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39話 風魔来る その1

「うぅ……兄さんひもじいよぉ……」


「耐えるのだ……ちよ。もうすぐの、辛抱だ」


 小田領内霞ヶ浦の近辺にて、2人の兄妹が歩いていた。


 その格好は見窄らしく、旅装を身に纏いよろよろとしたその動きから、何日も飲まず食わずで疲労が蓄積していることは誰の目から見ても明らかである。


「ねえ兄さん、やっぱりさっきの村から食べ物盗んどけば良かったんだよ」


「馬鹿を、申すな。武士ならともかく、ひもじい民百姓相手に盗みを働くわけには、いかぬ。たとえ、このような時であってもだ……」


「でも……」


 妹がそう言いかけた時、隣でばたりと何かが倒れる音が聞こえた。


 妹は咄嗟に振り向く。


「あ……あぁっ!?」


 そこにあったのは、地面に倒れ伏す兄の姿であった。


「に、兄さんっ!!」


「ちよ……俺のことは捨ておけ。お前だけでも生き延びるのだ……」


「そんなのできるわけないよ! 私、食べ物が近くにないか探してくる!!」


「ま、待て、ちよ……!」


 兄は静止しようとするが、彼を助けたい一心で走り出した妹の心には届かない。


 妹はあるかも分からない食べ物を探して、小田領を駆けるのであった。





 一方その頃———


「皆、馬の扱いにも慣れてきたな!」


「へい!」


「もう楽々ですよ!」


 その日、俺は菅谷隊の皆と共に騎馬の修練をしていた。


 走行コースは霞ヶ浦周辺であり、平地で比較的走りやすい場所である。


 新しく家臣に加わった者もおり、彼らの多くが百姓だったということでこうして騎馬の練習を行っているのだ。


 最初は不慣れだった彼らも、今では楽々と乗りこなせるようになっていた。


 この調子だと、次のステップに入ることができるのももうすぐだろう。


 次はもっと荒れた地面を走る練習をしてもらうとするか。


 そんなことを考えていた時だった。


「と、殿! あれ、あれ見てください!!」


 突然、三平太が大声を上げ、霞ヶ浦の方を指したのである。


 俺は三平太の指す方を見る。


「なっ!?」


 するとあろうことか、この霞ヶ浦で溺れている者がいるのだった。


 しかもその者は女性で、周りに誰もいない。


 一体何で女性が1人で霞ヶ浦にいて、さらに溺れているのか。


 意味は分からなかったが、俺のやるべきことは分かっていた。


「殿、助けましょう!」


「勿論だ!」


 俺と三平太は素早く馬を走らせると、霞ヶ浦の沖合まで駆ける。


 そして馬から降りると、急いで女性の元まで泳ぎ2人で女性を支える。


「このまま戻るぞ!」


「はい!」


 そして俺達は女性を陸地まで運ぶと、馬具を外し敷物代わりにして女性を寝かせた。


「三平太、身体抑えといてくれ」


「ははっ!」


 三平太に体を抑えさせると、俺は女性の体の上に両手を置く。


 さて、初めてやるが上手くいくだろうか。


 不安に思いつつも、俺は知識通りにそれを実行。


「わっ、水が!?」


「俺がいいと言うまで抑えてろよ」


 俺は女性の体を圧迫し、女性が飲んだ大量の水を吐き出させていく。


 そしてそれを数回繰り返すと、口から水は放出されなくなった。


「よし、もう大丈夫だ」


「へい! それで殿、この娘大丈夫でしょうか?」


「息はある。じきに目を覚ますだろう」


 呼吸は安定している。


 それに一安心したところで、家臣の者達が俺に続いてやってきた。


 俺は立ち上がると、皆に向けて命じる。


「今日の鍛錬は終わりだ。皆府中に戻り、各々の仕事に戻れ。由兵衛、お主は部下と共に残ってくれ」

 

「「ははっ!」」


「了解だ、大将!」


 俺の言葉を受け、家臣達は皆その場を去っていった。


 そしてその場には俺と三平太と由兵衛、その配下だけが残った。


「で、大将。何で俺達を残したんだ?」


 由兵衛の当然の問いに、俺は答える。


「この娘、少し気になるんでな」


「気になる?」


「ああ。普通、百姓の娘が一人でこんな場所まで来るか?」


 俺は倒れている少女へ視線を向けた。


 年の頃は恐らく13か14ほどか。


 髪は乱れているが、不自然に短く切り揃えられている箇所がある。


 そして何より――


「手だ」


「手?」


 由兵衛が首を傾げる。


 俺は少女の手を軽く持ち上げた。


「見ろ」


「……あ?」


 由兵衛の眉がぴくりと動いた。


 小さな手。


 しかし、掌には固い皮ができている。


 それも農作業のものではない。


 縄を握り、木を登り、刃物を扱う者の手だ。


「百姓の娘じゃねえな」


「ああ」


 三平太も神妙な顔で頷いた。


「しかも服の縫い目が妙だな」


 由兵衛が少女の袖を指差す。


 内側に小さな隠し袋が縫い付けられていた。


「……なるほどな」


 俺は内心で確信した。


 この娘、ただの旅人ではない。


 その時だった。


「うっ……」


 少女の睫毛が震える。


「目を覚ましたぞ!」


 三平太が声を上げる。


 少女はゆっくりと瞼を開き、ぼんやりと空を見上げた。


「ここ……は……?」


「安心しろ。お前は霞ヶ浦で溺れていたんだ。俺達が助けた」


 俺がそう言うと、少女ははっとしたように飛び起きた。


「に、兄さん!!」


 その叫びに全員が顔を見合わせる。


「兄さん?」


「兄さんが……!」


 少女は慌てて立ち上がろうとする。


 だが体力が尽きていたのか、その場によろめいた。


 俺は慌てて支える。


「落ち着け。何があった?」


「お願い! 兄さんを助けて!」


 少女は涙目で俺の袖を掴んだ。


「兄さんが倒れたの! もう何日もろくに食べてなくて!」


 その言葉に嘘はなさそうだった。


 少なくとも兄のことを心配しているのは本心だろう。


「場所は分かるか?」


「う、うん!」


「由兵衛」


「ああ」


 由兵衛はすぐに察した。


「行くぞ野郎共!」


「へい!」


 配下達が動き出す。


 俺も少女へ頷いた。


「案内しろ」


「ほんと!?」


「ああ。兄を助けに行く」


 少女の顔に希望が灯る。


 そして俺達は彼女の案内で湖畔を進み始めた。


 そして、十分ほど歩いた頃だ。


「兄さん!」


 少女が駆け出した。


 木陰に一人の青年が倒れている。


 顔色は酷く悪い。


 だが———


 俺の目は別のものを捉えていた。


「……由兵衛」


「ああ」


 由兵衛も気付いたらしい。


 俺が注目していたのは青年の腰。


 そこには使い慣れた様子の細身の短刀があった。


 さらに足袋の擦り減り方や山野を長く駆けた者特有の傷跡。


 そして倒れているはずなのに、俺達が近付いた瞬間だけ僅かに呼吸が変わった。


 意識があるな。


 死にかけている演技ではない。


 警戒している。


 こちらの出方を窺っているのだ。


 やはりこの男、間違いなく只者ではない。


 妹の方は俺達に警戒するそぶりを見せていなかった。


 だが兄は違う。


 こいつは最後まで警戒を解いていない。


 そしてそれを悟られないようにする周到さ。


 そしてこの技量、まず間違いないだろう。


 忍びか。


 しかも流れ者ではなく、どこかの家に仕えていた経験がある。


 そんな予感がした。


 すると次の瞬間、青年がゆっくりと目を開いた。


 そして俺達を見る。


 鋭い眼光。


 飢えているはずなのに、その目だけは死んでいなかった。


「……妹を助けていただき、感謝する」


 そう言うと青年は頭を下げた。


 だがその右手は、いつでも短刀を抜ける位置から動いていない。


 感謝をしつつ、警戒は解かないか……流石だな。


 しかし、俺は彼を傷つけるつもりはない。


 俺はしゃがむと、彼の刃が届く距離まで近づく。


 その行動に、青年は僅かに動揺を見せる。


「安心しろ。別に取って食おうってわけじゃない」


「…………」


「それより飯だ」


 俺は由兵衛に視線を送る。


 由兵衛は携帯していた干飯と干魚を放り投げた。


 青年は反射的に受け取る。


 その動きは速かった。


 飢えた百姓にはできない動きだ。


 俺は確信を深める。


 青年は少し沈黙した後、小さく言った。


「……なぜだ」


「何がだ?」


「見ず知らずの我らを助ける理由だ」


 俺は肩を竦めた。


「特に理由はないが、強いて言えばそうだな……」


 俺はその瞬間、自身の主の顔を思い浮かべた。


「俺の殿は困っている人間を決して見捨てない。だから俺も助けた、そんな理由かな」


 俺はただそう言って、青年に笑いかけた。


 そんな俺の言葉に、青年は笑うでも呆れるでもなく、ただ無表情で返した。


「お人よしだな」


「否定はできないな。でも俺はお人よしが好きだ、こんな世の中だからこそな」


「……違いない」


 青年は初めてそこで笑った。


 そして警戒を解いたのか、渡された食べ物を食べ始める。


 一方、俺たちの話が終わるまで我慢していた様子の妹も勢いよく食べ始めた。


 うん、いい食いっぷりだ。


 しかし兄の方はまだしも妹の方は全く忍者らしくないな。


 そんなことを考えつつ、俺は彼らの素性に踏み入ることにした。


「つかぬことを聞くが」


 俺は青年を見据えた。


「お主達、ただの旅人じゃないだろ?」


 その瞬間。


 空気が変わった。


 由兵衛達も静かに腰へ手を伸ばす。


 青年の目が細くなる。


 妹だけがきょとんとしていた。


「……何のことだ」


「とぼけるなよ。その身のこなし、只者でないことは分かる。言っておくが俺は正体が何にしろ敵対するつもりはない。だが、助けたわけだし正体ぐらい聞かせてくれてもいいんじゃないか?」


 俺達の間を沈黙が支配する。


 しかし、それを破ったのは妹であった。


「ねえねえ、話してもいいんじゃない? この人達なら皆んなのことも助けてくれるかもだよ?」


 兄は妹の顔を一瞥する。


 その表情にあまりに警戒の色がなかったのが理由か、兄は大きくため息をついた。


「お主はもう少し警戒するということを覚えろ。まあいい、どの道あやつらも長くないだろうからな」


 兄はこちらへと視線を向ける。


「では名乗らせてもらおう。俺は風魔霧丸、そして妹が千夜。俺たちは元風魔衆の———抜け忍だ」

ここまで読んでくださりありがとうございます!

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