71話 佐竹戦その9
これで役者は揃った。
兵数は圧倒的に不利だ。
付城は傷つき、兵は疲れ、多くの仲間を失った。
だが、それでも俺を含めて、誰一人として勝ちを諦めてはいない。
次に佐竹と戦う時が、俺達の決着の時となるだろう。
俺達の運命を変えるであろう軍議が、今、始まろうとしていた。
軍議の間には、重苦しい空気が漂っていた。
当然だろう。
ここにいる者達は皆、生き残った者達だ。
そして同時に、多くの仲間を失った者達でもある。
皆の身体には包帯が巻かれ、鎧にも無数の傷が刻まれていた。
誰一人として万全な者はいない。
それでも、この場に集まっている。
勝つため。
生きて、勝利を手に入れるためだ。
その中で、ただ一人。
泥と血に塗れた鎧のまま、どっしりと座っている男がいた。
親父。
菅谷勝貞。
宇都宮、結城との戦から離脱し、土浦衆を率いて駆けつけてくれた小田家中一の猛将である。
親父の兵も疲れ切っていた。
それでも親父自身は、まるで山のように動じない。
その姿があるだけで、張り詰めた軍議の空気が、かろうじて折れずに済んでいるように思えた。
「まずは現状を確認致しましょう」
口を開いたのは、勘助殿だった。
机の上へ広げられた地図を指差す。
「我らの兵は約三千二百。対する佐竹は約七千。朝駆けでの損害、橋の崩落、そして慶幹様らとの戦で多少は減らしておりますが、それでも倍以上の兵力差がございます」
あの朝駆けの失敗が効いている。
やはり数にはかなりの差があるか。
心が痛む。
だが、今はその痛みに沈んでいる時ではない。
「付城も限界です。柵は幾つも壊され、兵糧も十分とは言えませぬ。守り続ければ、いずれ押し潰されるでしょう」
「では打って出るか?」
鹿島殿が腕を組む。
「野戦なら兵数差がそのまま出るぞ」
「うむ。守っても負ける。攻めても負ける。なかなかに厳しい状況よ」
大野殿も頷いた。
誰も反論できなかった。
事実だからだ。
もはや俺達には、長く籠城を続ける余裕もない。
だが兵数で劣る佐竹に、真っ向から挑んで勝てる可能性も低い。
沈黙が落ちる。
ただ戦うだけでは勝てない。
何か、この状況を打開する策はないものか。
そう思った、その時だった。
「ならば」
不意に氏治様が口を開いた。
皆の視線が集まる。
氏治様は真っ直ぐ前を見据えながら言った。
「背水の陣を敷いてはどうかのう?」
その瞬間、その場の空気が変わった。
「なっ!? 何を仰いますか!」
真っ先に声を上げたのは勘助殿だった。
「なっ!? わ、ワシ何か変なことを言ったか!?」
「その通りです! そのような策は危険すぎます!」
勘助殿は珍しく声を荒げていた。
それも当然だった。
この追い詰められた状況で背水の陣を用いる。
それはすなわち、負ければ全滅してもおかしくない策であったからだ。
氏治様は、勘助殿の様子に一瞬動揺した。
だが、それでも言葉を続けた。
「父上は言っておった。数で圧倒的に劣勢の時、それを覆すのは極限まで高められた士気の高さだと」
氏治様は、拳を握る。
「退路を絶たれた兵達は、生き残ろうと、勝とうと必死になる。死兵となって槍を振るう。対して、数で優位に立ち、退路のある敵兵は死を恐れる。背水の陣とは、そうした状況を作り出すための策じゃ」
なるほど。
勝ちを確信している兵達からすれば、死兵ほど怖いものはない。
決して退かず。
必死で命を狙ってくる。
生きて帰る気でいる兵達には、恐ろしくて仕方がないだろう。
そして、その士気の差が、数の不利を覆す。
この状況に至っては、非常に合理的な策とも言える。
だが———。
「背水か」
そこで、親父が低く呟いた。
皆の視線が親父へ向く。
親父は腕を組み、地図を見下ろしていた。
「悪くない」
「勝貞殿!」
勘助殿が驚いたように声を上げる。
「本気で仰っておられるのですか!」
「本気だ。今の我らは、守っても細る。逃げても追われる。ならば、どこかで腹を括らねばならん。それが今というだけのことよ」
親父の声は、重かった。
ただ勢いで言っているわけではない。
多くの戦場を見てきた者の言葉だった。
「だがな」
親父は氏治様を見る。
「背水とは、ただ退き道を塞げばよいという策ではありませぬ」
「え?」
「逃げられぬから戦うのでは弱い。勝つために、自ら退き道を捨てる。その覚悟を兵に見せねば、ただの自殺になりまする」
氏治様は、はっとしたように親父を見た。
親父は続ける。
「小太郎様が背水を敷くと仰るなら、氏治様ご自身が、誰よりも先に覚悟を見せねばならぬ。そして政貞も」
親父の視線が俺へ向く。
「お前もだ」
「……はい」
「小田の若き御曹司と、菅谷の若造だけを死地に立たせるわけにはいかん。菅谷勝貞も前に立つ。土浦衆も、ワシと共に背水に並ぼう」
その言葉に、軍議の間の空気が震えた。
親父が出る。
小田家中一の猛将が、自ら背水の陣の前に立つ。
それは兵達にとって、何より強い言葉だった。
勘助殿は唇を噛み締めた。
「し、しかしそれでは、負ければ我らは全滅……」
「負けはしない!」
その時、皆の視線が俺に向いた。
俺は勝つと。
負けはしないと。
そう言い切った。
「戦う前から負けることを考える者が、どこにいる。そうですな、小太郎様?」
「うむ、その通りよ!」
氏治様は力強く頷いた。
そうだ。
俺達に残された勝つ策は、もうそれしかない。
ならば、それを信じて戦い抜くしかない。
しかし、それでもなお勘助殿は食い下がった。
「ですが、それでは負けた時、小太郎様と政貞様は死に、小田の命脈は絶たれます! 家が確実に滅びるのですぞ!」
そうか。
勘助殿は敗北だけでなく、小田家の未来も心配してくれていたのだ。
だからこそ、必死にここまで言ってくれている。
流れ者だった彼が、ここまで小田家のために声を荒げてくれている。
それは嬉しい。
だが、それでもだ。
「勘助殿」
俺は、勘助殿を真っ直ぐに見据えた。
「ここで負ければ、もう流れは佐竹のものとなります。仮に生き残ったとしても、いずれ小田は佐竹に飲み込まれ、家は滅びるでしょう」
俺は拳を握り締める。
「生き残ることだけを考えて退けば、佐竹は必ず追ってくる。城も、領地も、民も奪われる。そして最後には、小田そのものが消える」
言葉にするたび、胸の奥が熱くなる。
「それならば、今ここで全てを賭ける。小田を残すために」
そして———。
「三平太が繋いでくれた命を、未来へ繋ぐために」
勘助殿は唇を噛み締めた。
反論したいのだろう。
だが、反論できない。
俺達が置かれている状況は、すでに退くことすら許してはくれないのだから。
「勘助殿」
そこで親父が口を開いた。
「お主の言うことは正しい。この場の誰よりも、先のことを考えておる。だからこそ、政貞も小太郎様も生き残っておるのだろう」
勘助殿は、親父を見る。
「だがな、時には、正しいだけでは届かぬ戦もある。理で負けるなら、胆で覆すしかない。ワシは戦場では、そうして生きてきた」
親父は、俺と氏治様を順に見る。
「もちろん、犬死にはさせぬ。背水に立つなら、ワシが一番前で佐竹を受ける。政貞は策を動かせ。小太郎様は旗となり、勘助殿は全軍の手綱を握れ。それで、ようやく背水の策になる」
その言葉に、軍議の間が静まり返った。
親父はただの猛将ではない。
力で押すだけの男でもない。
戦場で何を誰が担うべきか、はっきり見えている。
その言葉は、俺達の覚悟を一つの形にした。
「……政貞様」
勘助殿は最後に何かを言おうとした。
だが、やがて口を閉じ、跪いた。
「分かりました。ならばこの勘助、殿のため、小田家のため、最後まで戦い抜く所存です」
その言葉には、並々ならぬ覚悟が秘められていた。
そして勘助殿に続き、由兵衛が膝をつく。
「大将がやるってんなら、俺もやる。三平太の馬鹿が繋いだ命だ。無駄にしたら、あいつに怒鳴られるからな」
霧丸も静かに膝をついた。
「政貞。退けぬなら、退けぬ場所で勝つだけだ。俺は、できることをする」
ちよも目を赤くしながら頭を下げる。
「私も戦うよ。もう誰も置いていきたくないから」
鹿島殿、大野殿、江戸殿も続いた。
そして最後に、親父がゆっくりと立ち上がる。
「では決まりだ」
親父は広間を見渡し、太い声で言った。
「次の戦、ワシが先頭に立つ。佐竹が何千いようと構わん。この菅谷勝貞を越えねば、氏治様にも政貞にも届かぬと教えてやる」
その言葉に、沈み込んでいた者達の目に光が戻っていく。
俺は胸が熱くなるのを感じながら、高らかに宣言した。
「皆、ありがとう! 次が最後の戦となるだろう! その覚悟、確かに預かった!」
俺はさらに続ける。
「だが、誰一人として無駄には死なせん! 小田の未来のために皆で勝ち、生きて帰るぞ!」
「ははっ!!」
皆の覚悟は一つとなった。
負けない。
決して負けない。
俺達は必ず勝ち、皆で生き残り、氏治様が常陸を治める未来を切り開くのだ。
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