吾妻編第7話 絶対王者の娘
K413
1ヶ月の不眠不休の作業。ガレージには研磨された鉄の匂いと、限界まで高められた緊張感が満ちていた。
ついに迎えた「吾妻GT」当日。HURUTAWORKSのシャッターが勢いよく跳ね上がった。
現れたのは、かつての姿とは一線を画す、闘争本能を剥き出しにした二台の怪物。
腹切カナタ「……行くぞ、86。花を……必ず助けて...いや、助ける!!!!」
【TOYOTA 86 REVIVE - 吾妻GT仕様 / 280ps】
伊藤 翔太「待ってろよ、花!!
『ザコ』の意地、その耳に焼き付かせてやるッ!!」
【SUZUKI スイフトスポーツ ZC33S - 吾妻GT仕様】
二台のエンジンが、古田の執念を代弁するかのような野太い咆哮を上げ、アイドリングでガレージの床を震わせる。
リバンプストロークを活かした独自の車高が、これから始まる過酷なダウンヒルの激戦を予感させていた。
古田 のりあき「よし! 行ってこい!!
お前たちの『言葉』が、あの女王のハイカムに勝てるかどうか……見せてみろ!!」
古田の乾いた檄が飛ぶ。
カナタは無言でギアを叩き込み、伊藤はアクセルを床まで踏み抜いた。
キュルルルッ!! とタイヤが悲鳴を上げ、二台は弾かれたようにガレージを飛び出していく。
目指すは福島市、そしてその先に聳える吾妻スカイライン。
そこには、宇都宮でさらなる魔改造を施し、高槻と共に不敵に笑う「生意気女王」山吹花が待ち構えている。
伊藤 翔太「(花……お前がどこの誰と組もうが、俺は認めねぇ。」
カナタ「(……花。俺、もう泣き顔は見せない。
俺たちの86が、あなたのWRXを越える瞬間を……見ててくれッ!)」
二台のテールランプが、福島の朝靄の中へと消えていく。
それは、友情を捨てた女王への、決死の宣戦布告だった。
数時間前
吾妻スカイライン、標高を上げるごとに霧は深くなり、視界を奪っていく。
その静寂を切り裂いたのは、ハイカムの絶叫でもV10の咆哮でもない。
路面を正確に捉え、無駄のないラインをなぞるタイヤのスキール音と、研ぎ澄まされたK20Cエンジンの硬質なビートだった。
シビックタイプR FL5。ブラックパッケージを纏ったその機体は、闇に溶け込む影のように、つづら折りのコーナーを一つずつ「処理」していく。
柊 蒼真「……この程度の路面変化か。想定の範囲内だな」
ステアリングを握る柊蒼真の表情に動揺はない。
19歳という若さでありながら、彼の走りに若さゆえの荒さは微塵も感じられなかった。
あるのは、徹底した計算と、他者を寄せ付けない圧倒的な自負だけだ。
柊 蒼真「岡田も、久我も……今頃どこで油を売っている。
僕の視界に入る資格があるのは、この峠で僕を納得させる走りを見せた者だけだ」
蒼真は、前方の霧の向こうを見据える。
彼の耳には、遠く下界から響いてくる、騒がしい二台のエンジンの音が微かに届いていた。
それが、古田の手によって280馬力に引き上げられた86と、意地を懸けたスイスポであることは、まだ知らない。
柊 蒼真「……騒がしい連中が来たか。
だが、その程度の出力でこの吾妻を支配できると思っているなら、滑稽だ」
蒼真はシフトを叩き込み、一寸の狂いもなくコーナーのクリッピングポイントを突く。
漆黒のFL5は、王を自称する山吹花や、暴君・高槻とはまた異なる、冷たく鋭い「刃」のようなプレッシャーを放ちながら、頂上へと駆け上がっていった。
柊蒼真のシビックが抜けた後のコーナーに、力強いツインターボの咆哮が重なった。
現れたのは、レーシングカーのDNAを公道に持ち込んだ究極のM、BMW M4 DTM Edition。
そして、その背後にぴったりと張り付くのは、上品なビアンコベージュを纏い、霧の中に溶け込むような美しさを放つフェラーリ・Roma。
柳津 雄介「……前を走るあのFL5、なかなかいい筋をしている。蒼真だったか。若いくせに、自分の分をわきまえたいいラインだ」
雄介はロールケージに囲まれたコクピットで、淡々とステアリングを修正する。
無駄を削ぎ落とした彼の操作に、M4の獰猛なパワーは完全に支配されていた。
柳津 カリン『……評価が高いわね、雄介。でも、ラインが綺麗すぎて面白みに欠けるわ。
私なら、あのアウト側の縁石をもう少し叩いて、あの子の計算を狂わせてあげるけど』
Romaの車内から、カリンの落ち着いた、しかしどこか冷淡な声が無線越しに響く。
彼女は優雅にステアリングを握りながら、先行する二台の挙動を冷静に観察していた。
柳津 雄介「カリン、お前の悪い癖だ。相手の計算を狂わせる前に、自分のタイヤの温度を気にした方がいいんじゃないか?」
柳津 カリン『言われなくてもわかってる。
それより……下から上がってくるあの騒がしい音、何かしら。
古臭い国産車が、必死に命を削っているような、あがきを感じるけれど』
柳津 雄介「280馬力まで絞り出した86とスイスポだそうだ。……古田の差し金か。
面白いが、僕たちのステージに上がるには、まだ少し経験が足りないな」
柳津 カリン『そうね。せっかくの吾妻GTだもの。
せいぜい、私たちの引き立て役として、無様に散ってくれればいいわ』
二台の欧州車は、まるで優雅なダンスを踊るかのように、霧の峠を滑走していく。
自分たちが「強者」であることを疑わない、静かなる傲慢。
それは、感情を剥き出しにする花や高槻とはまた違う、洗練された「冷徹」だった。
吾妻GT本番を1ヶ月後に控えた、深夜の磐梯吾妻スカイライン。
公式の熱狂が始まる前のこの場所は、選ばれた者たちだけが路面と対話する、静かな聖域と化していた。
漆黒のシビックタイプR(FL5)を操る柊蒼真は、標高を上げるごとに深くなる霧を、鋭い眼光で切り裂いていた。
今はまだ「ならし」の段階。タイヤの表面温度を均一に保ち、サスペンションが馴染むのを指先で感じ取っていく。
柊 蒼真「……ブレーキの焼き入れは終わった。
次は、このつづら折りでのロールセンターの微調整か」
蒼真がパーキングエリアに車を止め、外気に触れてクールダウンさせていると、背後から二つの洗練された排気音が近づいてきた。
BMW M4 DTM Editionと、フェラーリ・Roma。
柳津雄介とカリンの兄妹だ。
柳津 雄介「……止まっているのか、蒼真。
ならしの最中に、早くも限界が見えたわけじゃないだろうな」
雄介はM4のウィンドウを下げ、冷ややかな視線を蒼真に投げた。
その横では、カリンがRomaのシートに深く身を沈めたまま、退屈そうに夜の山々を眺めている。
柊 蒼真「……柳津か。
君たちこそ、その高価な欧州車をこの荒れた路面で壊さないよう、精々ゆっくり走ることだね」
柳津 カリン「ふふ、心配いらないわ。
私たちはこの子の『機嫌』を伺っているだけ。
本番であなたをミラーの点にするための、準備運動に過ぎないもの」
カリンは落ち着いた声で、兄の雄介に視線を送った。
柳津 カリン「ねえ雄介、もう一本行きましょう。
この先のヘアピン、もう少しリアのストロークを試しておきたいの」
柳津 雄介「ああ。蒼真、邪魔だ。そこをどけ。
俺たちの『ならし』は、まだ終わっていない」
蒼真は無言でシビックに乗り込み、エンジンを再始動させた。
互いに手の内は明かさない。だが、アクセルを踏む足に込めた静かな闘志が、霧の中に鋭く響き渡る。
三台のマシンは、再び闇の中へと消えていった。
柳津 カリン「ふふ、余計なお世話よ。
この子のポテンシャルは、まだ一割も出していないわ。
雄介、蒼真をからかうのはそれくらいにして、もう一本行きましょう。
この霧なら、ブラインドコーナーでの感覚を研ぎ澄ますのにちょうどいいじゃない」
カリンは落ち着いたトーンで、兄である雄介にだけは親しげなタメ口で語りかけた。
柳津 雄介「……そうだな。カリン、先行しろ。
俺が後ろからラインを見てやる。蒼真、俺たちの邪魔だけはするなよ。
今はまだ『ならし』だが……本番では、そのシビックをスクラップにするつもりで走るからな」
蒼真は答えず、無言でシビックのコクピットに戻った。
三台のテールランプが霧の彼方へと消えていく。
本番まであと1ヶ月。静かな山々に、互いの存在を認めながらも決して相容れない、冷徹な闘志だけが残された。
深夜の「道の駅 吾妻山」。標高1,600メートルの山頂は、下界の湿気とは無縁の鋭い冷気に包まれていた。
ならし走行を終えた三台の機体――ブラックのFL5、DTM仕様のM4、そしてビアンコベージュのRomaが、月明かりの下で熱を放っている。
パチパチと金属の収縮音が響く静寂の中、柳津雄介が口を開いた。
柳津 雄介「……俺は、柳津雄介だ。お前、名は? 確か……」
柊 蒼真「柊 蒼真です。……鈴鹿レーシングスクール(SRS)を卒業しました」
蒼真は、自らの出自を隠すことなく淡々と答えた。その言葉には、選ばれた者としての揺るぎないプライドが滲んでいる。
柳津 雄介「へぇー? HONDAは嫌いじゃないよ。エリート様のお出ましってわけか。
……ところで、わざわざこんなところで走ってるってことは、やる気か? あの『赤い戦闘機』を」
雄介の瞳に、一瞬だけ鋭い「毒」が混じった。
柳津 雄介「アイツだけは……俺が仕留める!!
今まで完績なきまでに叩きのめされてきたんだ。お前に譲る気は……さらさらない」
雄介の拳が、M4のルーフの上で固く握られる。それは、かつて浴びせられた屈辱を、エンジンの爆発に変えようとする男の執念だった。
柊 蒼真「何か言うと思ったら、そんなことですか……。
個人の因縁など興味ありません。僕はただ、この峠で僕が『最速』であることを証明するだけだ」
蒼真は冷ややかに、雄介の熱を切り捨てた。
柳津 カリン「お兄ちゃん……。熱くなりすぎよ」
カリンが静かに、落ち着いたトーンで雄介を嗜める。その冷徹なまでの冷静さが、場に張り詰めた空気を少しだけ緩めた。
柳津 雄介「……カリン。そうだな、行こうぜ。話の無駄だ」
柳津 雄介は、吐き捨てるように言ってM4のシートへ身体を戻した。
柊 蒼真「おい!そりゃないだろ!!」
背後からかかる蒼真の声を、雄介は不敵な笑みで受け止める。
柳津 雄介「……残念だよ。君とはレースで仲良くなれそうな気がしたんだけどな。
特に、あの『RZ34』使いのちとせさんとな……。
大体300馬力が?せいぜい1ヶ月後、俺の背中を見失わないように練習しておくんだな」
咆哮を上げるM4とRomaが、深夜の峠を下っていく。
一人残された蒼真は、漆黒のシビックのステアリングを握りしめ、霧の向こうを見据えていた。
柳津兄妹のテールランプが霧の彼方へ消え、再び静寂が戻ろうとしたその時。
道の駅の入り口から、これまで聴いたこともない「異様な音」が近づいてきた。
それはエンジンの爆気音ではなく、空気を切り裂く高周波のモーター音と、巨大なダウンフォースが路面を押し潰す風切り音。
現れたのは、鮮烈な「ライトニングイエロー」に彩られた、カーボンパーツを纏う鋭利なセダン。
柊 蒼真「……なんだ、あの車は。見たことがない。だが……速そうな車だな……っ!?」
シャオミ SU7 Ultra '25。
スマホメーカーが放った、1500馬力を超える電気の怪物が、ブラックのシビックの隣に音もなく滑り込んだ。
ガルウイングのような迫力を放つドアが開き、そこから一人の少女が降り立つ。
金髪のポニーテールに、オレンジ色のパーカー、その上に紫色のジャンパーを羽織った、どこかあどけなさが残る女子高生。だが、その瞳には夜の山をも見透かすような鋭い光があった。
樋口 瀬那「……ふぅ。やっぱりここの空気は冷たいね」
柊 蒼真「……君は誰だ? その車は……」
少女――樋口瀬那は、蒼真の問いかけを遮るように、まっすぐ彼の目を見据えた。
樋口 瀬那「赤い戦闘機の話がしたいの。
……絶対王者の娘としてね?」
柊 蒼真「……は? あの『吉田さん』の!? まさか……」
蒼真の背筋に戦慄が走る。
日本のレース界、そして峠の伝説にその名を刻む絶対王者・吉田。その血縁が目の前にいる。
樋口 瀬那「まあ、実際は姪っ子なんだけどね。今は義理の娘なの。
お父さん(吉田)を完敗させたあの『赤い戦闘機』……。
それを誰が仕留めるのか、特等席で見極めさせてもらうよ」
瀬那は自慢のSU7 Ultraのボンネットに腰掛け、不敵に微笑んだ。
1500馬力のEVモンスターと、絶対王者の遺伝子。
吾妻GTを揺るがす、最大にして未知の変数がついに姿を現した。
ライトニングイエローのSU7 Ultraが放つ、鮮烈な輝きが霧を照らし出す。
樋口瀬那はイエローのボディに背を預け、冷えた指先をオレンジのパーカーに突っ込みながら、蒼真に問いかけた。
樋口 瀬那「じゃあ、わかるだけ教えてよ、赤い戦闘機について……。
お父さんを負かしたあの車、一体何がそんなに特別なの?」
柊 蒼真「いいが……あいつは化け物だぞ? 生半可な知識で追える相手じゃない」
柊蒼真は、漆黒のシビックのボンネットに手をおき、脳裏に刻まれたあの「赤」の軌跡を反芻する。
かつて共に走った仲間の、変貌した姿。
柊 蒼真「腹切カナタのREVIVE 86……正確にはトヨタ86GTにボルトオンターボを入れたものだ。
後ろ姿を見ればわかる。荒々しい4本出しマフラーが、過給機付きの証拠だ。
あいつの真骨頂は、その狂気じみたコントロールにある。
コーナーの入り口、一瞬の淀みもなくリアを流し、アスファルトに鋭いナイフを突き刺すかのようなドリフトを仕掛けてくるんだ」
樋口 瀬那「ナイフを突き刺す……。ずいぶん鋭い例えだね」
柊 蒼真「ああ。並のドライバーなら、その挙動を見た瞬間に置き去りにされる。
常に赤い戦闘機の背後に張り付いている俺でなきゃ、その一瞬のライン変更は見逃しちゃうね。
あいつはただ速いんじゃない。相手の神経を逆撫でし、精神から削り取っていくような走りをするんだ」
樋口 瀬那「……なるほど。
1500馬力の私のSU7でも、その『ナイフ』はかわせるかな?」
柊 蒼真「パワーの問題じゃない。
この吾妻の霧の中で、あいつは路面を『見ている』んじゃない……『感じている』んだ。
吉田さんの義理の娘として、覚悟しておいたほうがいい。
あいつは今、かつてのカナタじゃない。
誰の追従も許さない、孤独な戦闘機だ」
瀬那は静かに頷き、山の下から聞こえてくる微かな排気音に耳を澄ませた。
280馬力に引き上げられた86の咆哮が、もうすぐそこまで迫っている。
霧がさらに深く、そして重く立ち込める道の駅吾妻山。
漆黒のFL5とライトニングイエローのSU7 Ultraが並ぶその光景は、静寂の中にもひりつくような狂気を孕んでいた。
柊蒼真は、夜空を睨みつけながら、かつての均衡を思い出すように語り始めた。
柊 蒼真「普段は伊藤翔太のチャンピオンイエローカラーのスイスポに、山吹花っていうWRX STI VAB型……半年前までターマックでも少し活躍してた『青の電撃の桜狼』とよくつるんでいるんだ。
あいつら三人で走っている時は、まだ『チーム』としての形を保っていたんだがな……。」
樋口 瀬那「ターマックの桜狼……。名前は聞いたことあるかな。
でも、蒼真さんの言い方だと、今はもうその絆すら意味をなさないって聞こえるけど?」
柊 蒼真「ああ。アイツは、一人でも十分やっていける。生き残れる……。
そんな、他者を突き放すような走り方をするんだ。
桁が怪物なんだよ……あの赤い戦闘機は。
仲間がいるから強いんじゃない。一人の修羅として完成されているからこそ、あの赤い閃光は恐ろしいんだ。
俺たちのような『走りの理論』に縛られている人間には、決して届かない場所にアイツはいる。」
蒼真の言葉には、かつての戦友への敬意と、それ以上の拭いきれない戦慄が混じっていた。
かつて『桜狼』と呼ばれ、仲間を支えていた山吹花ですら、今は生意気な女王へと変貌し、高槻の隣にいる。
それでも、カナタだけは揺るがない。
仲間の離反も、マシンのパワー差も、すべてを飲み込んで加速する孤独な戦闘機。
樋口 瀬那「……ふぅん。
仲間すら必要としない、孤独な怪物。
でもね、お父さんが負けたのはその『孤独』にじゃないと思うよ。
その赤い車が放つ、抗いようのない『生』への執着に負けたんだ。
……1500馬力の電気の力で、その執着を上書きできるか、試してみたくなっちゃった。」
瀬那はSU7 Ultraの冷たいボディを指先でなぞり、不敵に微笑んだ。
その時、山の下から、再び空気を切り裂くような鋭い音が聞こえてきた。
280馬力のREVIVE86――。
ナイフのようなドリフトで霧を切り裂く「赤い戦闘機」が、ついにこの山頂へと姿を現そうとしていた。
次回 吾妻GT、開幕!




