20話 府中城その2
府中城
その日は朝から城内は妙なざわめきに包まれていた。
普段なら聞こえぬはずの音が、城壁の向こうから絶え間なく響いてくる。
人の声、荷車の軋み、牛の鳴き声、そして無数の足音。
それらが混じり合い、一つの大きな音となって城を包んでいた。
「また報せか」
評定の間で大掾慶幹が顔をしかめた。
伝令は額に汗を浮かべながら平伏する。
「はっ! 街道より現れた人の列、なお増え続けております!」
「だからその人の列とは何だ!」
慶幹が声を荒らげた。
「賊か!」
「違います!」
「一揆か!」
「それも違います!」
伝令は苦しげに答える。
「農民にございます!」
「農民だと?」
「女子供もおります!」
評定の間がざわついた。
「女子供?」
「何をしに来た」
「意味が分からぬ」
家臣達の声が飛び交う。
だが、その中でただ一人。
額賀常陸介だけは静かだった。
「額賀」
慶幹が振り向く。
「一体何が起こっておるか分かるか?」
額賀常陸介は伝令に視線を向けると、問いかけた。
「お主、百姓達を率いていた者が分かるか?」
「僅かに見えたあの家紋……恐らく菅谷家の家紋ではないかと」
「菅谷だと?」
慶幹はその表情は憎々しげに歪ませる。
菅谷といえば慶幹の父を討ち取った憎き菅谷勝貞が当主の家。
その事実に、慶幹の心は穏やかでいられなかった。
勝貞はかつて現在の居城、土浦城を策略にて攻め取ったという。
だとすれば、今回も同じように策略を用いてこの府中城を攻め取ろうとしているというのか。
「つまり、此度の元凶は菅谷勝貞ということだな。まさか父の仇自らがやってくるとは……!!」
「い、いえ、菅谷の家紋を掲げている者は年若いとの情報です。勝貞ではないかと……」
「なに? では倅の政貞か」
せっかく仇を討つ機会がやってきたと思っていた慶幹は落胆しため息をつくが、同時に少し安堵した。
「奴は我が父に負け、勝貞に庇われ尻尾を巻いて逃げた負け犬だ。勝貞ならまだしも、政貞であれば恐るるに足りぬわ」
「慶幹様! その負け犬が此度の煽動を引き起こした事、理解しておられぬのですか!」
額賀はこの後に及んで油断を見せる慶幹に声を荒げた。
その声は、評定の間に鋭く響く。
額賀常陸介が声を荒げるのは、この場では珍しいことだった。
一瞬、室内の空気が止まる。
だが慶幹は、わずかに眉をひそめただけだった。
「額賀。落ち着け」
「落ち着いてなどおられませぬ」
常陸介は一歩前に出る。
「政貞は間も無く、百姓達を全て味方につけてここへやってくるでしょう。それが何を意味するか分かりますか」
「何だというのだ」
「我らの負けです。いえ、もう負けております、我らは」
その言葉に、部屋中が静まり返る。
他の家臣が言ったならば何を馬鹿なことをと一笑に伏しただろう。
しかし、この老臣の言葉を笑い飛ばす事はできなかった。
「負けておるだと、もう我らが負けておるとそう申したのか」
慶幹の表情に、僅かに動揺が見え始める。
「お待ちくだされ」
一人の家臣が進み出た。
「まだ負けたとは申せませぬ」
その言葉に、慶幹は僅かに顔を上げる。
「申してみよ」
「百姓達が集まっているというならば、村々へ使者を出しましょう。領主たる殿のお言葉として、帰村を命じるのです」
家臣達の何人かが頷いた。
「確かに」
「殿の命であれば従う者もおろう」
だが額賀は静かに首を振った。
「もう遅い」
「なに?」
「今の百姓達は、村ごと動いておる」
額賀は伝令を見る。
「列の中に村長や長老の姿はあったか」
「はっ、確認されております」
「ならば無理だ」
額賀は断言した。
「村の代表まで動いている以上、これは一部の扇動ではない。村全体が一つの意思で動いているからだ」
「ならば城門を固めましょう」
別の武将が声を上げた。
「百姓が何万集まろうと武器は持っておりませぬ。城門さえ守れば問題ありますまい」
「その通りだ」
家臣達が顔を上げる。
「城攻めの基本としては最善手。実際、相手が軍勢であれば某も同じ進言をいただろう」
その武将は安堵したように胸を張った。
だが額賀は静かに続ける。
「しかし此度の敵は軍勢ではない。そして、その門を守る兵は誰だ?」
武将の口が止まる。
「兵とは百姓から徴した者達です」
額賀は静かに続けた。
「門の外に父母や妻子がおり、その者達が小田へ味方しておると知ってなお、最後まで槍を構えられると思うか?」
「それは……」
「ならば先に政貞を討つ!」
若い侍大将が立ち上がった。
「百騎ほどで打って出ればよい。大将の首さえ取れば、この烏合の衆など散り散りになります!」
勇ましい声だった。
実際、普通の戦なら正解に近い。
しかし額賀は苦しげに首を振った。
「それも無駄だろう」
「何故です!」
「もし政貞を我らが狙えば、百姓がそれを阻もう。そして百姓が我らに立ちはだかれば、彼らの家族である城兵達も寝返る可能性がある」
「うぐ……」
家臣達の進言は、ことごとく常陸介に却下された。
通常の戦であれば有効となるそれらの進言も、この状況においては無意味なものであった。
「馬鹿な」
家臣の一人がようやく声を絞り出した。
「百姓を失った程度で城が崩れるなど……」
額賀はそちらを見ない。
「崩れるのではございません」
「では何だというのだ」
「もう崩れておるのです」
その言葉が、先ほどよりも重く響いた。
「その実、二千人の百姓は怖くはありません。武装をしておりませんからな。しかし城兵達は違います。城兵の大半は農民出身、外にいる者の中には親兄弟がおります」
その言葉にたじろいだ家臣の1人が、言った。
「そんな状態で門を開けろと言われたらどうなるか……」
「うむ、それが本当に恐るべきことだ」
そう、城兵達が場外の百姓達に加わり反乱を起こす。
それが慶幹にとって最も恐るべきことであった。
外から再びざわめきが近づく。
今度は遠いものではない。
城門のすぐ外だ。
人の声に、足音。
そして、誰かが門の外で立ち止まる気配。
慶幹の額に、初めて汗が浮かんだ。
「……額賀」
「はっ」
「まだ間に合うのか」
その問いは、これまでの強気とは違っていた。
額賀は一瞬だけ目を伏せる。
そして、静かに言った。
「殿。もう一つだけ申し上げます」
「申せ」
「このまま門を閉じ続ければ、中にいる者の方が先に壊れます」
慶幹の眉が動く。
「中が、だと?」
「はい」
額賀は淡々と続けた。
「外の者は、まだただの流れにございます。しかし中の者は、選ばねばなりませぬ」
「何をだ」
「敵に降るか、この城で果てるかを」
その言葉に、評定の間の空気が完全に凍る。
外の音はさらに大きくなる。
そして、別の声が混じり始めた。
叫びではない。
怒号でもない。
ただの会話だ。
「本当に入れるのか……?」
「小田はそう言っておった。中に入れればお主達も我が城で取り立てるとな」
「しかし、そんなことをすれば殿様達に手打ちにされるんじゃ……」
「はははっ、今更殿様達に何ができるというんだ。それに、そんなことをすれば城を守る兵が減るだけだぞ」
「そ、それもそうだよな……ハハ」
しかしその兵達の声が、何よりも恐ろしかった。
慶幹が低く言う。
「……お主の言ったこと、よく分かった。我らは降伏するか、寡兵でも最後まで戦うか、それを迫られているのだな」
その言葉に常陸介が頷いた瞬間、城門前から声が響いた。
「大掾慶幹とその家臣達よ、聞こえておるか。俺は小田家の将、菅谷政貞だ」
その声に、家中の者達はどよめく。
「政貞、政貞がもう来たのか!?」
「落ち着いてくだされ、まずは話を聞きましょう」
「お主達に残された道は二つ、我らに降り城を明け渡すか、最後まで戦うかだ。我らに降れば命は助け、開場後もそれ相応の身分を約束しよう」
その言葉に、家中は更に揺らぐ。
しかしまだ、政貞の言葉には続きがあった。
「しかし、大掾慶幹よ。民は既に我らに従った、戦うというなら戦うがよい。だが、城内の兵は誰のために槍を取る? 門の外にいる父母か、それとも城の中のお主達か、よく考えることだな」
政貞の言葉に、城内は静まり返る。
政貞はここに来て提示した選択肢は2つだ。
降伏し家族を守るか、戦い忠義を示すか。
それを示せと政貞は言ったのだとここにいる皆は理解した。
そしてそれによって家中は割れ、更に荒れることも政貞は見越していることだろう。
「そうだ、年貢を今年は無くすと言って民を説得するのはどうだ? それならば民達も小田に味方するのをやめるだろう」
「馬鹿者! 今更そんなことで民達が動くわけなかろうが! それにその場しのぎでそんなことを言ったところで、小田方に更に良い条件を提示されて終わりだ!」
「な、ならば皆で小田方に降るというのは? 身分や領地はある程度安堵されるそうですし、このまま全てを奪われるよりはよいでしょう」
「戦もせず降れと申すか! 某は納得できん!」
事実、既に家臣達は言い争いその意見は大いに割れている。
既に敵の術中に家臣達は陥っていたのだった。
だからこそ、額賀は最後の進言を慶幹にすることを決断した。
「殿、最後の策が私にございます。しかし、これは賭けでございます、失敗すれば我々は小田に降るしかなくなるでしょう」
その言葉に、家中は一斉に静まり返る。
まさか、まだここから逆転する方法があるのか。
家臣達の視線は一斉に額賀へと集まる。
「策だと、それは何だ額賀」
「申し上げます、その策とは———」
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