吾妻編第12話 MはBMWじゃねェだろ
K418
パドックの空気は、柳津の講義で和むどころか、さらに刺々しいものへと変貌した。
花に寄り添う高槻健永が、退屈そうに鼻で笑いながら、柳津を冷たい瞳で見据える。
高槻 健永「……Mなんてどうせ、アルファベットの真ん中に居座ってるだけのクソだろ?
能書きはいいから、ワンちゃんみたいに尻尾巻いて帰りな。クソBMWが……」
高槻の言葉は短く、そして鋭く柳津のプライドを切り刻んだ。
柳津の額に青筋が浮かび、眼鏡の奥の瞳が、これまでの彼からは想像もできないほどの怒りで燃え上がる。
柳津 雄介「言ったな、、、、? その言葉、必ず倍返しさせてもらうよ」
柳津は一歩前に出ると、高槻の胸元を指差し、ドスの利いた声で宣告した。
柳津 雄介「もし、決勝でお前が俺より下だったら、、、北上川を裸でカエル泳ぎでもしてな……?
そして、二度と我らがMの悪口を言わないとォ、、、、!!!!」
高槻 健永「...…面白いじゃないか。
いいぜ、北上川の水は冷たいだろうが、お前の涙で少しは温まるかもな。
もし俺たちが勝ったら、お前のその自慢のマシン、全部ピンクに塗り替えて『負け犬専用』って書いてやるよ☆」
岡田「お、おいおい……なんだか話がとんでもない方向に……」
腹切 カナタ「北上川でカエル泳ぎ……。それは、かなり過酷な試練ですね……」
カナタが真面目に心配する中、柳津と高槻の間には、10億円の賞金以上に譲れない「プライド」という名の火花が激しく散っていた。
女王の影で笑う狂犬と、M社の誇りを背負ったエリート。
予選のタイム争いは、いつの間にか「敗北=社会的死」を意味するデスゲームへと変貌していた。
一触即発のパドックに、冷徹で重厚なオーラを纏った女性が歩み寄る。
カナタが最も尊敬する「先生」であり、超高速域の支配者、古賀加奈子だ。
彼女の背後には、V10エンジンを積み、スーパーカーを狩るために生まれた怪物、E60型M5が静かに控えている。
古賀 加奈子「聞き捨てならないわね、、、Mのことを馬鹿にしたって、、、?
まさか、、私のM5ちゃんも……同じ扱いかしら?」
加奈子の瞳には、柳津の怒りとは次元の違う、絶対的な強者の威圧感が宿っていた。
だが、高槻健永はその圧力を、まるでそよ風を浴びるかのように鼻で笑い飛ばした。
高槻 健永「うん☆ きったねェ音だなー☆」
パドックが凍りついた。加奈子のM5が奏でる、F1由来のV10サウンドを「汚い」と言い放ったのだ。
高槻 健永「1番いい音の車は、、、俺!!
かっこいいドライビングも、、、俺!!!
あんたらの自慢の『M』だか何だか知らないが、俺の隣に並ぶ価値もねぇよ☆」
加奈子の眉間が、わずかに、しかし確実にピクリと動いた。
古賀 加奈子「……面白いわね。若さゆえの無知か、それともただの狂気か。
いいわ、柳津くん。彼の『カエル泳ぎ』、私も特等席で見せてもらうことにするわ」
高槻 健永「アハハハ! 楽しみにしてなよ、おばさん!
あんたのM5、本戦で俺の排気ガスの煙に巻いて、ボロ雑巾にしてやるからよ!☆」
高槻の全方位への挑発。それは自信の表れか、それとも破滅へのカウントダウンか。
M社の誇りを汚された柳津と加奈子、そして「俺様」を貫く高槻。
吾妻の予選は、もはや純粋なタイムアタックではなく、互いの存在を否定し合うドロ沼の抗争へと突入していた。
加奈子の放つ絶対的なオーラに、パドックの全員が息を呑む。だが、高槻健永だけは肩の力を抜き、ポケットに手を突っ込んだまま、ひらひらと手を振って笑った。
高槻 健永「あはは☆ 加奈子先生まで出てきちゃった?
いやー、先生のM5も、柳津さんのM4もさ、カタログで見るとカッコいいんだけどね。
でも、生で聞くと……うーん、なんかこう、きったねェ音だなーって思っちゃって☆」
柳津が今にも飛びかかりそうなのを、カナタが必死に抑える。高槻はそんな光景すら楽しそうに眺めながら、自分を指差した。
高槻 健永「怒らないでよぉ。悪気はないんだって。
ただ、1番いい音させて、1番カッコいいドライビングしちゃうのは……結局、俺なんだよね☆」
まるで今日のお昼ごはんの話をするような軽さ。だが、その瞳の奥には、他者のプライドを塵とも思わない圧倒的な自己愛が透けて見える。
高槻 健永「柳津さんもカエル泳ぎ、楽しみにしてるよ?
僕が勝ったら、Mのエンブレム、全部剥がして『ドブネズミ』に貼り替えてあげるからさ☆
あ、先生の分も用意しとこうか? 仲良く泳いでよ、ね?」
古賀 加奈子「……ふふっ。そこまで言うなら、言葉通りにしてもらおうかしら。
もしその口先だけだったら……貴方の喉に、その『M』のエンブレムを叩き込んであげるわ」
高槻 健永「わぁ、怖い怖い☆
じゃ、俺は最高の音響かせてくるからさ。見守っててよ、おじさん、おばさん☆」
高槻はスキップでもしそうな足取りで、自分のマシンへと向かっていった。
その背中には、パドック中の憎悪と、それ以上の期待が入り混じった奇妙な熱気が突き刺さっていた。
パドック全体が凍りつくような暴言を吐き捨てた高槻健永。
柳津や加奈子が怒りに震える中、たった一人だけ、頬を赤らめて目を輝かせている女性がいた。
山吹 花「きゃー☆ 高槻くんカッコイイ、、、、憧れちゃう☆」
女王・山吹花。
さきほどまで相川律を「ハイオクを飲むエラ呼吸のザコ」呼ばわりしていたあの冷徹な女が、今はまるでアイドルの出待ちをする少女のように、両手を合わせて高槻を見つめている。
高槻 健永「あはは☆ 花ちゃんにそう言ってもらえると、俺ますます張り切っちゃうなー☆」
山吹 花「もうっ、高槻くんたら!
その最高のドライビングで、このパドックにいる『有象無象のザコ』たちを全員黙らせてあげて?
高槻くんの奏でる音なら、私、一生聴いていられる自信あるわ……♡」
花は高槻の腕に甘えるように寄り添い、周囲のドライバーたちを「ゴミを見る目」で見渡した。
山吹 花「……何見てるのよ、カエル候補さんたち。
高槻くんがこれから『本物の走り』を見せてくれるんだから、瞬き一つせずにお勉強しなさいな。
あ、柳津さん? 北上川での練習、今のうちにやっておかなくていいの? うふふっ☆」
高槻 健永「じゃ、行ってくるね、花ちゃん☆」
山吹 花「いってらっしゃい、高槻くん! 私、ゴールで最高のご褒美を用意して待ってるからね……☆」
最凶の二人が放つピンク色の毒気は、吾妻スカイラインの冷たい空気をこれ以上ないほどにかき乱した。
高槻は軽やかな足取りで、ついに自身の愛車へと乗り込む。
4日目の朝。高湯温泉の静寂を切り裂いたのは、地響きのような重低音だった。
スタートゲートに現れたのは、地を這うようなロングノーズと、毒蛇を模したエンブレムが光る真っ赤なダッジ・バイパー。
若林「赤いドラゴンがゲートをぬけて予選開始だあああ!!!」
高槻 健永「あはは☆ 聴こえる? この大排気量のビート。
これこそが、世界で一番『カッコいい音』なんだよね☆」
加奈子のM5と同じ「V10」でありながら、その性質は真逆。
精密な楽器のようなドイツ製とは違う、野獣の咆哮。
若林がマイクを握り直し、観客に改めてルールを告げる。
若林「なお、既にお気づきですが、予選は1人ずつ走り、タイムを競い合うことになります!!!
複数のチェックポイントを通過することで、その時点の予選順位を確認出来ます!!!」
若林「予選の順位が決勝で自身のスタートグリッドの位置決めにもなります!!!
さあ、高槻! そのビッグブロックで、先行するライバルたちの記録を食い破れるのかぁぁ!!」
高槻は余裕の笑みでアクセルを煽る。
「ドガガガガッ!!」という、腹の底まで響く爆音。
高槻 健永「じゃあね、花ちゃん。特等席で僕の背中を見ててよ☆
……スタートッ!!」
凄まじい白煙を上げ、バイパーの極太のリアタイヤがアスファルトを毟り取る。
一瞬で100km/hに到達する加速。赤いドラゴンは、大排気量のトルクを武器に、ヒルクライムの急勾配を平坦な直線のごとく駆け上がり始めた。
高湯温泉の急な上り坂。並の車ならエンジンが悲鳴を上げるような勾配を、赤いバイパーは鼻歌まじりに加速していく。
高槻は片手でステアリングを操りながら、無線の向こう側にいる花や、パドックの面々に聞こえるように軽快に笑った。
高槻 健永「あはは☆ 芦ノ湖では俺が1位で86やスイスポを任したんだ……今回も楽勝だって☆」
かつての戦いでカナタや伊藤を下したという揺るぎない自信。
バイパーのV10エンジンが、まるで巨大なドラムを叩くような爆音を響かせ、路面を蹴り上げる。
若林「セクター1を通過!! 信じられないタイムだあああ!!
ヒルクライムの不利を一切感じさせない、純粋な排気量の暴力!!
なんと、暫定2位! 相川のGT-Rを上回るペースで駆け上がっていくぅぅ!!!」
パドックでモニターを見ていた伊藤翔太が、悔しそうに拳を握りしめる。
伊藤 翔太「……相変わらずのパワーだな。
けど、芦ノ湖と吾妻は違う。ここから先のダウンヒル、あの暴れ馬を御しきれるかよ……!」
高槻 健永「ねぇ、柳津さーん? M社の技術だかなんだか知らないけどさ。
結局、最後に勝つのはこういう『バカみたいなパワー』なんだよね☆
カエル泳ぎの練習、ちゃんとしといてよ? あはは☆」
高槻は不動沢大橋へのストレートを前に、さらにアクセルを踏み込んだ。
赤いドラゴンの咆哮が、秋の吾妻山を支配していく。
全長1キロの不動沢大橋。赤いドラゴンことダッジ・バイパーが、8.4リッターの咆哮を福島市街地へと叩きつける。
時速200キロを優に超え、さらに加速を続けるその姿は、パドックのモニター越しでも恐怖を感じさせるほどの威圧感だった。
柳津 雄介「カエル泳ぎするのはお前だ高槻ィィ!!!! そのスピードだとリアがぶらつくぞ!??」
柳津がモニターを指差し、身を乗り出して叫ぶ。
M社が追求する究極の空力安定性とは対極にある、アメリカン・モンスターのバイパー。
超高速域でのダウンフォース不足と、荒々しいトルク特性が、バイパーの太いリアタイヤを小刻みに左右へ震わせる。
高槻 健永「あはは☆ 柳津さん、見ててくれたんだ?
確かにちょっとお尻がダンスしてるけどさ、これが『生きてる』って感じがして最高にカッコいい音なんだよ☆」
若林「うわああああっ!! バイパーの挙動が乱れている!!
不動沢の横風を受けて、赤い巨体が左右にステップを踏む!!
しかし高槻、アクセルを抜かない!! むしろさらに踏み込んでいるぅぅ!!!」
「ドガガガガッ!!」
バイパーのV10が、空気を切り裂く音をかき消すほどの爆音を放つ。
リアがぶらつき、一歩間違えれば橋の欄干を突き破って谷底へダイブする死の領域。
だが、高槻はその「ぶらつき」すらも、強引なカウンターステアとパワーで制御下に置く。
高槻 健永「理屈ばっかりのM様には分からないかなぁ……?
この『死』と踊ってる感覚がさ! ほら、柳津さんも早く水着に着替えてきなよ☆」
柳津 雄介「……狂ってる。あんなの、ドライビングじゃない……ただの自殺志願者だ……っ!!」
柳津が戦慄する中、高槻のバイパーは不動沢大橋を最高速で駆け抜け、セクター2のチェックポイントへと突っ込んでいった。
パドックに響くバイパーの爆音と、高槻への熱烈な声援。その最高の雰囲気をぶち壊すように、一台の白い日産・クリッパーが、パタパタと間の抜けた排気音を立てて山吹花の目の前に停車した。
サイドテールに「弁当万歳」と書かれたその軽トラから、一人の気弱そうな21歳の青年、石井がハンドルに突っ伏しながら降りてくる。
石井「ふぅー、、、やっと今日の配達終わった、、、、」
額の汗を拭い、やり切った表情で空を見上げる石井。だが、彼が足を踏み入れたのは、一般道ではなくエーペックスカップの聖域、そして「女王」の至近距離だった。
山吹 花「………………は?」
花の耳が、不快さで限界まで逆立ち、真っ赤に熱を帯びる。
高槻くんの勇姿をモニターで見守る神聖な時間を、この「弁当の残り香」を漂わせた軽トラ野郎に汚されたのだ。
山吹 花「アンタ……今、誰の前にツラ見せたかわかってるの……?
この『ザコの中のザコ』がぁぁぁーーーっ!!!!」
石井「ひえっ!? な、なんだこの美少女……って、うわあああああ!!!」
キィィィィィィン!!
花の全身から、青白い火花がバチバチと弾け飛ぶ。
次の瞬間、女王の怒りが形となった猛烈な電撃が、哀れな石井に向かって放たれた。
山吹 花「死になさいなアアア!!!!!!!! 弁当と一緒に黒焦げになって、地獄まで配達してきなさいよオオオっ☆
ハイオクどころか、感電死がお似合いよぉぉぉーーーッ!!!」
「バリバリバリィィィッ!!!」
石井「ぎゃあああああああーーーーっ!!!!!(白目)」
パドックを貫く雷光。石井はクリッパーのドアを掴んだまま、盛大に感電して震え上がり、そのまま白煙を上げて地面に崩れ落ちた。
高槻 健永(無線)「あはは☆ 花ちゃん、なんか後ろで派手な音してるけど大丈夫ー?☆」
山吹 花「えっ!? あ、あはは☆ なんでもないわよ高槻くん! ちょっと『ハエ』を叩き落としただけだから……♡」
花は、真っ黒焦げになってピクピク動いている石井をヒールで踏みつけると、何事もなかったかのようにモニターへ笑顔を向けた。
黒焦げになり、クリッパーの影でピクピクと震える石井を見下ろし、山吹花はヒールの音を高く響かせて歩み寄る。
彼女の背後には、依然として青白い電光の残滓が揺らめいていた。
山吹 花「よくも王である私の前に、そんな86よりもボロクズで現れたわね……!!!」
石井「ひ、ひぃぃ……! ぼ、ボロクズって……これでも僕の大事な仕事道具で……」
山吹 花「黙りなさいな☆
その鉄屑が放つ油臭い排気ガスが、高槻くんへの私の純愛を汚したのよ。
アンタみたいな下民は、道端の石っころと一緒に、アスファルトに埋もれていればいいのよぉ!!」
花は真っ赤に熱を帯びた耳を激しく震わせ、石井のクリッパーのフロントを思い切り踏みつけた。
山吹 花「見てなさいな。アンタの運んでいるその『弁当』より、アンタの存在の方がよっぽど賞味期限切れなのよ。
次、私の視界に1ミリでも入ったら……その軽トラごと、福島盆地の底まで叩き落としてあげるわ☆
わかったら、さっさとその四輪の粗大ゴミと一緒に消えなさいッ!!!」
石井「は、はいぃぃぃっ! 配達完了(逃走)ですぅぅ!!」
石井は煙を上げるクリッパーに飛び乗ると、セルモーターを必死に回し、命からがらパドックを脱出していった。
それを見送った花は、ふんと鼻を鳴らすと、モニターの中のバイパーに向かって再び熱い視線を送る。
女王にとって、高槻以外のすべては、ただの「排除すべき雑音」でしかなかった。




