66話 佐竹戦その4
佐竹編その4
「よし、皆、準備はいいな」
「「ははっ」」
夜明け前。
恋瀬川を渡る風は冷たく、薄い朝霧が川面を覆っていた。
空はまだ暗い。
だが、東の端だけが僅かに白み始めている。
第二の付城の中では、朝餉の支度が始まっていた。
釜へ水を入れ、火を起こし、わざと煙を多く上げる。
遠目に見れば、俺達はまだ付城の中で朝飯の支度をしているように見えるはずだ。
兵達の姿も、わざと柵の内側に残している。
ただし、それは数を多く見せるための者達だけだ。
本隊はすでに、付城の裏手から静かに動き出す準備を整えていた。
「煙はどうだ」
俺が尋ねると、霧丸が土塁の上から戻ってきた。
「よく上がっている。敵からも見えるだろう」
「ならいい」
俺は頷いた。
佐竹は昨日、橋の崩落で大きな痛手を受けた。
当然、こちらが動くなら警戒する。
だが、朝餉の煙が上がり、付城の中に人影が残っていれば、少なくともすぐには疑わないはずだ。
こちらはまだ守りに徹している。
葵が流した偽情報。
それを最後まで利用する。
「政貞」
葵が隣で小さく声をかけてきた。
「浮かれてない?」
「……おいおい。昨日から何度目だよ、それ」
「何度でも言うよ」
葵は肩をすくめた。
「昨日は勝った。橋も落とした。皆も喜んでる。だからこそ、危ないんだよ」
「分かっている」
「本当に?」
「本当に」
俺が答えると、葵は少しだけ目を細めた。
「ならいいけど」
その声は軽い。
だが、心配しているのが分かる。
だから俺も、真面目に返した。
「朝駆けの目的は、敵を討ち滅ぼすことじゃない。渡河の準備を壊し、敵の立て直しを遅らせる。深追いはしない」
「うん」
葵は小さく頷いた。
「なら、ちゃんと帰るよ」
「もちろん」
俺の前には、菅谷隊を中心に鹿島、大野ら国人衆の兵が整列していた。
総勢およそ五千。
全員が声を発さず、出陣の時を待っている。
鎧の金具には布を巻かせた。
槍や刀が触れ合って音を立てぬよう、持ち方も徹底させている。
松明は持たない。
頼るのは、薄明かりと霧丸達の案内だけだ。
後方には江戸忠通殿の兵が千。
真壁宗幹殿の兵が千。
それぞれ後詰として控えている。
「江戸殿、真壁殿。いざという時は、よろしくお願いします」
「うむ、任せておけ!」
江戸忠通殿は、頼もしく胸を叩いた。
「江戸の意地、存分に見せてやろうぞ!」
その隣で、真壁宗幹殿も静かに頷く。
「後ろは我らに任せておくがよい」
「お主達は、心置きなく佐竹へ当たってこい」
「ははっ」
後詰にこの二人がいる。
そう思えば、こちらも思い切って動ける。
俺は兵達を見渡した。
昼の勝利が効いているのだろう。
誰の顔にも、怯えはない。
緊張はしている。
だが、それ以上に、自分達は戦えるという自信が宿っていた。
この一年、毎日のように鍛え続けた成果だ。
かつて槍を持つことさえおぼつかなかった兵達とは、まるで別人になっている。
「皆、聞け」
俺が声を上げると、五千の兵が一斉にこちらを見る。
「これより川の上流へ回り込み、佐竹の背後を突く。付城では朝餉の煙を上げ続ける。敵は、我らがまだ城に籠もっていると思うはずだ」
兵達は息を殺して聞いている。
「だが、忘れるな。今朝の目的は、佐竹を討ち滅ぼすことではない。敵陣を乱し、渡河の準備を壊し、明日以降の戦を有利にすることだ。敵将を見つけても深追いはするな。火を放ち、敵を乱し、十分に打撃を与えたら直ちに退く。欲張るな。命令を破って前に出る者は、手柄を立てても罰する」
俺が一息に告げると、兵達が力強く頷く。
「「はっ!」」
俺は、それぞれの隊の役割を確認した。
「三平太」
「はっ!」
金棒を肩に担いだ三平太が、嬉しそうに前へ出る。
その後ろには、体格の良い兵達が二百。
由兵衛と同じく、荒っぽいが頼りになる連中だ。
「お前達は先鋒だ。敵陣へ最初に切り込み、敵の目を引きつけろ。中央へ突っ込み、本陣がこちらへ兵を集めるだけ暴れてくれ。後のことは考えなくていい。お前達が暴れるほど、他の隊が動きやすくなる」
三平太は金棒を握り、豪快に笑った。
「任せてください! 暴れるだけなら誰にも負けません!佐竹の連中に、鬼が来たと思わせてやりますよ!」
後ろの兵達も槍を掲げる。
「「おおっ!」」
「ただし」
俺は釘を刺す。
「夢中になって一人で敵本陣まで突っ込むなよ」
「わ、分かってますって!」
三平太は視線を逸らした。
……図星だな。
「由兵衛」
「おう、大将」
「お前は三百を率いて、敵の左右を乱せ。元野盗の戦い方を見せてやれ」
「大将よぉ」
由兵衛は苦笑した。
「いちいち元野盗って掘り返さないでくれよ」
周囲から小さな笑いが漏れる。
「ははっ、事実だからな」
「まあ、そうだけどよ」
由兵衛は槍を肩へ置き、にやりと笑った。
「撹乱なら任せな。まともな戦より、そういう方が得意だ」
「頼む」
次は霧丸だ。
「霧丸」
「何だ、政貞」
「お前には五百を任せる」
霧丸は、わずかに眉を動かした。
「また多いな」
「お前はかつて風魔の上忍として、多くの忍びを率いた経験がある。それを買っているのさ」
「……分かった」
霧丸は短く答えた。
「役目は?」
「敵本陣の要を叩け。敵将を討つ必要はない。伝令役、法螺貝持ち、馬廻り、そして馬を狙え。命令が届かなくなれば、夜明け前の陣は乱れる。ついでに馬も逃がしてやれ」
霧丸が、珍しく少しだけ笑った。
「そういう汚い仕事なら得意だ」
「おいおい、褒めているんだぞ?」
「褒められている気がしないがな」
周囲にまた小さな笑いが起こる。
だが、兵達の目は真剣だった。
「五百も付けた理由は分かっているな」
「ああ」
霧丸は頷く。
「小隊ごとに分け、敵陣のあちこちで混乱を広げる。敵に、どこが本当の攻め口か分からなくさせる」
「その通り」
「任せろ」
霧丸は静かに言った。
「敵が俺達を見失うくらい、乱してやる」
そして、勘助殿。
「勘助には後方に陣取ってもらい、全隊の動きを見てもらう」
「承知いたしました」
「深入りした隊を呼び戻し、危うい隊へ後詰を向ける。退く合図も、勘助に任せる」
勘助殿は、静かに頭を下げた。
「お任せくだされ。ただし、政貞様」
「ああ」
「重ねて申し上げます。勝ちに酔えば、朝駆けはすぐに敗け戦へ変わります。前へ出る兵ほど、自分が勝っていると思いやすい。その時、退く命令を届かせるのが難しくなります」
「分かっている」
俺は頷いた。
「そのために、俺も深くは入らない」
「本隊は敵中央を突き、乱したらすぐ退く」
最後は俺の直属部隊。
槍隊七百。
弓兵隊三百。
合わせて千の精鋭だ。
その中には、一郎太の姿もある。
「本隊は敵中央を突破する。最も危険な役目だが、大将である俺が担うことに意味がある」
兵達が頷く。
どこかで聞いた言葉だが、曰く王が動かなければ兵達はついてこないという。
俺もそう思う。
指揮官が動かなければ、兵はついてこない。
俺が前に出るからこそ、皆も動く。
そう思っているのである。
「殿、時刻も頃合いかと」
勘助殿の声に、俺は空を見上げた。
まだ日は昇っていない。
だが、闇は少しずつ薄くなっている。
朝駆けには、これ以上ない頃合いだった。
「よし」
俺は静かに刀の柄へ手を掛ける。
深く息を吸い、胸の高鳴りを押さえ込み、ゆっくりと吐き出した。
第二の付城では、今も朝餉の煙が上がっている。
敵からは、俺達がそこにいるように見えるだろう。
だが、実際の本隊は、もうここから消える。
「出陣」
声は小さく。
しかし、確かに全軍へ伝わった。
五千の兵が静かに動き出す。
まず、霧丸隊が先行する。
夜目の利く者達が林を抜け、上流へ続く道を探る。
その後ろに三平太隊。
さらに俺の本隊が続き、左右へ鹿島隊、大野隊、由兵衛隊が広がる。
勘助殿は後方から全軍を見渡し、江戸隊と真壁隊はさらにその後ろに控えていた。
恋瀬川の上流。
昨日のうちに調べておいた浅瀬を、音を立てぬよう一人ずつ渡る。
水は冷たい。
だが、兵達は声を上げなかった。
槍を抱え。
腰まで濡れながら。
それでも黙って進む。
対岸へ渡り切ると、霧丸が低く合図した。
「この先、敵の背後へ回れる」
「見張りは?」
「少ない」
「朝炊きの煙を見て、付城ばかりを見ている」
「よし」
俺は頷いた。
全て予定通りだ。
こちらは付城にいると見せかけた。
佐竹は川の正面を警戒している。
その背後へ回り込み、一気に叩く。
これで敵は混乱するだろう。
歩き続けていると、やがて霧丸が拳を上げた。
全軍停止。
その先には、佐竹陣があった。
朝霧の向こうに、焚火の名残がいくつも揺れている。
見張りの兵はいる。
だが、多くの兵は腰を下ろし、あるいは横になっている。
中には鎧を緩めた者まで見えた。
昼の戦で侮ったわけではない。
だが、今朝はこちらがまだ付城にいる。
そう思い込んでいるように見えた。
「予定通りだ」
俺は小さく呟いた。
由兵衛が口元を歪める。
「こりゃあ、野盗でももう少し警戒するぜ」
三平太は金棒を握り締め、今にも飛び出しそうだった。
「殿、もう行っていいですか?」
「まだだ」
「うう……」
「待て」
俺は右手を上げた。
弓兵三百が静かに前へ出る。
狙うのは敵陣中央。
寝起きの兵が最も多く、混乱が広がりやすい場所。
まずは矢で乱す。
その直後に三平太隊が突っ込む。
霧丸隊は奥へ入り、伝令と法螺貝を潰す。
由兵衛達は左右から火を放ち、鹿島、大野隊が敵の援軍を止める。
本隊は中央を突き、敵陣を掻き回して離脱する。
全ては、勘助殿と共に詰めた手筈通り。
俺は静かに腕を振り下ろした。
「放て」
次の瞬間。
朝霧を裂くように、無数の矢が飛んだ。
悲鳴。
怒号。
焚火が倒れ、敵陣に火の粉が舞う。
「敵襲!」
「背後だ!」
「起きろ!」
佐竹兵が慌てて立ち上がる。
その瞬間を逃さない。
「三平太!」
「おうっ!!」
三平太が鬼神のような雄叫びを上げて飛び出した。
金棒が唸る。
一撃で佐竹兵が吹き飛ぶ。
「鬼だ!」
「何だ、あれは!」
「止めろ!」
三平太隊の二百が、敵陣へ食い込む。
それに続き、由兵衛隊が左右へ駆け込んだ。
「こっちだ!」
「いや、あっちにもいるぞ!」
天幕へ火が放たれ、荷車が倒される。
敵は一気に方向を見失った。
霧丸隊も、予定通り本陣奥へ消えていく。
法螺貝の音が鳴りかけ。
すぐに途絶える。
伝令が走ろうとした瞬間、闇の中から刃が伸びた。
「殿!」
一郎太が叫ぶ。
「今です!」
「ああ!」
俺は刀を抜いた。
「本隊、突撃!」
「「おおおおっ!」」
千の精鋭が、敵中央へ雪崩れ込む。
敵は混乱し、まともに槍を構えることすらできない。
こちらの勢いは凄まじかった。
勝てる。
そう思った。
———その時だった。
「……?」
俺は、妙な違和感を覚えた。
敵陣にしては、兵が少ない。
策は決まった。
敵の動揺も本物だ。
叫び声も、混乱も、確かに起きている。
だが本陣にしては、あまりにも薄い。
「政貞?」
葵も同じことに気づいたらしい。
俺のすぐ横で、低く呟いた。
「敵、少なくない?」
「ああ」
五千どころではない。
目の前にいる敵は、せいぜい千五百。
天幕も少ない。
兵糧も少ない。
馬も少ない。
本陣というには、明らかに荷が足りない。
背中を冷たい汗が伝った。
まさか。
これは。
「勘助殿!」
俺が振り返ろうとした、その時。
朝霧を震わせるような法螺貝が鳴り響いた。
ブォォォォォーーッ!!
しかも一つではない。
左右、正面、そして、背後からも。
「なっ……!」
林の向こうで一斉に松明が灯る。
無数、本当に無数だった。
朧げな朝の光そのものが炎へ変わったかのように、佐竹軍の旗が次々と姿を現した。
丸に扇、丸に扇、丸に扇、数え切れないほどの旗が立ち上っていた。
「殿!」
背後から血相を変えた勘助殿が駆けてくる。
「これは本陣ではございませぬ! 囮です!」
勘助殿の叫びに、全身の血が凍り付いた。
「まさか……!」
俺は思わず敵陣を見回す。
今になって分かる。
天幕が少なく、兵糧も少なく、馬も少ない。
最初から、この陣は本隊ではなかった。
俺達を誘い込むためだけに置かれた餌だったのだ。
「しまった……!」
長倉義重が高らかに笑う。
「ははははっ!! 見事に掛かったな、菅谷政貞! まんまと飛び込んできおったわ!」
その声と同時に、左右の林から次々と佐竹兵が姿を現す。
旗の数は昼間とは比べものにならない。
いや、昼以上だ。
八千か、一万か。
この朝霧の中では数え切れない。
「包囲されます!」
勘助殿が叫ぶ。
「殿! 直ちに撤退を!」
「全軍退け!」
俺も即座に怒鳴った。
「隊列を崩すな! 恋瀬川まで戻れ!」
昼間までなら、この命令で十分だった。
訓練された常備兵達は素早く反転し始める。
だが———。
ブォォォォォォッ!!
背後からも法螺貝が鳴り響いた。
「なっ!」
兵達が一斉に振り返る。
恋瀬川へ続く街道。
そこにも松明の列が浮かび上がっていた。
そして、その先頭に翻る旗。
丸に二つ引き、真壁家の旗だった。
「……真壁?」
誰かが呟いた。
次の瞬間だった。
「放てぇぇぇぇっ!」
真壁隊から一斉に矢が放たれた。
「ぐああっ!」
「な、何だ!」
「味方ではないのか!」
撤退を始めた兵達が次々と射倒される。
隊列は一瞬で乱れた。
「真壁殿!?」
江戸忠通殿が目を見開く。
「何をなされる!」
しかし返ってきたのは、真壁宗幹の冷たい笑いだった。
「ふん……誰が貴様らの味方だ。」
真壁殿は槍をゆっくりと前へ向ける。
「真壁勢! 江戸勢を討て! 一人も逃がすな!」
「ははっ!!」
真壁兵千が、一斉に江戸隊へ襲い掛かった。
「謀ったな!」
忠通殿が槍を振るう。
しかし完全に不意を突かれている。
江戸勢は味方と思っていた相手から斬り付けられ、隊列を組む暇すらなかった。
「裏切りだ!」
「真壁が裏切った!」
怒号が夜を切り裂く。
俺は目の前の光景を信じられなかった。
真壁が、裏切った。
いや、違う。
最初から……佐竹側だったのか。
昼間の違和感、敵の動き、そしてこの奇襲。
全て説明がつく。
佐竹は、俺達が夜襲を仕掛けることを最初から知っていた。
葵が流した偽情報。
その裏を、更に読まれていたのだ。
そして、その情報を佐竹へ渡した者。
それが———。
「真壁……!」
俺が歯を食いしばる。
宗幹は俺を見据え、不敵に笑った。
「菅谷政貞、若造らしい策ではあった。だが、戦とは一手先では足りぬ。二手、三手先まで読んでこそ勝つものよ。」
その言葉と同時に、四方から佐竹兵が雪崩れ込んできた。
正面には長倉義重。
左右には伏兵。
背後では真壁が江戸勢を押し潰している。
完全包囲。
逃げ道はもう、なかった。
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