109話
そして時間は八月、宇都宮尚綱が偽の和睦の書状を政治へと送った時間に戻る。
書状は政治へと渡り、政治は一人それを読んでいた。
「ふむ……」
そこにはこう書かれていた。
今まで恨みに取り憑かれ、民や家臣達を蔑ろにしていた自分は本当にどうかしていた。
今回のことで、自分の過ちに今更だが気づいた。
そこで、本当に今更ではあるが宇都宮も小田と和睦をし、戦を終わらせたい。
虫のいい話ではあるが、勿論それだけの誠意は見せる。
国境付近の領地を小田へと譲渡し、民達への圧政も取り下げる。
これからは小田と手を結び、どうか民達のためにより良い国を作っていきたい。
そのためにも一度会談を開きたい、ぜひ一度対面で話し、自分の誠意を見せたいと、地図とともに書かれていた。
それを一通り読み終えて、政治は断じる。
「嘘じゃな」
政治は確かに息子と同じようにお人よしだ。
だがそれと同時に人を見抜く確かな目を持っていた。
宇都宮尚綱、あの男は決して恨みを簡単に捨てられる人間ではない。
誠意を見せるにしても、通常なら完全な中立地、または戦意を示さないために小田の領内で会談を持ちかけるのが普通のはずだ。
しかし、宇都宮尚綱は宇都宮寄りの場所を指定している。
これは兵を隠し、政治を殺そうとしているといっているようなものだった。
浅はかな策だ。
政治はため息をつく。
断るのは簡単だ。
信用できぬと拒否すれば良い。
しかし、そうすれば尚綱は、自らの企みが見破られたことを悟るだろう。
そして、より一層宇都宮の内を固め、小田に対する警戒を強めるに違いない。
何より、尚綱は小田が和睦を拒んだと領内に触れ回るだろう。
そうなれば、今すでに小田へ心を寄せ始めている宇都宮の民達も、再び小田を敵と見なすかもしれぬ。
「……断るわけにはいかぬな」
政治は頷くと、小太郎を呼び出すことを決めたのであった。
それから数十分後、政治は小太郎にも書状を見せ、その感想を求めた。
すると、小太郎は言った。
「これは……嘘、ではないでしょうか?」
「やはり、お主もそう思うか」
政治は頷くと、小太郎から書状を受け取る。
「これは明らかにワシを誘い出すための罠じゃ。全く、これを思いついた時の奴のしたり顔が目に浮かぶようじゃわい」
政治はため息をつくと、息子小太郎の目を見る。
「じゃがな、ワシはこの策に乗ろうと思っておる」
「な、なぜですか!?」
驚く小太郎に、政治は静かに答える。
「この策、乗らなかったらそれはそれで奴の思う壺となる。よって、ワシはこの策に乗るつもりじゃ」
「しかしそれでは父上が……!!」
心配する小太郎に政治は首を振る。
「無論、死ぬつもりはない。この策に乗るのは勝利のためじゃ」
「勝利……敵の罠に乗ることがですか?」
「うむ」
小太郎は政治の言っていることが分からず、困惑していた。
そんな息子を見かねて、政治は指を立てて助け舟を出した。
「この状況、一つワシらに利点がある。何だと思う?」
突如として父が投げかけてきた問いに、小太郎は必死に考える。
尚綱は政治を自分の領地、つまり敵地に誘き出そうとしている。
そう、敵地に……。
「はっ!!」
その時、小太郎は理解した。
そのことに政治も笑みを浮かべる。
「敵の領地に堂々と入ることができる、ということですな!」
「ふふっ、その通りじゃ! 流石は我が息子よ!」
政治は上機嫌になると地図を開け、続けた。
「建前ではあるものの、奴はワシらを和睦のために呼び出している。つまり、ワシらは堂々と宇都宮領に入ることができるのじゃ」
「はい……そして、ワシのやるべきことも分かりました!」
「うむ」
小太郎は地図を指差すと、政治に自らの役割を示した。
「ワシは父上と共に宇都宮領へと向かう。そして大掾領に政貞が向かった時のように次々と民達をこちらの味方につける、ということですな」
「その通りじゃ。その時間を稼ぐためにもワシは会談の場を国境近くではなく、さらに奥、宇都宮城にしないかと奴へ再提案する。尚綱への信頼の証とでもいえば、奴は喜んで会談の場所を変えるじゃろう。無論、嫡男のお主の同行も奴は一石二鳥と歓迎するはずじゃ」
政治はさらに続ける。
「手筈はこうじゃ。宇都宮領に入ると小太郎はワシと別れ、宇都宮領の和睦に伴う領内視察という名目で農村や城下町を回る。そして、民達にはこう告げるだけで良い。今日宇都宮は我らと和睦する、とな」
そして喜ぶ彼らに共に和睦の締結を見に行こうと持ちかけ、民達を集め宇都宮城へと連れていく。
そうすることにより、尚綱は大勢の民が集まる中で民を裏切り己の意地を通すか、和睦を認めるかを迫られると政治は語った。
「なるほど……」
小太郎は思わず息を呑んだ。
確かに、尚綱が最初から和睦を結ぶ気などないことは明らかだ。
だが、領民達が皆、和睦が結ばれるものだと思い込み、その様子を見に宇都宮城へと集まったならばどうなる。
尚綱は民達の目の前で、和睦のために訪れた小田家を襲うことになる。
それはもはや、小田を騙すだけではない。
自分の民達すらも騙し、裏切るということだ。
「民達は、尚綱が和睦を望んでいると信じて城へ集まる……。そこで父上を襲えば、皆が尚綱の本性を知ることになりますな」
「うむ」
政治は満足そうに頷いた。
「尚綱が民の前で和睦を破るならば、民は奴を見限るじゃろう。逆に、本当に和睦を結ぶならば、それはそれで我らの勝ちじゃ」
「では、尚綱はどちらを選んでも苦しくなる……」
「そういうことじゃ」
政治は地図の上に置かれた宇都宮城を、指先で軽く叩いた。
「尚綱は、ワシらが己の罠に怯え、会談の場へ少人数で現れると考えておる。じゃが、実際に城へ入るのはワシらだけではない」
「宇都宮の民達も、共に城へ集まる……」
「そうじゃ。奴が隠した兵を動かそうにも、大勢の民達の目がある。下手に兵を出せば、和睦のために集まった民達も異変に気づくじゃろう」
小太郎は、少しずつ父上の考えを理解していった。
尚綱は政治を殺すために、宇都宮領の奥深くへ誘い込もうとしている。
だが政治は、その招きを利用して宇都宮の民達の前へ姿を現し、尚綱の逃げ道を塞ごうとしているのだ。
「ですが父上。尚綱が民達など構わず、兵を動かしたらどうしますか?」
「心配ない。奴のために動く兵はごく少ないからな。もう有力家臣の多くがこちらに寝返る手筈となっている」
「心配ない。奴のために動く兵はごく少ないからな。もう有力家臣の多くが、こちらに寝返る手筈となっている」
「すでに、そこまで……」
小太郎は驚き、父上の顔を見つめた。
宇都宮の民を救うための策。
それは今日、この書状が届いてから考え始めたものではなかったのだ。
民が宇都宮から逃げ出し始めた時から、父上は既に宇都宮の内側へ目を向けていたのである。
「尚綱は、自分が領主である以上、家臣も民も自分に従うのが当然と思っておる」
政治は静かに言った。
「じゃが、人はただ命じられたから従うわけではない。己や家族を守ってくれる者、己の家を残してくれる者にこそ心を寄せるものじゃ」
「では、宇都宮の家臣達には……」
「本領と家名の安堵を約束した。尚綱を見捨て、小田へ降ったとしても、これまでの働きや家を否定はせぬとな」
小太郎は深く頷いた。
宇都宮の家臣達とて、皆が尚綱と同じように小田を憎んでいるわけではない。
むしろ、尚綱の無理な取り立てや、民を顧みぬ振る舞いに不満を抱いている者も多いはずだ。
「では、尚綱が兵を動かそうとしても、命令を聞かぬ者が出る……」
「うむ。中には、こちらへ知らせを寄越す者もおるじゃろう」
政治は地図を畳むと、小太郎の前へ置いた。
「小太郎。お主に頼みたいことは、民を城へ連れてくることだけではない」
「他にも、何か?」
「宇都宮の民達に、小田がどのような国であるかを見せよ」
父上の声は、いつになく真剣であった。
「口先だけで、小田は民を大切にすると語っても、すぐには信じてもらえぬじゃろう。じゃが、お主が一人一人の話を聞き、苦しんでいる者に手を差し伸べれば、必ず伝わるものがある」
「ワシが……小田を見せる」
「そうじゃ」
政治は優しく笑った。
「お主が民を救いたいと願っておること。それは、きっと宇都宮の民達にも伝わる。お主の言葉なら、あの者達の心を動かせるはずじゃ」
小太郎は胸の奥が熱くなるのを感じた。
宇都宮の民を救いたい。
その思いは、本心である。
だが、それだけでは足りぬ。
民達の不安を受け止め、小田ならば安心して暮らせると示さなければならないのだ。
「分かりました、父上」
小太郎は強く頷いた。
「ワシは宇都宮の民達の声を聞きます。そして、戦になったとしても小田は彼らを見捨てぬと伝えます」
「うむ。それでよい」
政治は立ち上がった。
「尚綱は、己が仕掛けた罠にワシらが掛かると思っておる。ならば存分に思わせておけばよい」
その目には、穏やかさの奥に鋭い光が宿っていた。
「そして奴が罠を閉じようとした時、宇都宮の民も家臣も、すでに奴のもとから離れておる――そういう形にしてやるのじゃ」
こうして小田家は、宇都宮尚綱の和睦の申し出を受け入れることとなった。
表向きは、長きにわたる争いを終わらせるための会談。
しかしその裏では、宇都宮の民の心と、有力家臣達の忠誠を巡る大きな戦が始まろうとしていた。
そして小太郎は、武器を持たぬ戦場へ向かうことになるのであった。
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