小太郎様、緊張なさっていますね」
「う、うむ……」
氏治様は震えながら佐竹軍を見る。
「政貞はいつも、こんな怖いものと戦っていたのじゃのう……本当にすごいわい」
「ははっ、ここまで追い詰められたのは今日が初めてですよ」
氏治様は、それはもうガタガタと震えていた。
だが、そんな一見頼りなく見える姿が、俺に勇気と闘志を与えてくれる。
「大丈夫です、俺がついてますよ」
「そ、そうじゃな!」
氏治様の顔が明るくなる。
「そうじゃった! 政貞がおるもんな……はははっ! そうじゃ! ワシら二人が揃えば、負けるはずがないわい!」
「それに」
親父が笑った。
「今日はワシもおる」
「小太郎様、怖ければワシの背中を見るとよい。佐竹の槍がいくら来ようと、まずはこの勝貞が受け止めまする」
「お、おお!」
氏治様は目を輝かせた。
「勝貞が前にいるなら心強いのう!」
「うむ!」
親父は豪快に頷く。
「ただし、ワシの背だけを見過ぎて、足元を疎かにしてはなりませぬぞ」
「わ、分かっておる!」
勘助殿が深く息を吐く。
その様子に、思わず少しだけ笑ってしまった。
全く、氏治様がいると緊張感が薄れるな。
もちろん、良い意味でだが。
「霧丸、ちよ」
「いる」
「いるよ!」
気付けば霧丸とちよが、俺達の後ろに立っていた。
「敵の伝令が増えている」
勘助殿が言う。
「予定通り、林へ入り、太鼓役、法螺貝役、伝令を優先して狙え」
「分かった」
「分かった!」
二人は短く答える。
「佐竹の耳と口を、片っ端から潰してやる」
「私達に任せといて!」
「ちよ」
霧丸が横目で見る。
「叫ぶな」
「今はまだ大丈夫!」
「今も少し大きい」
「えっ」
こんな状況でも、ちよはちよだった。
だが、その明るさに救われる者もいる。
「由兵衛は?」
「既に川下へ向かいました」
勘助殿が答えた。
「頃合いを見て、敵の後方へ火を放つ手筈です」
全ての駒は動き始めている。
あとは俺達が中央で耐え抜き、佐竹を引きずり込むだけだ。
その時、佐竹軍から長い法螺貝の音が響いた。
ォォォォ―――ン。
朝霧を震わせる、戦の始まりを告げる音。
「来るぞ!」
誰かの声が飛ぶ。
佐竹の先鋒が、一斉に槍を掲げた。
地面を踏み鳴らす無数の足音。
迫り来る鎧の群れ。
その圧力だけで、空気が震えているようだった。
「勝貞殿!」
勘助殿が叫ぶ。
「頼みます!」
「応!」
親父が大槍を構え、一歩前へ出る。
その背中は大きかった。
まるで、佐竹の大軍と俺達との間に立つ城壁のようだった。
「土浦衆!」
親父の声が響く。
「まずはワシらが受ける! 慌てるな! 押されてもよい! だが、折れるな! ワシの槍の届く限り、佐竹を通すな!」
「「おおおおおっ!!」」
土浦衆が吠える。
親父は、こちらを振り返らなかった。
ただ前を見ている。
佐竹の大軍だけを。
「弓兵、構え!」
葵の声が響く。
後方の弓兵達が、一斉に弓を引き絞る。
「まだだ!」
勘助殿が叫ぶ。
「引き付けよ!」
佐竹軍は、じわじわと距離を詰めてくる。
百歩。
八十歩。
五十歩。
敵兵達の顔が見え始める。
親父は一歩も退かない。
だが、その横に並ぶ土浦衆は、僅かに腰を落とした。
受ける。
耐える。
そして、いずれ下がるための構え。
敵に勝てると思わせるための、危険な一歩目。
「今だ!」
「放てぇ!!」
無数の矢が、朝霧を切り裂いた。
矢が佐竹の先鋒へ降り注ぐ。
その直後。
親父の大槍が唸った。
「来い、佐竹!」
菅谷勝貞の咆哮が、戦場に響き渡る。
「この勝貞を越えてみせよ!!」
常陸の未来を賭けた戦いが。
ついに始まった。
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