74話 佐竹戦その12
1543年 付城
早朝。
まだ空は薄暗く、東の空が僅かに白み始めたばかりだった。
冷たい朝霧が辺りを覆い、付城の柵や櫓をぼんやりと包み込んでいる。
昨日まで何度も佐竹の攻撃を受け止めた付城は、既に満身創痍だった。
折れた柵。
崩れかけた櫓。
矢が無数に突き刺さった門。
ここが俺達を守ってくれた場所であると同時に、もう長くは戦えない場所であることを物語っていた。
だが、今日この場所を出る。
そして、今日で全てを終わらせる。
「……寒いな」
吐いた息が白く染まる。
鎧を身に着けた俺は、櫓の上から川の方角を見ていた。
背水の陣を敷く場所。
退路を断ち、佐竹と決着をつける戦場。
「政貞」
背後から声がした。
振り返ると、葵がいた。
いつものように髪をまとめ、鎧の上から羽織を着ている。
その腰には刀。
背には弓。
既に戦う覚悟を決めた顔だった。
「眠れたか?」
「あんまり〜。政貞もじゃないの?」
「ははっ、そうだな。俺も同じだ」
そう、あまり眠れなかった。
目を閉じれば、三平太の姿が浮かんだ。
橋の上で笑っていた顔。
血に塗れながら、俺達を逃がした背中。
今日の戦いで負ければ、あいつが守った命も、皆が命を懸けて繋いできた未来も、全てが消えてしまう。
そう思うと、気持ちが逸って中々眠りにつけなかった。
全く。
眠るのが、今できる最善のことだと分かっていたはずなのにな。
「そっか……まあ、そうだよね」
俺達の間に、静寂が流れる。
葵も今、とても緊張しているのだろう。
三平太の死を無駄にしないため。
皆で生きて帰るため。
この戦に勝つのだと。
しかし、敵は大軍。
緊張するのも無理はない。
だから俺は、それを少しでもほぐすために、前々から葵に言おうと思っていたことを言った。
「なあ、この戦が終わったら……さ」
「うん?」
「海に、行かないか?」
そう、海。
結局、鹿島を制圧してから、一度も葵を連れて行ってやれたことはなかった。
だからこそ、この戦が終わったら、葵をあの綺麗な海へと連れて行ってやりたいのだ。
「海か……そうだね。ずっと誰かさんが連れてってくれなかったもんね〜〜」
「そ、それは……悪かった。でも、今度こそお前と二人きりで海に行きたい。水浴びをしたり、泳いだり、釣りをしたりして、二人の時間を過ごしたいんだ」
俺はそう、真っ直ぐに葵の目を見て言った。
すると。
「ぷふっ!! あははっ! あははははっ!!」
「な、何だよ! 俺、そんなにおかしいことは言ってないだろ!?」
「あははっ! だって、すんごく真面目な顔でそんなこと言うもんだからさ! おかしくて笑っちゃうよ!」
全く。
こいつは、人が励ましてやろうとしているのに。
でも、まあ。
こうして笑わせてやれたなら、よかったかな。
「ほう」
その時、さらに背後から太い声がした。
「戦の前に嫁と海の約束とは、随分と余裕があるではないか」
「ち、父上!?」
振り返ると、そこには菅谷勝貞。
俺の親父が立っていた。
血と泥の残る鎧の上から羽織を掛け、いつものように大きな槍を肩へ担いでいる。
宇都宮、結城方面から駆けつけたばかりだというのに、その立ち姿はまるで揺らがない。
「い、いつから聞いていたんですか」
「海に行かぬか、の辺りからだな」
「ほとんど最初ではないですか!」
葵が楽しそうに笑う。
「あははっ、義父上様にも聞かれちゃったねぇ」
「葵殿。この戦が終われば、政貞をしっかり海へ引っ張って行ってくれ」
親父は、にやりと笑った。
「この息子は、放っておくと政務だの兵の訓練だのと言って、いつまでも約束を後回しにする」
「ふふっ、それは困りますね」
「だろう」
「父上まで何を言っているんですか……」
呆れて言うと、親父は豪快に笑った。
その笑い声は、冷たい朝霧の中でも不思議と温かかった。
「政貞」
親父は笑いを収めると、俺の横へ並んだ。
そして、川の方角を見た。
「あそこが、今日の戦場か」
「はい。背水の陣を敷きます。退路を断ち、佐竹と決着をつける」
「よい顔になった」
親父は静かに言った。
「昨日、付城へ戻った時のお前は、酷い顔をしておった。失敗した者の顔だ」
「……はい」
その言葉に胸が痛む。
だが、親父の声に責める響きはなかった。
「だが今は違う。失ったものを背負って、それでも前を向く者の顔になった」
親父は俺の肩を大きな手で叩いた。
「それでよい。悔いは戦が終わってから抱け。今は勝つことだけを考えろ」
「はい」
「それと」
「何でしょう」
「今日、ワシはお前の前に立つ」
親父は、当然のように言った。
「佐竹の槍も矢も、まずはワシが受ける」
「父上……」
「お前は後ろで全体を見ろ。氏治様を支え、兵を動かし、勝機が来たら迷わず掴め。ワシが傷つこうが、倒れようが、勝機を逃すな」
その言葉は重かった。
父としてではない。
小田家中一の猛将として、俺に命じている言葉だった。
「……分かりました。父上を、勝つために使います」
「それでよい。それでこそ、菅谷勝貞の息子よ」
親父は満足そうに頷いた。
葵は、そんな親父と俺を見て、少しだけ微笑んだ。
「政貞」
「何だ」
「生きて帰るよ」
「ああ」
俺は葵と拳を合わせた。
「父上も」
「当たり前だ。ワシはまだまだ死なん。お前達が海へ行くのを見届けねばならんからな」
「そこですか」
「そこも大事だ」
親父は笑った。
その時だった。
付城の中に、太鼓の音が響いた。
ドン、ドン、ドンと。
重い音が朝霧を切り裂く。
出陣の合図だった。
「行こう」
「うん」
「参るか」
俺と葵。
そして親父は並んで櫓を降りた。
付城の広場には、既に兵達が集まっていた。
皆、傷だらけだった。
包帯を巻いた者。
腕に包帯を巻いたまま槍を握る者。
肩を傷めながらも、槍を支える者。
片腕に深い傷を負いながら、歯を食いしばる者。
顔に深い傷を残す者。
それでも、誰一人として下を向いてはいなかった。
正面には氏治様。
その隣には勘助殿、慶幹、鹿島殿、大野殿、江戸殿。
さらに由兵衛と霧丸とちよ。
そして一郎太が、弓兵達の前へ立っている。
その横には、親父が率いてきた土浦衆も並んでいた。
宇都宮、結城方面から急ぎ戻ってきた彼らは、誰もが疲れ切っていた。
鎧には泥。
足には血。
馬も息を荒げている。
それでも、親父の背中を見ているからか、彼らの目は死んでいない。
むしろ、これからが本番だと言わんばかりに、槍を握っていた。
「全軍、揃いました」
勘助殿が告げる。
「兵、三千二百。これより背水の陣を敷き、佐竹と決戦致します」
兵達の間に緊張が走る。
恐らく皆、理解している。
橋を壊せば、逃げ道はなくなる。
敗北すれば、死ぬ。
だが、誰も騒がなかった。
その顔に、迷いはなかった。
「橋の準備は?」
氏治様が問う。
「既に済んでおります。全軍が川を渡り次第、橋に火を放ちます。壊れれば、付城へ戻ることは出来ませぬ」
「うむ」
氏治様は静かに頷いた。
そして兵達の前へ歩み出る。
「皆、聞け!」
氏治様の声が広場に響き渡る。
「今日、我らは佐竹と戦う! 敵は七千! 我らの倍以上の兵を持つ大軍じゃ!」
兵達の表情が僅かに強張る。
だが、氏治様は笑った。
「されど! 数が多いから勝つとは限らぬ! 佐竹は我らを追い詰めたと思っておる! だが、違う! 追い詰められたのは、佐竹の方じゃ! 我らは退かぬ! 我らは逃げぬ! この常陸で生きる者達のために! 小田の未来のために! そして、ここまで共に戦い、倒れていった者達のために! 今日! 佐竹を討ち破るぞ!!」
「おおおおおっ!!」
兵達の雄叫びが付城を震わせた。
その氏治様の言葉を聞いて、俺は自然と涙が溢れるのを感じた。
氏治様。
貴方は、本当に立派になられました。
これなら、もう政治様の代わりとしても、十分立派にやっていけますよ。
全く、いくら主君が成長したからといって涙を流すなんてな。
これも親心……いや、家臣心だろうか。
できれば、政治様にもこの姿を見せたかった。
そして、三平太にも。
あいつの中での氏治様は、民に混じって農業するのが好きな、勉強嫌いの若殿様だったからな。
あいつの目から見たら、少々頼りなく見えたことだろう。
だからこそ、今の姿を見せてやりたかった。
いや。
きっと天から見ているよな、三平太。
そして、俺の姿も。
なら、目に焼き付けておいてくれ。
俺が、俺達が佐竹に勝つ姿を。
「小太郎様」
そこで親父が、一歩前へ出た。
「少し、兵達へ声を掛けてもよろしいか」
「う、うむ!」
氏治様が頷く。
親父は広場の中央へ進み出た。
大柄な身体。
傷だらけの鎧。
手にした大槍。
それだけで、兵達の視線が集まる。
「皆、よく聞け!」
親父の太い声が、付城中に響いた。
「ワシは菅谷勝貞! 土浦の兵を率いて、宇都宮、結城との戦より戻った! 見ての通り、ワシの兵も疲れておる! 足は痛み、腹も減り、眠気もある!」
土浦衆の中から、少しだけ笑いが漏れた。
親父は続ける。
「だがな! それがどうした! 疲れておるのは佐竹も同じ! 腹が減っておるのも佐竹も同じ! 怖いのも佐竹も同じだ!」
兵達の顔が上がる。
「今日、ワシは中央の最前に立つ! 佐竹が氏治様へ届くには、まずこの菅谷勝貞を越えねばならん!」
親父は大槍を高く掲げた。
「死にたくない者は、ワシの背を見ろ! 震える者は、ワシの槍を見ろ! 倒れそうになった者は、隣の者の腕を掴め! 我らは一人で戦うのではない! 小田も、大掾も、鹿島も、江戸も、大野も、土浦も! 皆で生きて勝つために戦うのだ!」
親父はそこで、わずかに声を低くした。
「そして、倒れていった者達に恥じぬために、ここまで命を繋いだ者達に我らが勝ったと、胸を張って言うために」
親父の声が、さらに強くなる。
「佐竹を越えるぞ! 常陸の明日を、我らの手で掴むぞ!」
「おおおおおおおっ!!」
先程よりもさらに大きな雄叫びが上がった。
広場が揺れる。
傷ついた兵達が槍を掲げる。
土浦衆が吠える。
小田の兵が応える。
鹿島、大野、大掾、江戸の兵達も、それぞれの旗の下で声を上げた。
親父は振り返り、俺を見た。
そして、何も言わずに頷いた。
その頷きだけで十分だった。
行け。
勝て。
そう言われた気がした。
「出陣!」
勘助殿の号令が飛ぶ。
門が開かれる。
まだ薄暗い朝霧の中へ。
小田。
大掾。
鹿島。
江戸。
大野。
そして土浦。
常陸の未来を賭けた三千二百の兵が、静かに歩み始めた。
その先には川が広がる。
全軍が渡れば、橋は焼かれる。
退路は消える。
そして、その先には———佐竹義篤率いる七千の大軍が待っていた。
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