65話 佐竹戦その3
「殿、全て完成致しました!」
「うむ、皆ご苦労だった!」
三日目の昼。
俺は完成した付城を見上げていた。
恋瀬川に架かる橋。
その橋をこちら側から渡った先に、一つ。
橋の手前、こちらの岸に一つ。
さらに上流の浅瀬を押さえるために一つ。
下流の渡しを塞ぐために一つ。
合わせて四つの付城を築いた。
もっとも、城と言っても立派なものではない。
高さ二間ほどの土塁。
その前には深く掘った空堀。
土塁の上には木柵を巡らせ、四隅には見張り櫓を置いた。
急造の土の城。
だが、敵を止めるためだけなら十分だった。
「三日でここまで仕上げるとは……見事ですな」
勘助殿が、付城と橋の位置を見比べながら言った。
「兵も職人も、本当によく働いてくれました」
振り返ると、泥まみれになった兵達が座り込んで水を飲んでいた。
腕も足も土にまみれ、疲労の色は隠せない。
それでも皆、どこか誇らしげだった。
三日で城を築き上げた。
その事実が、彼らの自信になっている。
「飯を配れ! 今日は腹一杯食わせてやれ!」
兵達から歓声が上がる。
「おおっ!」
「ようやく飯だ!」
「腹減ったぁ!」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
その時だった。
「政貞」
背後から、静かな声がした。
宇都宮・結城方面へ偵察に向かっていた霧丸が戻ってきていた。
「霧丸。どうだった」
「政治様達は、宇都宮・結城への急襲に成功した。大きな崩れはない。あちらはすぐには動けないだろう」
「そうか」
俺は胸を撫で下ろした。
「助かった。少し休んでくれ」
「ああ」
霧丸は短く答えた。
それだけ言うと、すぐに周囲へ視線を走らせる。
休むと言いながら、敵が来る方角を確認しているのだから、本当に律儀な男だ。
宇都宮・結城に対して使った策は、葵が提案したものだった。
笠間の間者を逆に利用し、偽の情報を流す。
ただし信用させるために、こちらの軍備や領内の一部の情報も混ぜなければならなかった。
痛みのある策だ。
何より、葵にとっては重い策だった。
俺はちらりと隣を見る。
葵は、こちらの視線に気づくと呆れたように笑った。
「何しけた顔してんの」
「いや……」
「アンタの方が落ち込んでどうすんのさ」
「すまない」
「別にいいって。それに、父上も娘の言葉だからって疑わなすぎなんだよねぇ。あははっ」
軽く笑っている。
だが、それがこちらに気を遣わせないための笑いだということくらいは分かる。
だから、俺はそれ以上言わなかった。
代わりに、ただ一言だけ告げる。
「葵、勝つぞ」
「当たり前じゃん、ばーか」
葵は笑った。
その時だった。
「敵襲!」
物見櫓から叫び声が響いた。
「佐竹勢接近! 街道正面より多数!」
笑い声が、一瞬で消えた。
休んでいた兵達が立ち上がる。
水を飲んでいた者も、飯を受け取ろうとしていた者も、すぐにそれぞれの持ち場へ走った。
「配置につけ! 第一の付城へ兵を入れろ! 第二の付城も弓隊を上げておけ!」
俺も土塁へ駆け上がった。
恋瀬川の向こう。
土煙が幾筋も立ち昇っている。
やがて、無数の旗が姿を現した。
丸に扇。
佐竹の旗だ。
「……来たか」
思わず息を呑む。
昨日までの先遣とは違う。
数が違う。
勢いが違う。
兵達の足並みからも、こちらを一気に潰すという気迫が伝わってくる。
「佐竹本隊ですな」
勘助殿が静かに言った。
「はい」
「第一の付城で受けますか」
「予定通りです」
俺は橋の向こうに築いた第一の付城を見る。
そこは、あえて敵に近い場所に置いた付城だった。
佐竹兵が攻めやすく見える位置。
そして、こちらが苦しくなれば橋を渡って退ける位置。
もちろん。
ただ退くための橋ではない。
「皆、落ち着け!」
俺は土塁の上から声を張った。
「敵が多かろうと、やることは変わらん! この付城は、皆が三日で築いた城だ! 土を掘った手を信じろ! 木柵を立てた腕を信じろ! ここで佐竹を止めるぞ!」
兵達が槍を握り直す。
「おおっ!」
その声に、付城全体が震えた。
やがて、佐竹勢から一騎が進み出た。
「小田の者共! 我こそ佐竹家臣、長倉義重! そのような土遊びで、我らを止められると思うな!」
土塁の上で、兵達が小さく笑う。
「土遊びだとよ」
「三日も掘ったんだぞ」
「腰がまだ痛ぇってのに」
緊張が少し緩む。
悪くない。
敵に呑まれるより、ずっといい。
俺は一歩前へ出た。
「悪いが、その土遊びで止めさせてもらう」
長倉義重は鼻で笑った。
「強がりも今のうちよ! 攻めぇぇぇっ!」
法螺貝が鳴り響く。
佐竹兵が一斉に前進した。
橋の向こう、第一の付城へ殺到する。
「弓隊、構え!」
土塁の上で、弓が一斉に持ち上がる。
「まだだ」
佐竹兵が迫る。
六十間。
五十間。
四十間。
「放て!」
矢が空を覆った。
先頭の兵が次々と倒れる。
それでも佐竹兵の勢いは止まらない。
倒れた味方を踏み越え、盾を掲げ、空堀へ殺到する。
「梯子を掛けろ!」
「柵を倒せ!」
「押せ、押せぇ!」
声が重なる。
第一の付城の前に掘った空堀へ、佐竹兵が次々と降りていく。
そこへ石が落ちる。
槍が突き出される。
さらに十字弓の重い矢が盾を貫いた。
「ぐあっ!」
「退くな!」
「前へ出ろ!」
佐竹は強い。
先遣とは違う。
矢を浴びても、石を落とされても、怯まない者が多い。
長倉義重の怒号が響くたび、兵達はまた前へ押し寄せてくる。
「大将!」
由兵衛が血の付いた槍を握りながら叫んだ。
「こいつら、しつけぇぞ!」
「分かっている!」
俺も弓を引く。
狙うのは先頭ではない。
梯子を持つ者。
指揮を執る者。
旗を掲げる者。
こちらを崩す中心を一つずつ射抜く。
矢を放つ。
一人が倒れる。
次を射る。
また一人。
「相変わらず、とんでもねえな!」
由兵衛が呆れたように笑った。
その横で、ひときわ大きな怒声が響く。
「おらぁぁぁっ! 登ってくるなら、まとめて叩き落としてやるぜぇ!!」
三平太だった。
両手で金棒を握り、土塁へ取り付こうとした佐竹兵を盾ごと叩き落とす。
その一撃で、梯子に手を掛けていた兵が数人まとめて空堀へ転がった。
「三平太! 暴れ過ぎるなよ!」
「分かってますよ、殿! 俺はここで暴れてりゃいいんでしょう? なら任せてくだせぇ!」
三平太は豪快に笑い、再び金棒を振り下ろす。
普段なら無茶を止めるところだ。
だが今は、その力がありがたい。
佐竹兵の勢いを、三平太の暴力的な一撃が確かに押し留めていた。
だが、笑っていられたのはそこまでだった。
佐竹兵の勢いが、さらに強くなる。
空堀の一部が土嚢で埋められ始めた。
木柵に斧が入る。
盾を重ねた一隊が、こちらの矢を受けながら強引に前へ出てきた。
第一の付城だけで止め続けるには、危険な勢いだ。
「勘助殿」
「頃合いですな」
勘助殿は、静かに頷いた。
「ここで粘りすぎれば、本当に崩されます」
「はい」
俺は息を吸った。
そして、声を張り上げる。
「第一の付城を捨てる! 手筈通り、橋へ退け! 慌てるな! 背を向けて走るな! 槍隊は最後まで敵を押さえろ!」
兵達に一瞬、動揺が走る。
だが、すぐに訓練通り動き始めた。
弓隊が下がる。
十字弓隊が下がる。
負傷者を抱え、橋へ向かう。
「由兵衛!」
「おう!」
「殿を頼む!」
「任せろ!」
由兵衛が槍を振るい、迫る佐竹兵を突き返す。
「三平太!」
「はいよ!」
「由兵衛と一緒に退き口を固めろ! だが最後まで残りすぎるな!」
三平太は金棒を肩に担ぎ、白い歯を見せて笑った。
「分かってますって! 俺だって死にたかねえですからね! でも、こいつらが殿の背中に触る前に、何人か叩き潰しておきますよ!」
「ほどほどにしろ!」
「ほどほどに暴れます!」
その返事はまったく信用できなかった。
だが、由兵衛が三平太の襟首を掴むようにして横へ並ぶ。
「三平太、調子に乗り過ぎんなよ。大将に怒られる前に俺が蹴るぞ」
「へっ、由兵衛こそ俺に置いてかれんなよ!」
「言うじゃねえか!」
二人は口では軽口を叩きながらも、迫る佐竹兵を的確に押し返していた。
由兵衛が槍で敵の足を止める。
三平太が金棒で盾ごと叩き落とす。
その豪快な殿があったからこそ、兵達は崩れず橋へ退くことができた。
「小田が退くぞ!」
「逃げた!」
「追え!」
佐竹兵の声が上がる。
第一の付城を越えた敵兵達は、勝ち誇ったように橋へ殺到した。
こちらは橋を渡り、第二の付城へ退く。
橋の手前、こちらの岸に築いた本命の付城だ。
そこへ入った兵達が、すぐに柵の内側へ回り、弓を構える。
「急げ! 負傷者を中へ! 橋を渡り切った者から左右へ散れ!」
俺は最後尾近くで橋を渡った。
足元の橋板が、わずかに軋む。
当然だ。
この橋には細工がしてある。
すぐ壊れるような雑な細工ではない。
こちらが渡る間は持つ。
だが、合図を受けて仕掛けを外せば。
大量の兵が一度に乗った時、耐えられなくなる。
「政貞」
橋を渡り切ったところで、霧丸が現れた。
「最後の者は?」
「渡った。三平太と由兵衛もすぐ来る」
「佐竹は?」
「追ってきている。かなりの数だ」
「分かった」
俺は第二の付城へ駆け込む。
背後では、由兵衛と三平太が最後に橋を駆け渡ってくるところだった。
「急げ!」
「分かってらぁ!」
「うおおおっ、橋が揺れる! 三平太、お前が重いんだよ!」
「由兵衛さんだって人のこと言えねえでしょうが!」
二人が言い合いながら橋を渡り切る。
その直後、佐竹兵が橋へ押し寄せた。
「逃がすな!」
「押せ!」
「小田を追い落とせ!」
橋の上が人で埋まっていく。
先頭はもう半ばを越えた。
後ろからさらに押され、兵達は止まれない。
「殿」
勘助殿が俺を見る。
俺は頷いた。
「今だ」
合図の旗が振られる。
次の瞬間。
橋の下に潜んでいた者達が、仕掛けを外した。
ぎしり、と嫌な音がした。
佐竹兵の何人かが足を止める。
「何だ?」
「橋が———」
その言葉は、最後まで続かなかった。
轟音。
橋の中央が沈む。
次いで、支えを失った橋板がまとめて傾いた。
「うわあああっ!」
「落ちる!」
「押すな!」
「戻れ!」
だが、戻れるはずがない。
後ろから押し寄せる兵が、前の兵をさらに押す。
橋の上にいた佐竹兵が、次々と川へ落ちていった。
鎧を着たまま水へ落ちる。
槍を持ったまま、盾を抱えたまま、次々と。
水飛沫が上がる。
悲鳴が響く。
折れた橋材が流れに巻き込まれ、落ちた兵達をさらに混乱させる。
「弓隊!」
俺は声を張った。
「川から上がろうとする者を狙え! ただし、降伏する者は討つな! 岸へ戻る敵だけを押さえろ!」
矢が放たれる。
川岸へ這い上がろうとする佐竹兵が倒れる。
逃げ戻ろうとする者は、壊れた橋の向こうで味方とぶつかり、さらに混乱した。
「橋が落ちたぞ!」
「退け!」
「前へ出るな!」
「長倉様はどこだ!」
佐竹の隊列は完全に崩れた。
第一の付城を落とした勢いのまま追ってきた兵ほど、川へ落ちた。
後続は橋の崩落を見て止まる。
だが、前は川。
後ろは味方。
そこへ第二の付城から矢が降る。
戦ではなく、もはや混乱だった。
「勝ったぞ!」
「橋が落ちた!」
「佐竹が川に落ちたぞ!」
第二の付城の中から歓声が上がった。
兵達が互いに肩を叩き合う。
疲労も、泥も、恐怖も。
その瞬間だけは、全て吹き飛んだようだった。
由兵衛が大きく息を吐き、笑った。
「大将、やったな! すげえ数が落ちたぞ!」
「ああ。だが浮かれるな。川から上がってくる敵がいる」
「分かってるって!」
そう言いながらも、由兵衛の顔は明るい。
三平太など、金棒を担いだまま腹の底から笑っていた。
「はっはっは! 見ましたか、殿! 佐竹の奴ら、面白いくらい川へ落ちていきましたぜ!」
「三平太、声が大きい」
「勝った時くらい笑わせてくださいよ!」
「まだ勝ち切ったわけじゃない」
「分かってますって。佐竹がまた来るなら、今度も俺が叩き返してやりますよ!」
三平太はそう言って、折れた橋の方を睨む。
その姿は頼もしい。
頼もしいのだが、少し危うくもあった。
今日の大勝で、兵だけでなく将達もまた高揚している。
俺も例外ではない。
勘助殿も川を見つめていた。
「大勝ですな」
「ええ」
俺は頷く。
胸の奥が熱かった。
第一の付城で受ける。
苦しくなったところで捨てる。
橋を渡って第二の付城へ退く。
追ってきた敵を橋ごと落とす。
言葉にすれば簡単だ。
だが、一つでも崩れればこちらが危なかった。
兵達が怯えず退いた。
殿を務めた由兵衛と三平太が踏み止まった。
橋の細工を仕掛けた者達が合図を待った。
第二の付城の兵達が、混乱せず矢を放った。
全てが噛み合った。
だからこその勝利だった。
「……やれる」
思わず、そんな言葉が漏れた。
佐竹は強い。
だが。
こちらも弱くない。
三日で築いた付城。
一年鍛えた兵。
葵の流した偽情報。
勘助殿の読み。
霧丸の偵察。
由兵衛と三平太の働き。
全てが形になっている。
このままいけば、勝てる。
そう思ってしまった。
「政貞」
葵の声がした。
振り返ると、葵が少しだけ眉を寄せてこちらを見ていた。
「何だ?」
「顔」
「顔?」
「ちょっと浮かれてる」
「……そう見えるか」
「見えるねぇ。でも、まあ、今日くらいは少し喜んでもいいんじゃない?」
その言葉に、俺は苦笑した。
「葵にそう言われると、逆に怖いな」
「何それ」
「いや、何でもない」
浮かれている。
確かにそうかもしれない。
大勝だった。
兵達も沸いている。
佐竹の勢いを真正面から受け止め、崩し、川へ叩き落とした。
これで浮かれるなという方が難しい。
だが、戦はまだ終わっていない。
そう分かってはいる。
分かってはいるのだが。
胸の奥にある高揚を、完全には消せなかった。
夕刻。
川向こうの佐竹勢は、乱れた陣を立て直すために大きく後退した。
橋は落ちている。
上流の浅瀬にも、下流の渡しにも、こちらの付城が睨みを利かせている。
佐竹はすぐに再攻撃できない。
第二の付城では、勝利の余韻がまだ残っていた。
「佐竹も大したことねえな」
「橋に落ちた時の慌てよう、見たか?」
「これなら勝てるぞ」
兵達の声があちこちから聞こえる。
俺は少し苦笑した。
「浮かれすぎだな」
「士気が高いのは悪いことではありませぬ。ただし、高すぎる士気は時に目を曇らせます」
勘助殿が静かに言った。
「分かっています」
その時。
一人の家臣が進み出た。
菅谷家の若い侍、飯塚宗次である。
まだ大きな手柄はないが、よく周囲を見て動く男だ。
「殿、申し上げたいことがございます」
「何だ、宗次」
「明朝、朝駆けを仕掛けてはいかがでしょうか」
周囲がざわついた。
「朝駆けだと?」
由兵衛が眉を上げる。
宗次は緊張した面持ちながらも、はっきりと続けた。
「はい。葵様が流された偽の情報では、我らは付城に籠もり、政治様の軍が到着するまで守りに徹することになっております。佐竹も今日の勝負で、我らが橋と付城で守るつもりだと考えたはずです。ならば逆に、夜明け前にこちらから打って出れば、虚を突けます」
悪くない。
今日の勝利で、佐竹は痛手を受けた。
川へ落ちた兵の救助。
橋を失った混乱。
負傷者の手当て。
陣の立て直し。
今夜は眠れない者も多いはずだ。
そして、こちらが籠城に徹すると信じているなら。
朝駆けは効く。
「面白いじゃねえか」
由兵衛が笑った。
「川に落として、さらに朝に叩くってわけだ」
三平太も金棒を担ぎ直し、目を輝かせる。
「いいですねぇ! 寝ぼけた佐竹を叩き起こして、そのままぶっ飛ばすわけだ! 俺、先頭行きますよ!」
「三平太、お前は少し落ち着け」
「落ち着いてますって!」
「金棒を振り回しながら言うな」
由兵衛が呆れたように言うと、少し笑いが起こった。
だが、勘助殿だけはすぐには頷かなかった。
「勘助殿」
俺が見ると、勘助殿は静かに口を開いた。
「朝駆けそのものは悪くありませぬ。ただし、危うさもあります」
「危うさ?」
「はい。今日の勝利で、こちらは少し浮いております。兵も、将も。敵が弱いと思い込めば、深追いする者が出る。また、佐竹ほどの家ならば、今日の敗北で全てが崩れるわけではありませぬ。朝駆けを読まれていた場合、逆にこちらが伏兵へ誘われる恐れもあります」
場が静かになる。
確かにその通りだった。
今日の勝利は大きい。
だが、佐竹がこれで終わる相手なら、関東でここまで勢力を保ってはいない。
「では、勘助殿は反対ですか」
「完全な反対ではありませぬ。行うなら、目的を絞るべきです。敵本陣を討つなどと考えれば危うい。狙うのは敵の前備えと橋材、そして渡河の準備。敵が再び橋を架け、攻め寄せる力を削ぐ。一撃加えたら即座に退く。勝ちを広げるためではなく、敵の立て直しを遅らせるための朝駆けにするべきでしょう」
俺は地図を見た。
佐竹本陣は遠い。
狙えば届くかもしれない。
だが、深追いになる。
こちらが本当に必要としているのは、佐竹を今すぐ全滅させることではない。
恋瀬川を越えさせず、政治様達との連携が整うまで時間を稼ぐことだ。
「分かりました」
俺は頷いた。
「朝駆けを行います」
周囲の空気が引き締まった。
「ただし、勘助殿の言う通り目的は絞る。敵の前備えを叩く。渡河のための材木、縄、舟、土嚢を焼くか奪う。敵本陣へは迫らない。深追いは禁止。合図があれば、必ず退く」
俺は皆を見回した。
「由兵衛、菅谷隊の足の速い者を選べ」
「おう」
「三平太」
「はい!」
「お前には先鋒を任せる。ただし、敵を追い散らす役だ。敵本陣まで突っ込むな。合図があれば必ず退け」
三平太は少し不満そうに鼻を鳴らした。
「敵本陣まで行っちゃ駄目ですか?」
「駄目だ」
「ちょっとだけでも?」
「駄目だ」
「分かりましたよ。じゃあ、敵の前備えだけ派手にぶっ壊して退きます」
「それでいい」
「任せてくだせぇ!」
不安はある。
だが、三平太の勢いは朝駆けには向いている。
だからこそ、役目を明確にする必要があった。
「由兵衛、三平太が前へ出過ぎたら止めろ」
「任せろ。蹴ってでも戻す」
「由兵衛、テメェ俺を何だと思ってるんだ」
「放っておくと敵の大将首まで走ってく馬鹿」
「何だとぉ!?」
「事実だろうが」
また笑いが起きる。
けれど、その笑いの裏にある緊張を俺は感じ取っていた。
「霧丸」
「何だ、政貞」
「夜のうちに敵陣の前備えと、材木置き場を探ってくれ」
「分かった」
「ちよも使えるか?」
少し離れたところにいたちよが、すぐに顔を上げた。
「行けます!」
霧丸が無言でちよを見る。
「……静かにできるなら」
「できるよ!」
「声が大きい」
「今は大きくしただけ!」
葵がくすくす笑った。
「ちよちゃん、今回は本当に静かにねぇ」
「分かってます!」
「だから声」
「あっ」
ちよは慌てて口を押さえた。
少しだけ、場の空気が和らぐ。
俺は葵へ視線を向けた。
「葵」
「何?」
「偽情報を使わせてもらう」
「うん。使えるものは使いなよ。そのために流したんだから」
「……ありがとう」
「礼は勝ってからでいいよ。それに、アンタが調子に乗りすぎないように見ててあげる」
「それは助かる」
「ほんとに助かると思ってる?」
「思ってる」
「ならよし」
夜が近づく。
第二の付城の中では、朝駆けの準備が静かに始まった。
兵には早めに飯を食わせる。
出る者と残る者を分ける。
武具の金具には布を巻き、音を抑える。
松明は必要な分だけ。
火を使う者は限る。
退く合図も、集まる場所も、何度も確認させた。
「いいか」
俺は菅谷隊の者達へ告げる。
「明日の朝駆けは、勝ちに酔って突っ込む戦ではない。敵を崩すための戦だ。一撃でいい。深追いした者は、どれほど手柄を立てても罰する」
由兵衛がにやりと笑う。
「大将にしちゃ、厳しいじゃねえか」
「今日の皆を見ていると、これくらい言わないと危ない」
「まあ、確かにな。皆、勝った勝ったって顔してるしな」
「お前もだ」
「俺もかよ」
「はい」
由兵衛は少し照れたように鼻を鳴らした。
三平太も腕を組み、珍しく真面目な顔で頷いている。
勘助殿は、そんな俺達を静かに見ていた。
「政貞様」
「はい」
「お気をつけくだされ。朝駆けは勢いが命ですが、勢いに呑まれれば負けます」
「分かっています」
そう答えながらも。
俺の胸の奥には、まだ高揚が残っていた。
今日、俺達は佐竹を川へ落とした。
大きな勝ちを得た。
そして明朝。
その勝ちをさらに広げに行く。
それが正しい判断なのか。
それとも、少し浮かれた心が選ばせた道なのか。
まだ分からない。
だが、決めた以上はやるしかない。
俺は壊れた橋の向こうに見える佐竹陣を見つめた。
夜の闇の中。
敵陣の火が、いくつも揺れている。
「勝負は、夜明け前だ」
小さく呟き。
俺は朝駆けの準備へと入った。
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