43話 目指すは鹿島
1542年 太田城
「島崎まで小田へ下ったか……」
佐竹義篤は静かに呟いた。
その声には怒りが滲んでいた。
広間には重臣達が集められている。
先日届いた報せ。
島崎俊興が小田家への従属を決断したという内容は、家中へ大きな衝撃を与えていた。
これにより小田家の勢力はさらに拡大した。
府中に土浦、大掾に加えて島崎まで、霞ヶ浦北岸の大半が小田の影響下へ入ったことになる。
義篤は拳を握り締めた。
「もはや、放置はできぬな」
その一言に、広間の空気が張り詰める。
「今や小田は常陸南部の覇者よ。これ以上勢力を伸ばせば必ず我らの脅威となる」
義篤は周囲を見渡した。
「討つべきだ」
即座に賛同する声もあった。
「御意!」
「今のうちに叩くべきかと!」
「大掾も島崎も取り込まれた今、小田を止めるのは我らしかおりませぬ!」
若い武将達は威勢よく叫ぶ。
しかし。
「お待ち下さい」
重臣の一人が口を開いた。
義篤が眉をひそめる。
「何だ」
「確かに小田は脅威にございます。しかし今、小田と全面戦を行うのは危険かと」
「危険だと?」
義篤の目が鋭くなる。
だが重臣は怯まず続けた。
「南へ全軍を向ければ、北が手薄になります」
広間が静まり返る。
誰もが理解していた。
佐竹家は常陸だけを見ていれば良い立場ではない。
北には岩城、白河、蘆名、そして———伊達。
油断すればいつ牙を剥くか分からぬ勢力が存在する。
「小田と戦っている最中に北から攻め込まれれば、我らは挟撃を受けます。それは避けねばなりませぬ」
義篤は腕を組んだ。
それはもっともな意見だった。
感情では反論できても理屈では反論できない。
さらに別の重臣も口を開く。
「今の小田との戦は短期決戦では終わりますまい。大掾も島崎も従えております。たとえ早期に勝てたとしても、こちらの被害は甚大なものとなりましょう」
義篤は舌打ちした。
それもまた事実だった。
昔の小田なら話は別だ。
だが今の小田は違う。
全ての変革は土浦から始まった。
最初の変化は霞ヶ浦における港の整備と水産業の強化、ただそれだけだった。
しかしそれからたったの2年で小田領内全体が大きく栄え、以前とは比べ物にならないほど良い噂を聞くようになった。
百姓は豊かになり、領内は発展し、民心は強固。
しかも兵もよく鍛えられている。
それに加えて、現在では大掾領と島崎領を支配し、笠間も実質従属下に置いている。
簡単に倒せる相手ではない。
下手をすれば、千葉家が介入してくることも考えられる。
「ではどうしろと言う」
義篤が問う。
すると年長の宿老がゆっくりと頭を下げた。
「まず北を固めるべきかと」
「……続けよ」
「岩城との関係を見直し、白河とも不可侵を結ぶ。必要なら婚姻も行う。さらに北境の城を整備し、兵糧を備蓄する」
義篤は黙って聞いていた。
宿老は続ける。
「後顧の憂いを断ってから小田を討つ……それが最善かと存じます」
広間の多くが頷いた。
若い武将達ですら反論できない。
義篤はしばらく考え込んだ。
やがて。
「……よかろう」
重臣達が顔を上げる。
「小田を討つことは変わらぬ。だがその前に北を固める!」
その言葉に安堵が広がった。
義篤は立ち上がる。
「岩城へ使者を出せ! 白河とも交渉を始めよ! 北境の城の普請も許可する!」
「ははっ!」
一斉に頭が下がる。
こうして佐竹家は動き始めた。
目指す先は一つ。
常陸統一。
そのための準備である。
しかし、義篤は誰にも聞こえぬよう小さく呟いた。
「待っておれ、政治……」
その目には強い闘志が宿っていた。
今はまだ動かない。
だがいずれ必ず。
常陸を二分する戦が訪れる。
義篤はそう確信していた。
一方その頃。
府中城。
「……佐竹が動き始めたか」
風魔の忍びから報告を受けた俺は、地図へ視線を落とした。
「予想より早かったな」
佐竹は北を固め始めた。
つまり、いずれこちらへ矛先を向けるつもりだということ。
隣にいた勘助殿に問う。
「佐竹が小田との戦に集中するために解決すべき問題は具体的に幾つある?」
勘助殿は地図へ目を落としたまま、静かに口を開いた。
「少なくとも三つ」
「三つか」
「はい」
勘助は指で地図の北を示した。
「一つ目は岩城」
なるほど、それは予想通りだ。
岩城は佐竹の北東に勢力を持つ大名家だ。
勢力こそ佐竹より小さいが、背後を脅かすには十分な存在である。
「今の岩城は佐竹と決定的に敵対しているわけではありません」
「だが味方でもない」
「左様」
勘助殿は笑った。
「佐竹が南へ兵を向ければ、岩城は必ずその隙を考えます」
「だから義篤はまず岩城を押さえねばならぬ、と」
「はい」
勘助殿はさらに指を動かす。
今度は北西。
「二つ目は白河」
「白河か」
「白河結城、蘆名、那須。その周辺勢力との均衡を崩せば、佐竹は北西から圧力を受けます」
俺は地図を見つめる。
確かにその通りだった。
佐竹が南へ総力を向ければ、白河が動き、白河が動けば蘆名も動く。
蘆名が動けば奥州の情勢も揺れる。
佐竹はそれを無視できない。
「つまり白河との不可侵」
「あるいは婚姻」
「時間が掛かるな」
「ええ」
勘助殿は頷いた。
そして最後の場所を指差した。
さらに北。
「そして三つ目」
「伊達でございます」
伊達か……。
伊達といえば、後に東北を制する名門。
今はまだ後の覇者、政宗も生まれていない時代だが、それでも無視できる存在ではない。
「伊達は直接攻めて来るか?」
「来ぬでしょう」
勘助は即答した。
「ですが」
「ですが?」
「来るかもしれぬ、と思わせるだけで十分です」
政 俺は思わず笑った。
「なるほど」
「戦とはそのようなものです」
勘助殿も笑う。
「敵が来るか来ぬか分からぬ。それだけで兵は動けなくなります」
「確かにな」
俺は腕を組んだ。
つまり佐竹は、岩城、白河、伊達、この三方向を気にしながら小田と戦わねばならない。
それは決して簡単な話ではない。
すると勘助殿が意味深に言った。
「そして殿」
「何だ?」
「それら三つの問題は、我ら次第で四つにも五つにも増やせます」
政貞の口元が吊り上がる。
「風魔か」
「はい」
勘助は頷いた。
「岩城へ噂を流流し、白河へ密使を送る。伊達へ佐竹南征の情報を流す。それだけで佐竹は疑心暗鬼になります」
俺は地図を見つめた。
確かに戦をする必要はない。
疑わせ、警戒させればいい。
それだけで時間は奪える。
「半年」
俺が呟く。
「いや」
勘助が首を振った。
「一年は稼げましょう」
「そんなにか」
「佐竹ほどの大身となれば動くほど慎重になります」
勘助殿は地図の佐竹領を指差した。
「大軍を動かすということは、大勢の敵を作るということ、つまり動く前の準備が長くなるわけですな」
「なるほどな」
俺は納得した。
佐竹は今すぐ攻めて来ない、来られない。
そしてその時間こそが、小田家にとって最大の武器だった。
勘助殿はゆっくりと続ける。
「その間に我らは鹿島を取り、港も掌握し、さらに兵を増やし、商いも発展させます。そして———」
勘助殿の目が鋭くなる。
「佐竹が準備を終えた時には……ふっ、既に常陸南部は完全に小田のものとなっているでしょう」
俺は静かに笑った。
「つまり。佐竹は一年前の小田と戦うつもりで来るが、実際には全く別物と戦うことになるわけだ」
「左様」
勘助殿は満足そうに頷いた。
元々、鹿島を手に入れることは政治様にも命じられていたことだ。
佐竹に対抗するためにも、政治様の期待に応えるためにも今回は必ず成功させたい。
しばし沈黙が流れる。
やがて俺は地図の鹿島へ指を置いた。
「ならばやることは決まったな」
「はい」
「まずは鹿島だ」
その数日後。
普段通り政務を行っていたところ、障子の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
「殿!」
風魔の忍びだった。
「鹿島より急報!」
俺と勘助殿は顔を見合わせる。
そして忍びは息を整える間もなく告げた。
「鹿島家中にて内紛が発生いたしました!」
俺は目を細めた。
内紛。
鹿島では珍しい話ではない。
だが今の俺達にとっては。
「使えるな」
「使えますな」
勘助殿と同時に言った。
考えることは同じだ。
俺は忍びへ命じる。
「小田領に近い国人衆達へ接触しろ」
「はっ」
「そして争っている家々を調べろ。どの家が困っているか、どの港を持っているか、どこが小田と手を結びそうかを一つ残らずだ」
「承知致しました」
忍びは音もなく姿を消した。
俺は地図の鹿島を見つめる。
佐竹は北を固める。
その間にこちらは南を固める。
そして鹿島。
ここを取れば———
常陸南部は完全に小田の勢力圏となる。
「忙しくなるな」
俺が呟くと。
勘助殿は静かに笑った。
「ようやく始まるのでございますよ」
「鹿島攻略が」
こうして小田家は本格的に鹿島へ手を伸ばし始める。
それは後に常陸の勢力図を大きく塗り替える戦いの始まりであった。
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