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16話 府中に忍ぶ毒

1541年 府中城


 府中城。


 常陸国に勢力を持つ名門・大掾氏の本拠であり、代々の当主が居城としてきた城である。


 低湿地に突き出した台地を利用し、幾重にも巡らされた堀と土塁によって守られた大城郭。


 東西に500メートル、南北に400メートルにも及ぶその規模は、常陸南部でも有数であった。


 そして今、その府中城を治めるのは若き当主・大掾慶幹である。


 二十歳。


 先代貞幹の戦死によって家督を継いだばかりの若者だった。


 土浦攻めでは敗れた。


 しかしその後、小田勢の侵攻を退けたことで家中の動揺は収まりつつあった。


 少なくとも表面上は、であるが。


 人は勝利を好む。


 勝った者に従い、負けた者を見捨てる。


 それが戦国の習いであった。


 だからこそ家臣達も今は慶幹を支えている。


 だが、その忠誠がどこまで続くかは誰にも分からない。



 本丸。


 慶幹は重臣達を前に政務を執っていた。


「年貢の集まりはどうだ」


「例年通りにございます」


「そうか」


「市も賑わっております」


 報告は悪くない、戦後としては上出来だった。


 その結果に、慶幹も安堵する。


 父が死んだ時にはどうなることかと思った。


 だが、何とか持ち直している。


 そう考えていた時だった。


「殿」


 近習が頭を下げる。


「城下に妙な噂が流れております」


「噂?」


「小田領の評判にございます」


 その内容に、慶幹は眉をひそめた。


「何だと」


「小田では百姓達が豊かであるとか、新しい農具によって収穫が増えたとか」


 家臣達から失笑が漏れた。


「敗軍の強がりでしょう」


「そのようなものですな」


「小田が豊かなら何故負けたのでございます」


 皆が笑い、それに釣られて慶幹も苦笑した。


「確かにな」


 小田家は先の戦に敗れた相手である。


 事実、政治に勝利した慶幹にとって脅威には思えなかった。


 だがただ一人、額賀常陸介だけは笑わなかった。


 この額賀常陸介という男は大掾家三代に仕えてきた宿老である。


 先代・貞幹の時代には政務の多くを取り仕切り、大掾家中でも最大級の発言力を持っていた人物であった。


「殿」


「何だ」


「念のため調べては如何でしょう」


 慶幹は首を傾げる。


「調べる?」


「噂には必ず理由があります」


 額賀は静かに言った。


「まして敗軍の話がここまで広がるのは不自然かと」


 慶幹は少し考えた。


 だが横から、別の重臣が口を挟む。


「考え過ぎでしょう」


「うむ」


「百姓は珍しい話が好きなだけでしょう」


「確かに」


 慶幹は頷いた。


 気に留めるほどでもない、そう慶幹は結論づけたのである。


「額賀」


「はっ」


「心配は分かる。だが今は家中を立て直す方が先だ」


 額賀は黙って頭を下げた。


 反論はしなかった。


 だが、老臣の胸中からその胸騒ぎは消えなかった。




 数日後、城下ではさらに噂が広がっていた。


 町人達の話題は商人や僧侶達が持ってきた小田領内のことで持ちきりで、口々にその事について話していた。

 

「聞いたか?」


「何をだ」


「小田の農具だよ、これが便利で百姓達はこれを手にしてから毎日喜びながら仕事してるらしいぜ。面白いように作業が進むから楽しいんだと」


「またその話か。俺達町の人間には関係ねえよ」


「いや、そんなことねえよ。何でも、小田は今沢山人手を募集していて、そこで働けば結構な賃金を貰えるらしいぜ。出稼ぎに行けば儲かるかもな」


「へぇ、そいつはちょっと興味あるな」


 

 そして、百姓達もまた興味津々であった。


 中には小田より来た商人から農具を買った村もあり、その農具の効果が広まると、百姓達の話題は農具のことでもちきりとなった。


「この千歯こきというのは凄いのう、あの面倒な脱穀作業があっという間に終わっちまうわ!」


「そうじゃなぁ、周りの村の奴ら羨ましがっとったわ」


「はははっ! しかしなぁ、隣の小田さんとこの百姓は皆んなこの千歯こきを持っとるらしいわ」


「ひぇ〜!! 小田さんとこは凄いんだな、あっちに住んでる百姓達が羨ましいわい!」


「いっそのこと引っ越しちまうのも悪くないかねぇ。何でも、商人さんが言ってたが、小田さんとこは新しい民を積極的に受け入れてて、引っ越してから一年は年貢も納めんでいいらしい」


「どひゃー! そりゃあ太っ腹じゃなぁ!」


 人々は見たこともない小田領での生活に、夢を見ていた。




 後日、また新たな報告が再び本丸へ届いた。


「殿」


「また噂か」


「今度は農具そのものが流れております」


 慶幹は顔をしかめた。


「農具?」


「千歯こきと呼ぶそうです」


「何だそれは」


「脱穀用の道具とか」


 家臣達も首を傾げる。


 聞いたこともない名前だった。


 そこで額賀が口を開いた。


「一度集めて調べるべきでしょう」


「またか」


 慶幹は少し不機嫌そうだった。


 額賀は慎重過ぎる。


 慶幹は度重なる額賀の言葉を聞き、最近そう感じ始めていた。


「ただの農具ではございません」


「では何だと言う」


「分かりませぬ」


 額賀は正直に答えた。


「だから調べるのです。商人と農具が同時に現れたのは偶然ではありますまい。何者かが裏で糸を引いている可能性がございます。どうかご検討を」


 その場は静まり返った。


 しかし。


「そこまで大事にする必要がありましょうか」


 若い家臣が言った。


「たかが農具です」


「その通り」


「戦に関係ありませぬ」


 家臣達は口々に、たかが農具など気に留める必要もないと宣う。


 慶幹もそちらに傾いた。


 慶幹も家臣達も、農具など兵や城に比べれば取るに足らぬものだと考えていた。


「しばらく様子を見よう」


 慶幹はそう結論付けた。


 その言葉を受け、額賀は再び頭を下げる。


「御意」


 しかしその表情は重かった。




 その頃。


 遠く土浦にて、政貞は勘助から報告を受けていた。


「府中はどうだ」


「予想通りにございます」


 勘助はそう告げる。


「若殿は噂を軽く見ております」


「左様か」


 俺は満足げに頷いた。


 慶幹は愚かではない。


 民達から大きな不満が出ていないことからも、それは確かだ。


 だが少なくとも、今のところ俺達の仕掛けた策の本質には気付いていない。


 それが勘助殿から集まる報告を聞いた俺の結論だった。


 噂の存在には気付いているようだが、その意味を理解していない。


 農具の存在も知った。


 だが重要性を理解していない。


 何より、自分で確かめようとしない。


 それが致命的だった。


 だとすれば慶幹はそれほど警戒する必要はないか。


 そう思ったところに、勘助殿は「しかし」と話を続けた。


「しかし、何だ? 言ってみるがよい」


「どうやら家中にはこちらの目論見に気づいている者がいるようです」


「ふむ」


 俺は腕を組んだ。


 慶幹ではないだろう。


 あの若殿にそこまでの慧眼はあるまい。


 ならば誰だ。


「その者の名は分かっておるのか?」


「はっ」


 勘助殿は頷いた。


「額賀常陸介と申す宿老にございます」


「額賀?」


 常陸ではよく使われていた苗字だとは聞くが、その者の名前については知らないな。


 というか実は大掾氏の家臣についてもあまり知らなかった気がする。


 まずったな、殿にこの前知っている限りのことを聞いておくんだった。


「どのような男だ」


「大掾家三代に仕える老臣にございます」


「ほう」


「先代貞幹の代には政務を多岐に渡って任されていたとか」


 俺は少し考え込んだ。


 つまり武辺者ではなく吏僚型か。


 戦場で名を挙げる者は嫌でも耳に入る。


 だが政務畑の人間は外からは見えにくい。


「しかし、重臣とはいえそんな裏方の人間の情報をよくつかんだな。どのような方法をとったのだ?」


「大したことではございませぬ」


「ほう?」


「人を調べるには本人を見る必要はございません」


 その言葉を聞き、少しばかり考えた後に俺は理解した。


 なるほど、商人か。


 情報を流すのも商人、得るのも商人というわけだな。


 そう思った俺に、勘助殿は頷いた。


「額賀殿本人は質素な暮らしをしております」


「ふむ」


「ですが政務を担う者は必ず誰かと関わります。役人、商人、寺社、名主。その全てを隠すことは出来ませぬ」


 そう言うと懐から一枚の書付を取り出した。


「これは?」


「府中の商人達から集めた話でございます」


 俺は目を通した。


 そこには額賀常陸介についての評判が記されていた。


『実直にして倹約家、公私の区別をつけ賄賂を嫌う実直な人物』


 どれも似たような内容である。


 俺は感心しながら言った。


「随分と評判が良いな」


「その通りにございます」


 勘助殿も頷いた。


「少なくとも本人は清廉な人物かと」


「それで何故、目論見に気付いたと分かる」


「簡単でございます」


 勘助殿は書付の最後を指差した。


 そこには短い文が書かれていた。


『近頃、額賀殿は市の様子を調べさせている』


「市を?」


「はっ」


「小田の噂が流れ始めてからでございます」


 俺は目を細めた。


 偶然か、いやそんなはずはないな。


「さらに」


 勘助殿は続ける。


「千歯こきを買った村の名も調べさせております」


「ほう」


「農具を持ち込んだ商人についても探らせているとか」


 それを聞いて俺は小さく唸った。


 確かに慶幹よりは遥かに鋭い。


 少なくとも異変に気付いている。


「つまり」


「はい。額賀殿は噂と農具が繋がっていると考えております」


 なるほどな。


 俺はようやく理解した。


 慶幹は噂をただの世間話だと思っているようだが、額賀は違う。


 何者かが意図して流していると察しているのだ。


「厄介か?」


 俺が問うと、勘助殿は首を横に振った。


「いいえ」


「そうなのか?」


「気付いているのは額賀殿だけにございましょう」


 勘助殿は落ち着いて答えた。


「若殿は耳を貸さぬ」


「ふむ」


「他の重臣達も農具を軽んじております」


 それは報告通りであった。


 額賀が警戒しても周囲が動かなければ意味は薄い。


 戦でも同じだ。


 敵襲を見つけても大将が信じなければ備えは出来ない。


「つまり額賀という男は正しい」


「はい」


「だが誰も聞かぬ」


「その通りにございます」


 俺はため息をついた。


 何とも皮肉な話であるな。


 有能な者ほど孤立する、というわけか。


「ならば放っておけば良いか」


「はっ」


 勘助殿は頷いた。


「むしろ好都合にございます」


「何故だ?」


「額賀殿が正しいほど周囲との溝は深まります」


 俺は目を瞬かせた。


 なるほど、確かにそうだ。


 警戒を訴えるものの、聞き入れられない。


 再び訴えるが、それでも聞き入れられない。


 そうなれば周囲は次第にこう考え始める。


 額賀殿は神経質だ。


 額賀殿は口うるさい。


 額賀殿は老いた、と。


「人は不思議なものでございます」


 勘助殿は静かに言った。


「正しい言葉を何度も聞かされると嫌になる」


「耳が痛いからな」


「はい」


 人とは今も昔も変わらぬものだな、と俺は苦笑いを浮かべながら思った。


 勘助殿も珍しく口元を緩める。


「そして若殿は勝ったばかりにございます」


「うむ」


「勝者は己の判断を疑いませぬ」


 それは真理だった。


 敗北は人を慎重にするが、勝利は人を鈍らせる。


 ましてや。慶幹は若い。


 先の戦で小田軍を退けたことで、自らの判断に自信を持っているはずだ。


「つまり」


 俺は言った。


「今の大掾家は、正しい者の声が最も届きにくい状況ということか」


「左様にございます」


 勘助殿は深く頷いた。


 俺は外へ視線を向けた。


 土浦の港には相変わらず船が並んでいる。


 魚を積んだ船、塩を運ぶ船、材木を積んだ船。


 そして、それらが運ぶのは物だけではない。


 噂もまた運ばれる。


 人の口から人の口へ。


 川を流れる水のように。


「勘助」


「はっ」


「次はどうする」


 勘助殿は少しだけ笑った。


「何も変えませぬ」


「ほう」


 農具を売り、商いを広げ、噂を流す。


 それだけで良いと。


 勘助殿は言外にそう語っていた。


「府中の民が小田を羨むようになるまでか」


「ええ」


「そして大掾家がそれに気付いた時には」


 勘助殿はそこで言葉を切った。


 俺は続きを理解した。


 気付いた時には既に遅い。


 毒とはそういうものだ。


 飲んだ瞬間には何も起こらない。


 だが気付いた頃には、既に身体の奥深くまで回っている。


 府中に撒かれた毒もまた同じであった。

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