110話
宇都宮尚綱は、届いた返書を読み終えると、口元を大きく歪めた。
「……くくっ」
小田政治は、宇都宮からの和睦の申し出を受け入れた。
それどころか、会談の場所を国境近くではなく、宇都宮城へ移したいと申し出てきたのである。
宇都宮を信用している証として、ぜひとも本拠である宇都宮城で会談を開きたい。
書状には、そのようなことがもっともらしく書かれていた。
「愚かな男よ」
尚綱は書状を握り潰した。
小田政治は、所詮は甘い男だ。
民を救うだの、争いを終わらせるだのと綺麗事を並べてはいるが、結局は人を疑うことを知らぬ。
領地の一部を譲る。
民への取り立てを改める。
その程度の餌をぶら下げれば、まんまと食いつくと思ったのだ。
「しかも、嫡男の小太郎まで連れてくると言うか」
尚綱は愉快そうに笑った。
小田家の当主と嫡男。
その二人を一度に討ち取ることができれば、小田家は大きく揺らぐ。
政貞とて、主君を失った家中をまとめるだけで手一杯となるだろう。
佐竹も結城も、小田へ近付くことをためらうはずだ。
「これで小田は終わる」
尚綱は立ち上がると、家臣へ命じた。
「会談の日までに兵を城内へ集めよ。ただし、目立つな」
「はっ」
「城門の近く、御殿の周囲、それから裏手の詰所にも兵を伏せさせろ。政治が会談の席へ着いたならば、逃げ道を塞ぐのじゃ」
「承知いたしました」
家臣が退出しかけた、その時だった。
「尚綱様」
襖の向こうから、低く落ち着いた声が響く。
「壬生綱房殿と、芳賀高定殿がお目通りを願っております」
尚綱の顔が露骨に歪んだ。
「また和睦の話か」
「……恐らくは」
「入れろ」
やがて、二人の男が部屋へ入ってきた。
先に頭を下げたのは、芳賀高定であった。
宇都宮家を長く支えてきた家柄の当主であり、尚綱にとっても軽く扱える相手ではない。
その隣には、壬生綱房がいた。
多くの兵と所領を持ち、宇都宮家の中でも指折りの力を有する男である。
「尚綱様」
高定は、尚綱の前で深く頭を下げた。
「小田との会談を宇都宮城で行うとのこと。まことにございますか」
「そうじゃ」
「……なぜ、わざわざ城へ呼び寄せるのです」
尚綱は、机の上に置かれた書状へ目を落とした。
「和睦を結ぶためではない」
高定の顔が強張る。
「小田政治を討つためじゃ」
「尚綱様」
高定の声が震えた。
「それは和睦ではありませぬ。謀殺にございます」
「だから何じゃ」
「そのようなことをすれば、宇都宮家は二度と他家から信を得られませぬ!」
高定は顔を上げ、尚綱を真っ直ぐに見た。
「民も家臣も、小田との争いが終わることを願っております。それを利用して政治殿を討てば、皆は尚綱様を信じられなくなりましょう」
「信など必要ない」
尚綱は冷たく言った。
「恐れさせればよい。逆らう者は斬ればよい」
「それでは宇都宮の家が残りませぬ!」
高定の声が、部屋へ響いた。
「尚綱様が守るべきは、ご自身の意地ではなく宇都宮家にございます! 民を失い、家臣を失い、領地を荒らしてまで小田を憎み続ければ、最後に残るのは何ですか!」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
尚綱の手が、腰の刀へ伸びかける。
「……芳賀殿」
その時、壬生綱房が静かに口を開いた。
「言葉が過ぎますぞ」
「綱房殿」
「尚綱様を責めても、宇都宮家がまとまるわけではありませぬ」
綱房は穏やかな表情のまま、尚綱へ向き直った。
「ですが尚綱様。政治殿を討った後のことは、お考えでしょうか」
「無論じゃ」
「小田家が混乱すれば、下野の諸家を集めて攻め込む。そのようにお考えかと」
「その通りじゃ」
「されど、今の宇都宮には兵糧も銭も足りませぬ」
綱房の声には、責めるような響きはなかった。
だが、その言葉は容赦なく現実を突きつけてくる。
「民は疲れ、足軽達は小田の暮らしを羨み、商人達は争いが続くことを恐れております。政治殿を討てたとしても、宇都宮の中がまとまらなければ、その後の戦は難しいものとなりましょう」
「……では、お主も和睦を結べと言うのか」
「いいえ」
綱房は、ゆっくりと首を振った。
「私は尚綱様の家臣にございます。尚綱様が戦うと決められたなら、壬生は従います」
その答えに、尚綱は僅かに表情を和らげた。
だが綱房は、続けた。
「ただし、勝つためには宇都宮の民と家臣を失ってはなりませぬ。会談の日、城下で騒ぎが起きぬよう、十分にお気をつけくだされ」
「……分かっておる」
尚綱は吐き捨てるように言った。
「小田政治さえ討てば、すべては戻る」
高定は、苦しげに目を伏せた。
綱房は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
その目に宿っていたのは、主君を信じる光ではない。
この愚かな策が宇都宮家をどこまで傷つけるのか。
そして、その後に壬生が何を得られるのか。
それを静かに測る、冷たい光であった。
そして、会談の日が訪れた。
宇都宮城の広間には、尚綱と重臣達が集まっていた。
表向きは和睦の会談であるため、皆、普段より整った衣を身に着けている。
だがその衣の下には甲冑を着込み、近くには武器が隠されていた。
壬生の兵は城門近くに。
芳賀の兵は城内の要所に。
それぞれ配置されている。
もっとも高定は、最後までこの策に賛同したわけではなかった。
「小田勢は、すでに城下へ入ったとのことです」
家臣が報告する。
「供回りは?」
「政治と小太郎、それに護衛を含めても五十ほどにございます」
「はははっ!」
尚綱は声を上げて笑った。
たった五十。
それでは、いくら武勇に優れた者がおろうと、この城から生きて出ることはできぬ。
「まさか、本当に小勢で来るとはな」
「殿」
高定が、低い声で言った。
「まだ間に合います。今からでも会談を正しく終え、和を結ぶべきです」
「黙れ」
尚綱は一言で切り捨てた。
「城門を開けよ。客人を丁重に迎え入れよ」
「はっ」
やがて、広間の外が騒がしくなる。
政治と小太郎が城へ入ったのだろう。
尚綱は表情を整え、穏やかな笑みを浮かべた。
政治が広間へ入り、和睦の書状に手を伸ばした瞬間。
その時こそ、すべてを終わらせる。
「……殿!」
その時、慌ただしい足音と共に、若い家臣が広間へ飛び込んできた。
顔は青ざめ、息を切らしている。
「何事じゃ」
「城下に……城下に、大勢の民が集まっております!」
「民?」
尚綱は眉をひそめた。
「何をしに来たのじゃ」
「本日は小田と宇都宮が和睦を結ぶ日だと聞き、皆で見届けに来たと……」
「なんじゃと?」
尚綱は立ち上がる。
和睦の日。
そんなことを、誰が民へ知らせたというのか。
「城門前には、すでに百姓や町人達が集まっております! 人数はまだ増えており、このままでは城下じゅうの者が集まりかねませぬ!」
尚綱の顔から笑みが消えた。
民達は、和睦を信じて集まっている。
そこへ兵を出し、政治達を討てばどうなる。
民達は見るだろう。
和睦のために訪れた小田家を、自分が騙し討ちにした姿を。
「……小田め」
尚綱は奥歯を噛み締めた。
政治は最初から分かっていたのだ。
こちらが和睦など望んでいないことを。
だからこそ民を集め、自分が刃を振るえぬようにした。
「殿」
高定が一歩前へ出る。
「今こそ、会談を正しく終えるべきです。民達は和を望んでおります。このまま和睦を結べば、宇都宮家はまだ——」
「和睦など認めぬ!」
尚綱の怒声が、広間に響いた。
高定が息を呑む。
「小田に頭を下げるぐらいなら、宇都宮など滅んだ方がましじゃ!」
「尚綱様……!」
「城門を閉じよ」
尚綱は、近くの家臣へ命じた。
「民達を城門前から退かせろ。和睦の儀は行わぬ」
「ですが殿、それでは民達が——」
「退かせろと言っておる!」
家臣は震えながら頭を下げ、駆け出していく。
高定は、尚綱を見つめたまま動けなかった。
壬生綱房は、黙ってその様子を見ていた。
「壬生」
尚綱が言う。
「城門を守れ。民が騒ごうと入れるな」
「承知いたしました」
綱房は、何の迷いも見せずに頭を下げた。
しかし、その直後。
「ただし」
綱房は静かに続けた。
「民へ刃を向けることは、お許しくだされぬよう。今、民を傷つければ、宇都宮の兵達まで動揺いたします」
「……好きにしろ。ただし政治達は逃がすな」
「はっ」
その時だった。
広間の外から、穏やかな声が響いた。
「宇都宮殿。お待たせいたしました」
小田政治であった。
その隣には、小太郎が立っている。
小太郎は尚綱を真っ直ぐに見つめ、深く頭を下げた。
「本日は、和睦を結ぶために参りました」
城門の外では、民達の歓声が聞こえている。
皆が、和睦を信じている。
だが尚綱は、その声を聞きながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「……よく来たな、小田殿」
尚綱は笑った。
そこに歓待の色など、一切なかった。
「だが残念じゃ。宇都宮は、小田と和睦など結ばぬ」
政治の表情が、僅かに変わる。
小太郎もまた、驚いたように目を見開いた。
「宇都宮殿。それは、どういう——」
「どういうも何もない」
尚綱は腰の刀へ手を伸ばす。
「これは和睦の席ではない」
城内に隠れていた兵達が、次々と姿を現した。
しかし、その中には迷いを見せる者もいた。
城門の外には、和睦を信じて集まった民がいる。
芳賀高定は、苦しげに目を閉じた。
壬生綱房は、兵達の顔を一人ずつ見回していた。
尚綱はまだ知らない。
自らの意地によって、宇都宮家を守るはずの兵達の心まで失いかけていることを。
「小田政治」
尚綱の瞳には、憎悪だけが宿っていた。
「今日ここで、お主ら親子の首を落とす」
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