73話 佐竹戦その11
背水の陣。
それは漢の武将である韓信が、趙の大軍を破るために用いた策である。
川を背に布陣し、兵に逃げ場を失わせる。
そうして、生き残るには勝つしかないという状況へ追い込み、兵の力を極限まで引き出す。
この策はその後、日本にも伝わり、多くの武将達の知るところとなった。
そして、氏治様は史実であの軍神、上杉謙信に勝つためにこの策を用いた。
兵の数でも負け。
大将としても負けている。
そんな状況で勝つための策としては、上々のものだったと言えるだろう。
だが、氏治様は敗れた。
相手が上杉謙信だったからだ。
あまりにも強すぎた。
他の敵であれば、勝てたのかもしれない。
しかし、負けたことには変わりなく、氏治様は小田城を奪われることとなってしまった。
そう、この策は史実で強敵相手に破られた策である。
しかし今、氏治様はこの策をもう一度、同じく強敵である佐竹に使おうとしている。
自分がこの策を上杉謙信に対して用いたことなど、当然、氏治様は知らない。
だが、俺にはそれが運命のようにも感じられた。
背水の陣。
かつて敗れたこの策を用いて、佐竹という強敵を破る。
それによって、小田家滅亡の運命を変えることができる。
そう思えてならなかった。
だからこそ、俺はこの策で戦うべきだと考えたのかもしれない。
この策は、小田家の運命を変えるのに相応しい。
そして同時に、この状況を打開する上で合理的な策でもある。
俺達はこの策を使い、何としてでも勝つ。
そのために俺達は、軍議の最終段階へと入るのだった。
軍議の最終段階。
それは、覚悟を言葉にする場ではない。
勝つために。
生き残るために。
誰がどこで血を流し、誰が敵の喉元へ刃を突き立てるのか。
その全てを決める場だった。
「では、策を申し上げます」
勘助殿が地図の前に立つ。
その声には、先程までの迷いはなかった。
背水の陣を敷くと決まった以上、今の勘助殿はもう反対者ではない。
勝たせるための軍師だった。
「我らは明朝、付城を出ます。この川を背にして布陣する。退路となる橋は、全軍が渡り終え次第、壊します」
室内に小さなどよめきが走る。
だが、誰も反対はしなかった。
もう決めたのだ。
退かないと。
退けない場所で勝つのだと。
「正面は狭い平地です。左右には林と小高い丘がある。佐竹の七千は脅威ですが、この地形なら一度に全軍を並べることはできませぬ」
勘助殿は地図の中央を叩いた。
「敵の兵数差を、そのままぶつけさせてはなりませぬ。戦場を狭め、敵の足を止め、佐竹の大軍を自ら乱れさせるのです」
「具体的にはどうする?」
鹿島殿が問う。
「まず中央です」
勘助殿は、俺と氏治様を見る。
「中央には、小太郎様と政貞様の本隊千。そして、その前面に勝貞殿の土浦衆五百を置きます」
皆の視線が、親父へ向いた。
親父は腕を組み、どっしりと座っている。
その顔に怯えはない。
疲れも見える。
傷もある。
だが、それ以上に圧倒的な頼もしさがあった。
「ワシが前か。よかろう。佐竹の先手は、この菅谷勝貞が受ける」
その一言だけで、場の空気が少し変わった。
中央の最前面。
最も敵の圧を受ける場所。
そこに小田家中一の猛将が立つ。
それは、兵にとって何より分かりやすい旗だった。
「勝貞殿には、敵の初撃を受けて頂きます。ただし、押し返す必要はありませぬ。敵に、我らが崩れかけていると思わせる。勝てると思わせ、佐竹兵を前へ前へと押し出させるのです」
「ふむ。つまり、ワシは暴れ過ぎてはいかんわけか」
「はい」
「難儀な役目だな。だが、面白い。受けて、耐えて、敵を釣る。ならばワシの槍は、敵を殺すためではなく、敵を引き寄せるために振るえばよいのだな」
「その通りです」
勘助殿が頷く。
ただ力任せに戦うだけなら、親父は間違いなく強い。
だが親父は、それだけの人ではない。
戦場で何をすべきか、誰よりも早く掴む。
だからこそ、親父が中央前面に立つ意味がある。
「中央後方には、小太郎様と政貞様の本隊を置きます。小太郎様には旗となって頂きます。小田の御曹司が退かぬ姿を見せれば、兵達は踏み止まれる。政貞様には弓隊と槍隊を動かし、中央の崩れを演じながらも、本当に崩れぬよう支えて頂く」
「うむ! ワシは逃げぬぞ!」
「逃げる道がありませんからね」
「それは言わんでよい!」
少しだけ笑いが漏れた。
重苦しい軍議の中で、その笑いは小さかったが、必要なものだった。
「左翼には鹿島殿、四百。右翼には大野殿と慶幹様、五百。敵の横隊が広がるのを防いでください」
「中央を包もうとする敵を、左右から食い止めるのだな」
鹿島殿が頷く。
「無理に押し返す必要はありませぬ。ただ耐えるのです。敵を中央へ集めるために」
「任せよ」
大野殿が槍を握る。
「この老骨、まだ佐竹の若造共に遅れは取らぬ」
「慶幹様」
「分かっている。大掾の兵は、今度こそ退かぬ」
慶幹は静かに答えた。
その横顔には、かつての迷いはなかった。
府中を失い。
家臣を失い。
それでも立ち上がった男の顔だった。
「頼もしいですな」
「ふっ。政貞殿とは、結局戦場では戦っておりませぬからな。槍を取れば小田兵にも劣らぬということを、ここで証明いたしましょう」
年相応の意地を覗かせる笑みだった。
彼の言う通り、俺と彼は直接兵を戦わせたわけではない。
この戦で、大掾兵の強さを見せてもらおう。
「次に、霧丸、ちよ」
「いる」
「うん!」
柱の陰から、いつの間にか霧丸とちよが姿を現した。
「お前達には二百を預ける。林へ潜み、敵の伝令、法螺貝、太鼓役を狙え。佐竹軍の目と耳を潰すのだ」
霧丸は口元だけで笑う。
「前の連中を殴るより、後ろで口を塞ぐ方が俺には向いている」
「確かにね! まあ、私は真正面からの方が得意だけど!」
「ちよ。今回は、叫ぶな」
「分かってるよ!」
「今、声が大きい」
「あっ」
ちよは慌てて口を押さえた。
勘助殿は、咳払いを一つして続ける。
「ただし、敵将を狙って深追いするな。お前達の役目は、敵を混乱させることだ。命令が届かぬ軍は、七千いようがただの群れに過ぎぬ」
「了解」
「了解!」
霧丸とちよは短く答えた。
「由兵衛」
「おう」
由兵衛が腕を組んだまま前へ出る。
「お前には三百。夜明け前に川下から迂回し、佐竹軍の後方へ回れ。兵糧車、荷駄、予備兵を狙う。火を放て」
由兵衛の目が鋭くなった。
「へっ、なるほどな。前で佐竹が押し込んでる間に、後ろを燃やすってわけか」
「そうだ。前では命令が届かぬ。後ろでは火が上がる。兵達は、前へ進むべきか、後ろへ戻るべきか分からなくなる」
「そういうのは得意だ。元野盗のやり方、見せてやるよ」
由兵衛は、にやりと笑った。
「頼む」
俺が言うと、由兵衛は一瞬だけ真面目な顔になった。
「大将。三平太の分まで暴れる。でも、死にはしねえ。あいつが繋いだ命を、ここで捨てたら怒鳴られるからな」
「……ああ。必ず戻れ」
「任せろ」
「江戸殿」
勘助殿が、今度は江戸忠通殿を見る。
「江戸殿には残る兵百を預け、付城と負傷者、そして後方の守りをお願いしたい」
江戸殿は、僅かに眉を動かした。
「ワシは前に出ぬのか」
「江戸殿の兵は、真壁の裏切りで大きく失われました。それでも、後方を預けられるのは江戸殿しかおりませぬ。負傷者を守り、付城を保ち、万一敵の別働が回り込んだ時に止める。地味ですが、極めて重要な役目です」
江戸殿はしばらく黙っていた。
だが、やがて大きく息を吐き、笑った。
「よかろう。銭勘定も戦も、最後に帳尻を合わせる者が必要じゃ。後ろはワシに任せておけ」
「ありがとうございます」
勘助殿が頭を下げる。
これで、背後を守る者も決まった。
俺達が前で戦えるのは、後ろを守る者がいるからだ。
「一郎太」
勘助殿が言った。
その言葉に、一郎太が姿勢を正す。
「お、俺がですか!?」
「そうだ。弓に長け、政貞様に弓兵隊副隊長として見込まれたお主にしか頼めない。お主は弓兵をまとめ、中央が押し込まれた時には矢を集中させよ。特に敵の旗持ちと、指揮を執る者を狙うのだ」
「わ、分かりました! 期待に応えてみせます! 政貞様の背中は、俺達が守ります」
「頼んだぞ」
俺は頷いた。
勘助殿は、地図上の佐竹本陣と思われる場所へ指を置いた。
「そして、敵軍が乱れた時、佐竹義篤の本陣を狙います」
空気が張り詰めた。
「本陣を?」
ちよが小さく呟く。
「ああ。佐竹義篤は、病を押して出陣している。戦場が乱れ、命令が届かず、後方で火の手が上がれば、必ず自ら兵を立て直そうとするでしょう。そこが、最大の隙となります」
義篤。
常陸を統一するために。
息子の義昭に未来を残すために。
命を懸けてこの戦へ出て来ている男。
彼もまた、退けないのだろう。
だが、俺達も退けない。
決して退けないのだ。
「本陣を突く兵は?」
氏治様が問う。
「私が預かる予備兵二百です。戦場の流れを見て、佐竹の中央が乱れた瞬間に出します。政貞様と小太郎様には、その時に全軍へ号令を出して頂く。敵の本陣を討つための、最後の一撃となります」
「待て」
俺は地図を見つめた。
「それでは勘助の兵が少なすぎる。二百で佐竹の本陣へ向かうのは危険だ」
「危険でなければ、勝機にはなりませぬ」
勘助殿は静かに笑った。
「政貞様。ここにいる誰もが、命を懸けるのです。私だけが安全な場所にいるわけにはいきますまい」
言葉が詰まった。
勘助殿も、由兵衛も、霧丸も。
鹿島殿も、大野殿も、慶幹も。
江戸殿も。
そして親父も。
全員が、自分の役目を理解している。
そして、どこが最も危険かも理解している。
「ふむ」
そこで親父が口を開いた。
「勘助殿」
「はい」
「本陣を突く時、ワシはどう動けばよい」
「勝貞殿には、中央前面で佐竹の圧を受け続けて頂きます。敵が乱れても、すぐには追わないでください。勝貞殿が前へ出過ぎれば、中央が空きます。政貞様と氏治様を守る壁が消える」
「ほう。ワシに、我慢せよと言うか」
「はい。難しい役目です」
勘助殿はまっすぐ親父を見る。
「ですが、勝貞殿にしかできませぬ」
親父はしばらく黙っていた。
やがて、太い声で笑う。
「よかろう。ワシは壁になる。佐竹の槍も矢も、この勝貞が受けよう。ただし」
親父は俺を見る。
「政貞」
「はい」
「お前が号令を出す時は、迷うな。ワシがまだ敵の中にいようが、傷を負っていようが、勝機が見えたなら全軍を動かせ」
「父上……」
「戦場で親子の情に引かれれば負ける」
親父の声は、重かった。
「お前は大将だ。ワシの息子である前に、兵三千二百の命を預かる者だ。勝つためなら、ワシも駒として使え」
胸が締め付けられる。
だが、親父の目は本気だった。
俺は深く息を吸い、頷いた。
「分かりました。父上を、勝つために使います」
「それでよい。その顔なら任せられる」
親父は満足そうに笑った。
「これが策の全てです」
勘助殿は地図から手を離した。
「中央前面で勝貞殿が受ける。その後ろで政貞様と小太郎様が旗となり、中央を崩れぬよう支える。左右が敵の広がりを止める。霧丸とちよが敵の命令を断つ。由兵衛が後方を燃やす。江戸殿が付城と負傷者を守る。一郎太が弓兵を束ね、敵の指揮を射抜く。そして敵が乱れた瞬間、予備兵と全軍で佐竹義篤の本陣を討つ」
それは、決して楽な策ではない。
一つでも狂えば終わる。
中央が早く崩れれば終わる。
親父が耐え切れなければ終わる。
由兵衛が見つかれば終わる。
霧丸達が伝令を止められなければ終わる。
敵が乱れなければ終わる。
だがだからこそ、全員が役目を果たした時だけ。
佐竹という大軍を倒せる。
「最後に一つ」
勘助殿が言った。
皆が彼を見る。
「背水の陣とは、退路を断つ策ではありませぬ」
その声は静かでありながら、強かった。
「退かずに勝つと、全軍の心を一つにする策です。誰か一人が生き残るためではない。全員で生きて勝つために、退かぬのです」
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
俺は立ち上がった。
「聞いたな、皆」
目の前にいる仲間達を見る。
傷だらけの者達。
疲れ切った者達。
それでもまだ戦おうとしている者達。
「明日、俺達は佐竹と決着をつける。逃げ道はない。だが、生きる道はある」
拳を握り締める。
「それは、佐竹に勝つことだ!」
氏治様が立ち上がる。
「ワシは退かぬ! 小田の旗を、この背水の陣の真ん中に立てる!」
親父も立ち上がった。
その大きな身体が、軍議の間の空気をさらに熱くする。
「ならばワシは、その旗の前に立とう。佐竹が小太郎様へ届くには、まずこの菅谷勝貞を越えねばならん」
親父は大槍を手に取り、床へ突いた。
「来るなら来い。この老いぼれの槍、まだ鈍っておらぬと教えてやる」
鹿島殿が槍を握る。
大野殿が頷く。
慶幹が静かに笑う。
由兵衛が歯を見せる。
霧丸が頷く。
ちよが拳を握る。
葵が、俺を真っ直ぐに見つめる。
「三平太が繋いでくれた命を」
俺は息を吸った。
「ここで終わらせはしない。明日、俺達は勝つ。小田の未来を、この手で掴むぞ!!」
「おおおおおっ!!」
軍議の間を揺らす声が響いた。
夜明けは近い。
退路を断った者達の、常陸の未来を賭けた戦いが、いよいよ始まろうとしていた。
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