31話 決着! 千葉会談
俺の一言で、使者は襖の向こうから堂々たる姿で進み出た。
一目で分かる。
鍛えられた肉体にその立ちずまい、きっと千葉家の中でも名のある武将なのだろう。
そう一目で判断できる覇気を使者は放っていた。
それに加えて、使者は堂々と、しかし丁寧な所作で俺達の前に座ると深々と一礼した。
それを見た俺は氏治様を一瞥する。
そして俺の視線に気づき、その意図に気付いた氏治様は声を上げる。
「面を上げよ」
うん、堂々とした良い声だ。
そして氏治様の言葉を受けて使者は頭を上げ、名を名乗り始めた。
「お初にお目にかかり申す。拙者、千葉家当主昌胤様の使者として参りました原胤貞と申します。以後お見知りおきを」
原胤貞、聞いたことのある名だ。
確か千葉家の家臣の中でも名のある武将であったと記憶している。
原家に関しては確か一時期、主家をも凌ぐ力を持っていたとか、そんな情報を目にしたことがあるな。
「うむ。ワシは府中城主小田小太郎である。原殿、此度はどのような用で参ったのだ?」
「ははっ! 単刀直入に申し上げます。我が千葉家と小田家にて、霞ヶ浦を挟む不可侵の取り決めを結びたく、参上仕りました」
室内の空気が、一瞬だけ静止した。
不可侵。
その言葉の重さに、誰もがわずかに息を呑む。
やはりそこかと、俺は内心で呟いた。
千葉家としてはいきなり盟を結ぶつもりはないにしても、小田家と戦が起きるようなことは避けたいと考えているだろう。
だからこそ今回、まずは互いの線引きを明確にしに来たわけである。
「不可侵、であるか」
最初に口を開いたのは凝淵斉殿だった。
落ち着いた声で、使者・原胤貞を見据える。
「霞ヶ浦を境とし、互いに兵を動かさぬという理解でよろしいか」
「左様にございます」
原は即答する。
「我が千葉家としても、北条・里見に挟まれる中で新たな火種を増やす意図はございませぬ。ゆえに霞ヶ浦南岸の安定を保ち、互いに治めを安んずるための約定にございます」
理屈は通っている。
今語った言葉も決して嘘ではないだろう。
「つきましては互いの港付近に軍船及び偵察船、その一切を近づける事を禁じる事を不可侵の条件として提示いたします」
「なるほど」
凝淵斉が一度頷く。
その横で常陸介も静かに言葉を続けた。
「互いに無用な衝突を避けるという点では、理に適っておりますな」
家臣たちの間にも、安堵の気配が広がる。
戦を避けられる。
それだけで、彼らにとっては十分に価値があるのだろう。
そうだ、彼らの言う通り無用な衝突をさけることはできる。
しかし、それだけだ。
互いの安全を確保できるだけでそれによって利益が生まれるわけではない。
だからこそ俺はそこで、一歩前に出た。
「少しよろしいか」
空気が引き締まる。
全員の視線がこちらへ向く。
原の目も、まっすぐ俺を捉えた。
「……いかがなされました」
俺はゆっくりと言葉を選ぶ。
「不可侵、というのはつまり互いに手を出さない、疑われる行為をしないという取り決めですな」
「左様にございます」
即答。
迷いはない。
俺は小さく息を吐いた。
「なるほど、無用な戦を望まぬのはこちらも同じ気持ちです。しかし、それでは互いに利益が生まれない。そこで一つ、こちらから提案がございます」
その一言で、室内の空気がわずかに変わった。
凝淵斉殿が目を細め、常陸介がわずかに姿勢を正す。
氏治様は、緊張した面持ちでこちらを見ていた。
「提案……とは?」
原が静かに問い返す。
俺は続けた。
「不可侵は結構。だが、それだけでは互いに閉じるだけになってしまいます」
言葉を区切る。
原の表情は動かない。
だが、確実に聞いている。
「霞ヶ浦は境ではなく、本来は船が行き来する道でございます」
「道……」
「ゆえに、不可侵に加え、物流と商いの往来を認めていただきたい」
一瞬、間が落ちる。
空気が変わるのが分かった。
凝淵斉がゆっくりと息を吸う。
常陸介も目を細めた。
原はすぐには返さない。
まるで秤にかけるように、こちらの言葉の重さを測っている。
俺は構わず続けた。
「互いに敵対せず、互いに閉ざさず、互いに利益を得るということですな」
「その通りでございます。それができるなら、霞ヶ浦はただの境ではなく互いに富を生む水路となるでしょう」
原の眉が、わずかに動いた。
「……それは」
初めて、即答が崩れた。
俺はその隙を逃さない。
「千葉家としても、北条・里見という大敵を抱える中で、我らまで敵に回す必要はないでしょう。そして我らもまた、南を敵にして水路を閉ざすつもりはございませぬ」
沈黙。
長いようで短い間であった。
やがて凝淵斉殿が静かに言った。
「……理には適っておりましょう」
常陸介も続く。
「戦を避けるのみならず、利を得る形でございます」
空気が少しずつ変わっていく。
「我らは互いに複数の方向に敵を抱えている身。であればこそ、ここは互いの家を強くするために、潰し合うよりも高め合う関係であるべきではございませぬか」
室内が、再び静まり返る。
言葉にした瞬間、自分でも少し大胆すぎたかと思った。
だが撤回するつもりはない。
千葉家と小田家。
どちらも現状は余裕のある勢力ではない。
北条、里見、そして周辺国の圧力の中で生きている以上、必要なのは敵の増加ではなく、負担の分散だ。
原胤貞は、ゆっくりと息を吐いた。
「……高め合う、でございますか」
低く反復するその声には、感情はない。
だが、完全な拒絶でもなかった。
凝淵斉殿が静かに補足する。
「政貞殿の申す通り、不可侵のみでは守りに過ぎますな。そこに物流が加われば、双方の国力の底上げにも繋がりましょう」
常陸介も頷いた。
「霞ヶ浦は元来、舟運の要。塞ぐよりも活かす方が理に適っております」
家臣達の意見が揃い始める。
だが原は、まだ動かない。
しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「……不可侵に加え、物流の往来」
一言一言を確かめるように続ける。
「その条は、我が主家に持ち帰り、評議の上で返答する形となりましょう」
当然の返答だ。
一存で決められる話ではない。
だが重要なのはそこではない。
拒絶ではなかったこと。
それが全てだった。
「承知した」
俺は短く答える。
「ただし一つだけ条件を」
原の目が細くなる。
「物流に関しては、過度な制限や一方的な差別は設けぬこと。これだけは互いの信義としたい」
「……承知仕った」
その返答には、先ほどよりもわずかな重みがあった。
交渉は、ここで一度区切りとなる。
原胤貞は静かに立ち上がり、深く一礼した。
「本日は御意見、確かに承りました。持ち帰り、主に申し上げます」
そして一瞬だけ、俺を見た。
その目はもう敵意ではない。
俺の価値を認め、評価する目だった。
やがて、襖が閉じる。
そして、その場には静寂が戻った。
しばらく誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのは凝淵斉殿だった。
「……見事な提案でございましたな」
常陸介も小さく頷く。
「不可侵に留めておけば、ただの現状維持。しかし物流を加えれば、関係そのものが変わる」
氏治様が、ようやく肩の力を抜いたように息を吐いた。
「……政貞、お主は肝が太いのう」
「いえ、たまたまです」
本当は、偶然ではない。
だが今はそれでいい。
俺はふと、閉じられた襖の向こうを見た。
ここから先は、千葉の判断次第か。
不可侵か、同盟か。
あるいは、その間にある取引関係か。
だが一つだけ確かなことがある。
霞ヶ浦はもう、単なる境ではなくなり始めている。
そしてそれは同時に、この領の未来そのものが、動き出した証でもあった。




