105話 尚綱、怒る
「クソッ、小田家め……!!」
宇都宮尚綱は部屋で一人、小田家への怒りを吐き散らしていた。
その怒りは敗戦から約一年経った今でも収まることはなく、さらに増していた。
あの敗戦により笠間家は完全に小田家の支配下に置かれ、宇都宮の力が落とされただけでなく、兵も大きく失う結果となってしまった。
幸い、それ以上攻め込まれることはなかったものの、民達や家臣達からの求心力をさらに失うこととなり、下総における宇都宮の力はさらに弱まってしまった。
宇都宮の民には最近、小田家の暮らしを羨む声が多くなっている。
それが尚綱にとって腹立たしいことこの上なかった。
ただでさえ憎たらしい小田のことを思い出してしまう上に、それは自分より小田政治や菅谷政貞が優れていると言っているようなものだからだ。
自分達の領主より他所の領主を羨ましがる民達も憎たらしいが、それ以上に憎たらしいのは小田家だ。
幾度となく宇都宮と戦を繰り広げて来た当主政治、小田家をここまで成長させた元凶である菅谷政貞、そして偽情報を流し自分達を騙した笠間の姫である葵。
もはや彼にとっては小田家そのものが憎く、小田という名前を聞くだけで体を掻きむしりたくなるほどのストレスを負っていた。
なぜ奴らが、奴らばかりが得をし、勝つのだ。
なぜ奴らばかりが栄えるのだ。
なぜ名門たる宇都宮ではなく、小田家が先に国を統一したのだ。
そう考えるだけで尚綱の頭がどうにかなりそうだった。
そして更なる悩みの種が、同志であったはずの結城政直の急な路線変更である。
名前を結城政勝と改めた彼は、敗北するとあっさり小田家との融和へと方針を変え、現在は和睦を進めつつあるという。
これは小田家と敵対する宇都宮家にとっては大きな痛手だった。
下総において宇都宮と同じく大きな影響力を持つ結城が小田と和睦を結んだことは、宇都宮が孤立したことを指す。
そう、宇都宮は小田家に対抗する力を失っていた。
しかも佐竹や結城と手を結んでも勝てなかったというのに、今はその両方が小田と手を結んでいる。
怒りで冷静じゃない尚綱にも、今の宇都宮には万に一つま勝ち目がないことはよく分かっていた。
だが、だからと言って小田家に頭を下げることだけは我慢ならない。
そしてそれと同じぐらい我慢ならないのは家臣達の言葉である。
奴らは口々に小田家と和睦をするべき、小田とは商売を積極的に行い、領地の発展に努めるべきだと抜かしてくるのだ。
冗談ではない。
なぜこの名門宇都宮があの小田家ごときに首をたれねばならぬ。
そんなことをするぐらいなら死んだほうがマシだ。
だというのに、家臣達は一向に進言をやめない。
あまりにしつこいので、先日の評定では一人見せしめとして処罰を下した。
これに家臣達は非難をしてきたが、当然耳を貸すことはない。
奴らの言葉など聞く価値はないからだ。
家臣達があのザマな以上、自分で考えなくてはならないだろう。
尚綱は考えた。
小田家を倒す方法を、あの憎き者達へ一泡吹かせる方法を。
尚綱は考えた。
小田家を倒す方法を。
あの憎き者達へ一泡吹かせる方法を。
正面からぶつかっても勝てぬ。
それは分かっている。
兵の数、兵糧、家臣達の結束、民の支持。
どれを取っても、今の宇都宮は小田に劣っている。
ならば、正面から戦わねばよい。
「……そうだ」
尚綱の口元が、ゆっくりと歪んだ。
「戦で勝てぬなら、奴らの首を取ればよい」
小田政治。
あの男さえいなくなれば、小田家は大きく揺らぐ。
まだ幼い小太郎。
そしていくら政貞が優れていようと、主君である政治を失えば家中は必ず混乱する。
佐竹、結城、北条。
小田へ近付く者達もその混乱を見れば、本当に小田へ付くべきか迷うだろう。
そこへ、宇都宮が動く。
下野の諸家へ使者を送り、小田を恐れる者、小田に不満を抱く者、小田の勢いを止めたい者を集める。
小田が内から揺れた瞬間、諸家へ使者を送り、それらを集める。
そして小田を四方から叩けば良い。
「くくっ……そうだ。和睦だ。和睦を望むと見せかければよい」
尚綱は、卓へ置かれた紙を引き寄せた。
そして筆を取る。
小田政治へ送る書状。
宇都宮は争いを終える。
小田の盟主を認める。
境目の城を明け渡す。
人質も差し出す。
だからどうか直接会い、両家の未来を語りたい。
そんなどこまでも恭順に満ちた文を、尚綱は書き始めた。
「愚かな政治め。民を守るだの戦を終わらせるだの、綺麗事を並べる男なら必ず出てくる」
会見の場は、宇都宮の領境近く。
こちらの兵を隠しやすく、逃げ道を塞ぎやすい場所にする。
礼を尽くした席を作り、酒を出し、笑って迎える。
そして政治が油断した時、一息で首を落とす。
小田の当主を失わせる。
それだけでいい。
尚綱は、書状へ最後の筆を入れた。
「くくっ……これで小田は終わる」
「尚綱様」
その時、襖の向こうから声がした。
「何だ」
壬生綱房殿と芳賀高定殿が、お目通りを願っております」
尚綱の顔が露骨に歪む。
「また和睦の話か」
「……恐らくは」
「入れろ」
やがて、二人の男が部屋へ入ってきた。
先に頭を下げたのは、壬生綱房。
宇都宮家の有力家臣であり、多くの兵と領地を持つ男だ。
その隣には芳賀高定。
宇都宮家を長く支えてきた芳賀家の当主がいた。
「尚綱様」
高定が静かに口を開く。
「先日、和睦を進言した者へ処罰を下されたと聞きました」
「それがどうした」
「家中が動揺しております。民もまた、小田との争いが続くことを恐れております」
「だから何だと言うのだ」
尚綱は低い声で返した。
「小田に頭を下げろと? 宇都宮の名を捨てろと?」
「違います」
高定は真っ直ぐに尚綱を見た。
「宇都宮の名を残すために、今は戦を避けるべきだと申しております。小田は、もはや以前の小田ではありませぬ。佐竹と和し、結城も融和へ傾き、常陸では民が小田を望んでいる。こちらが意地だけで戦を続ければ失うのは尚綱様の誇りではなく、宇都宮の民と家臣達にございます」
「黙れ!」
尚綱は拳を卓へ叩きつけた。
「お前まで、お前まで小田を褒めるのか!」
「私は小田を褒めているのではありませぬ」
高定の声は静かだった。
だが、決して退かなかった。
「宇都宮を守ろうとしているのです。尚綱様が守るべきは御自身の意地ではなく、宇都宮の家と民にございましょう」
一瞬、部屋の空気が凍る。
尚綱の手が、腰の刀へ伸びかけた。
「……芳賀殿」
その時、壬生綱房が口を開いた。
「言葉が過ぎますぞ。尚綱様を責めても家中はまとまりませぬ」
「綱房」
尚綱は僅かに顔を上げた。
壬生綱房は穏やかな顔をしていた。
だが、その目の奥には何を考えているのか分からぬ冷たさがある。
「ですが尚綱様」
綱房はゆっくりと言葉を続ける。
「芳賀殿の申す通り、今のままでは宇都宮が苦しいのも事実にございます。民の中には、小田の品を求める者が増えております。小田の商人が持ち込む油や干魚、丈夫な農具、湯婆まで欲しがる者もおります。足軽達も小田では戦傷者の家にまで手当があると、そのような話をしております」
「……だから何だ。民が小田を羨もうと、足軽が小田を口にしようと、宇都宮の家臣なら宇都宮へ尽くすのが当然だ!」
「当然であれば」
綱房は、穏やかな声のまま言った。
「尚綱様がそれを民へ示さねばなりませぬ。小田より宇都宮の方が良いと、皆が信じられるように」
「……」
尚綱は何も言い返せなかった。
綱房の言葉は責めているようで、責めていない。
だが尚綱の胸を、鋭く抉った。
「小田へ下るつもりはない」
尚綱は低く呟く。
「それだけは絶対にない」
「ならば」
高定が言う。
「せめて和を結び、宇都宮の名を残す道を———」
「和睦ならする」
尚綱は急に言った。
高定と綱房が、僅かに目を見開く。
「……尚綱様」
「小田政治へ書状を送る。宇都宮は和を望む。そのために会いたいと」
「それは」
高定の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
「賢明なご判断にございます」
「そうだろう」
尚綱は笑った。
だがその笑みには、温かさなど一片もなかった。
「宇都宮は小田と和を結ぶ。そして……くくっ」
尚綱は、書き上げたばかりの書状へ目を落とす。
「その席で、小田政治を殺す」
高定の顔から、血の気が引いた。
「な……何を! 尚綱様、それは和睦ではありませぬ! 謀です!」
「謀で何が悪い!」
尚綱は怒鳴った。
「小田は、偽りの噂で我らを陥れた! 笠間の女を使い、我らを欺いた! ならば、こちらが同じことをして何が悪い! これは戦だ! 勝つためならどのような手でも使う!」
「尚綱様」
高定は、震える声で言った。
「そのようなことをすれば宇都宮は、二度と他家から信を得られませぬ。民も家臣も、尚綱様を見限ります」
「見限る者など要らぬ! 小田に媚びる者も! 和睦を口にする者も! 全て宇都宮の敵だ!」
尚綱の叫びが、部屋へ響いた。
高定は、苦しそうに目を伏せる。
壬生綱房は何も言わなかった。
ただ、静かに尚綱を見つめていた。
その目は主君を案じる目ではなかった。
崩れ始めた宇都宮家をどこまで利用出来るか。
それを冷たく測る、そんな目だった。
「……承知いたしました」
綱房は、やがて深く頭を下げた。
「尚綱様の御命令とあらば、壬生は従いましょう」
「うむ」
尚綱は満足そうに頷いた。
高定だけが、動けずにいた。
和睦を望む民、小田を羨む足軽達。
そして意地のために、政治を謀殺しようとする尚綱。
宇都宮は小田の軍勢によって滅びるのではない。
もうすでに、内側から崩れ始めている。
高定は、そう悟っていた。
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