59話 1543年 政貞、佐竹に寝返りを持ちかけられる
早いもので、あれからもう一年が経った。
この一年は佐竹との戦を控えているとは思えないほど平和な一年だった。
戦はなく、せいぜいあるとしても野盗が出没したぐらいである。
調略の兆しもなく、小田家はまた秋を迎えようとしていた。
だが、その秋を迎えると、佐竹の動きは急激に変化しだしたのである。
まず最初に異変を知らせてきたのは鼠だった。
夜半。
城内の評定の間へと姿を現した鼠は、静かに膝をつく。
「殿」
「鼠か、何かあったか」
「佐竹家が動き始めました」
その一言で部屋の空気が張り詰める。
勘助殿も氏治様も自然と姿勢を正した。
「詳しく聞こう」
「まず兵糧の買い集めが始まっております。それに加え、宇都宮・結城との使者の往来が急激に増えました」
「……やはり来るか」
俺は静かに呟いた。
この一年、こちらも兵を鍛え、城を整え、備蓄を蓄えてきた。
向こうも何もしていなかったわけではない。
むしろ、この一年は互いに牙を研ぐ時間だったのだ。
鼠はさらに続ける。
「そしてもう一つ」
「まだあるのか」
「こちらを」
そう言って鼠が懐から二通の文を取り出した。
どちらも封は切られていない。
宛名を見る。
その宛名は———
「俺?」
「な、何じゃと!?」
そこには俺こと菅谷政貞の名前が書かれていた。
「佐竹方の忍びが届けようとしていたものを途中で押さえました」
「な、何で佐竹が政貞に書状を送る必要があるんじゃ!?」
「まあ見てみれば分かりますよ」
動揺する氏治様とは裏腹に、書状の中身がどういうものか俺は察しがついていた。
書状を開き見ると、そこには予想通りのことが書かれていた。
『菅谷政貞殿』
『貴殿の才、誠に惜しむ』
『小田のような小勢力に埋もれるには惜しい人物なり』
『今度の戦にて我らへ味方するならば、旧小田領一円を与え、さらに常陸南部一帯を任せ、独立を認めよう』
『政貞殿ほどの人物が氏治などに従う必要はあるまい』
『返答を待つ』
佐竹義篤
「……ふふっ、はははっ!」
思わず笑ってしまった。
あまりにも予想通りすぎる内容だったからだ。
「ど、どうしたのじゃ政貞、そんなにおかしい内容だったのか!?」
「ええ。俺に小田家を裏切れと、そうすれば小田領をやると書いてありました」
「ななな、なんじゃとぉ!?」
これまた大袈裟なほど驚く氏治様。
それに対して、鼠と勘助殿は冷静だった。
「まあ予想はしておりました。菅谷家は今や、小田家最大の勢力を持つ存在。そこへ調略を仕掛けるのは当然というものでしょう」
「まあ、そうだな。むしろ遅いぐらいだ」
まあそれだけあちらも必死ってことだろうけどな。
「政貞、駄目じゃぞ! いくら物珍しい本や物をやると書いてあっても裏切っては!!」
「俺を何だと思ってるんですか……小太郎様じゃあるまいし物で釣られませんよ」
「な、何じゃとぉ!! ワシがいつ物で釣られ……」
「かくれんぼの時、俺が物珍しい物を持ってくると毎度釣られてましたよね?」
「ぐぬぬ……」
はははっ、何も言い返せまい。
「まあでも、はなっからあちらも期待はしていないでしょうね」
「ええ、駄目で元々というところでしょうな」
勘助殿の言葉に頷くと、俺は書状をビリビリと破き捨てる。
「あっ!! よ、よいのか政貞!?」
「よいのかって……小太郎様は俺に裏切って欲しいんですか?」
「決してそうではないが……し、しかし、これはお主にとっても好機なのではないか? この要求を飲めばワシに仕える未来ではなく、大名として生きる未来が待っておるのだぞ」
大名、か……。
「確かに、憧れたことがないと言えば嘘になりますね」
「じゃ、じゃろ!?」
「でも、そんなもの小太郎様達を裏切って手に入れても何の価値もありません。裏切りによって手に入れた地位は近いうちに奪われるでしょう」
それは史実の斎藤道三や浅井長政等、戦国大名達も証明していることだ。
「その他にも理由は色々あります。道理に反してるからとか、裏切りは気に入らないとか、でも一番の理由は単純です」
俺は氏治様をじっと見据えて言った。
「小太郎様、俺は貴方と歩んでいきたいからですよ」
「わ、ワシと、か?」
氏治様は目を丸くしたまま、しばらく言葉を失っていた。
「ええ」
俺は少しだけ笑って続けた。
「正直に言いますよ、小太郎様。貴方は勉強は嫌いですし、読み書きも面倒くさがる」
「うっ……」
「それに以前、試しに模擬戦で軍の指揮を任せた時なんて……」
俺は苦笑する。
「あれは酷かった。敵が五百しかいないのに、味方千を壊滅寸前まで追い込むなんて、ある意味才能ですよ」
「ぐはぁっ!」
氏治様は胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
「い、言うでない……! まだあの時のことを根に持っておるのか……!」
「忘れられるわけないじゃないですか」
俺は肩をすくめる。
「勘助殿なんて、あの日以来、若様には軍配だけは絶対に持たせるなって本気で言ってましたし」
「勘助までぇぇぇ……!」
横で勘助殿が咳払いを一つした。
「……事実でございますので」
一同から笑いが漏れる。
だが、俺はすぐに真面目な表情へ戻った。
「確かに、小太郎様は戦の才能はありません。俺や親父、勘助殿の方が、その点では遥かに上でしょう」
氏治様は少しだけ俯いた。
「……やはり、そうか」
その声は、どこか力がなかった。
「でも」
俺は首を横に振る。
「だからといって、小太郎様が俺達より劣っているなんて、一度も思ったことはありません」
氏治様が顔を上げる。
「小太郎様には、小太郎様にしか出来ないことがあります」
「……何じゃ?」
「民と歩むことです」
静かな声で言った。
だが氏治様は言葉の意図が分からなかったのか、首を傾げた。
「それは……一体どういうことじゃ?」
「小太郎様、貴方は昔から民達と身一つでぶつかり、共に畑仕事に精を出したり、悩み事を聞いて解決したり、常に民に寄り添い、真摯に向き合ってきました」
「そ、それが何じゃ、小田家次期当主として当たり前のことをしただけじゃぞ?」
「その当たり前は、他の多くの大名達にはできないことなんです」
そう、はっきり言って氏治様より優秀な戦国大名なんていくらでもいる。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……関東に絞っても北条氏康、佐竹義重、そして氏治様の父の政治様とそれこそ両手で数えられないほどいるのだ。
だが、氏治様には彼らにはない氏治様だけの才能がある。
それが人に好かれる才能。
氏治様は百姓であっても同じ目線で物を見て、共に励み、悩み、時には泣いてくれる。
それはこの時代の戦国大名としてはあり得ない姿だが、それゆえに人々の心を掴んで離さず、氏治様が好かれ慕われる大きな理由となっているのだ。
「たとえ自分が優秀でなかったとしても、人に好かれる才能を持つ者のところには優秀な者達が集まり、小太郎様を支えてくれます。そしてその者達は皆、小太郎様を好いて集った者達なので裏切らないのです」
「それは……政貞や勘助のことか?」
「……自分で自分のことを優秀とか言うの嫌ですけど、まあそうですね。俺は小太郎様が主である前に、好きだから仕えているわけですから」
俺は城下で見てきた光景を思い返す。
畑仕事を終えた老人に笑顔で声を掛ける氏治様。
泣いている子どもをあやす氏治様。
祭りでは身分を忘れて皆と笑い合う氏治様。
あれは演技ではなく、あの人の本質だ。
「それに戦で勝つだけなら、優れた将がいれば何とかなります。ですが、民から慕われる殿様は、戦の上手い殿様よりずっと少ないと、俺はそう思っています」
部屋は静まり返っていた。
「だから俺は、小太郎様を支えたい。戦は俺達が何とかします。でも、戦の後に国をまとめ、民を安心させられるのは、小太郎様しかいません。俺には出来ないことです」
一歩、氏治様へ近付く。
「だからこそ、俺は貴方と歩んでいきたい。そう思っています」
氏治様は目を見開いたまま固まっていた。
やがて目元を袖で乱暴に拭い、
「……政貞」
震える声で呟く。
「そのようなことを真顔で言うでない。泣いてしまうではないか」
「え? もう泣いてますよ」
「う、うるさい!」
真っ赤になって言い返す氏治様に、その場にいた全員が思わず笑った。
戦は近い。
だがその笑い声は、不思議と誰の心からも不安を少しだけ取り払っていた。
一方その頃、府中の外れにて葵は一人の男と会っていた。
男は黒ずくめの装束に身を包み、いかにも只者でない様子であった。
葵は男に一枚の書状を渡すと、男はそれを受け取り頭を下げる。
「確かにお受け取りしました、姫様」
「うん、父上達によろしく言っておいて」
「ははっ」
忍びは頷くと、すぐに夜の闇に紛れて消えた。
そして忍びの気配が完全に消え去り、一人残された葵は暗い夜空を見ながら一人呟いた。
「……ごめんなさい」
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